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I can (not) have a happiness.

アクションスパイ映画かと思ったら、宇宙パイロットを育てる物語だった。当時、好評を博しており、そのうち見ようと思ったら5年経っていた。気をつけようね。



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エグジーの成長する過程や、ハリーとの父子のような関係は素晴らしく描かれており、まさしく絶賛できうる作品である。これがヒューマン・ドラマなら。


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アクション映画としては、まったく退屈なシーンの連続であり、まるで自称映画通を喜ばせるようなパロディの連続には興ざめした。スパイ試験は「ボーン」シリーズのそれほど、過酷でなく、リアリティの欠片すらなく、ままごとのようであった。スカッとアクション映画として見れば終盤は面白い。


ただ、終盤のあるカットはちょっと面白かった


銃Fixカット ☆
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銃をFixしながらもカメラはぐるりと90度回転する。奇抜でいいカット。これもなにかのオマージュなのかな?あまり見たことがないけれど。こういうのが間に入ると脳の処理が遅れるので、アクションシーンにはうってつけ。

さて先日、この記事について

対決03対決02

このように大匙屋さんから指摘が入った。で、記事を書いてはいかがかと言われもいるし、この件について考え直すことにした。この件とは、つまり「政治的主張に作品を利用するか否か」である。まずは要素を一つずつ追っていくことだ。

この件は倫理的な問題がメインだ。つまり、個人のモラルや態度、それだけ。だから、これはぼくがどのように不快になったかが肝心なのだ。きっかけとなったツイート、ぼくが不愉快に感じたツイートは見つからなかったが、だいたいの要旨は覚えている。

「シン・ゴジラのとおり、この国は縦割りの行政が足を引っ張っている」

いやわかる。内容については、別に反対もない。スピードさが微塵もない後手後手に回っている対応を見れば、そのとおりだ。書いていて分かってきたが、不愉快だったのは、「シン・ゴジラという映画を見ただけで行政や国家についてまるっきり理解しきったその横柄な態度」である。それがおそらく、いつもならば別館に投げつけるようなところを本館ブログで公開した、というところだろう。つまるところ、正確に言うならば、先日の記事の主張は、「映画だけでなにかの事柄について理解した気になった発言をされるのが不愉快である」というマア、ぼく個人のナーバスなものであった。

この記事を書いたあと、上記画像ツイートでも述べているが、自分自身でも違和感を感じた。自分でも引用しているじゃないかと(それが「リーガルハイ09」である)。しかし、媒体を問わずに、公開される作品はその時代背景の影響を受けないことはいっさいありえない。ということは、作品じたいに政治的な主張が含まれていなくとも、その時代の世界の影響、たとえばSFボーイミーツガールの流行であったり、セカイ系であったり、貧困であったり、はいくらでも受ける。2019年に公開され大ヒットした、「ジョーカー」などまさにその典型例ではないか。

すなわち、すでに作品じたいに政治的なメッセージは意図せずとも込められている。込められていなくとも、時代背景を受けているために、人々が現実世界の問題に対して映画などを引用することはまったくおかしくない。「この問題は、あの漫画や映画と似ている」と、共通項を探すことで、その作品の普遍性を改めて実感することもできる。この1件を受けて、もう少し精緻に論理を組み立てて書くべきである、その点については失礼した。作品と現実世界は切っても切れないもの。その認識はきちんと持つべきだ。

ただ、「この世界の片隅に」における政治的な論争がくだらないという主張は変わり得ない。別に好きにすればいいが、あの映画において、細かいめんどうな問題に突っ込んで議論することに有意義な部分はなにもない。それは大匙屋さんもDMで認めているところで、多くの人がそこについて議論していることを残念がっていた。これくらいのやり取りのバラシはおそらく寛大な大匙屋さんは怒らないはずだ。たぶん。



あ、ここからは蛇足です。書きたくなっただけ。






《+α》《+β》

対決01

さて、「《+α》《+β》」と題したのは、このようなあからさまなアジテートを仕掛けられたからである。それで、ぶっちゃけ、内容についてはどうでもいい。ここでは書かない。これを見てから、ぼくは大匙屋さん、ぼくはその本人について書きたくなったのだ。そういえば、かれについてぼくは書いたことがない(※まあブロガーについてなどめったなことがないと書かないだろう、だいたいこういうのは気恥ずかしいし読者にとっては楽屋ネタのようなものでよくない)。だから。この”ついでに”乗じて書く。読者のみなさまにはまったくもって失礼だがご承知いただきたい。

ぼくとかれとの関係はけっこう長い。もはや6年くらいになる。「ヱヴァQ」を見た後このブログを作ったのだが、その後「ナウシカ」「うる星やつら156話」の庵野爆発を取り上げたりする内に親睦を深めていった。そもそも、かれのブログを知ったのは、「爆発1/2 金田爆発、庵野爆発」である。ぶっちゃけると、「こんな風に分析する人もおんねや」と文章を読んだわけではなく、やっぱり庵野ってすげえや!とスライダーをくいくいっと動かしていた記憶しかない。接触は「寒天プール」の際だ。正確に言えば、「あずまんが大王 第04話のプール表現。と、その先」の記事。これにTwitter上で、ぼくは罵詈雑言ではないが意見ともいいがたい微妙なツイートをした。

思い出01

そこにメンションをもらい即謝罪をし今に至る。さいしょのころは、まさしく殿上人であった。かれの書く記事はたとえば、自分自身が黙殺してしまった事柄を取り上げて批評をしていた。記憶に新しいのは、「プラウダの退き口」であろう。液体作画に対する執着はすさまじいものがあり、味噌汁の記事には驚かされた(あれには怒りが含まれている;なんだこの味噌汁はという怒りがぼくには見えた)。豊富な(圧倒的な、ないしは過剰すぎる)資料、知識、テキスト、これに同じ土俵で挑むのは無理であった。ゆえに、ぼくはじぶんがアニメに対する知識がないことを反らすために、地道に画面から拾った要素をもとに作画解釈をするしか道がなかったのだ。余談であるが、ぼくが最もよく書けた記事はこれ。今見ても、ああ、これ以上は書けていないなとおもう。まあそんなことはどうでもいい。いまは大匙屋さんのことだ。

かれの知識や資料の数はとんでもなく、的確にそして簡潔にわかりやすく記事を書く。すごいなあとは思いつつもなにか違和感が残る。その「違和感の正体」は別の方がしっかりと指摘されている。

大匙屋さんについて。大匙屋さんに向けて[かなり深刻な記事]
http://blog.livedoor.jp/chokohame/archives/52040008.html

ぼくはちょこハメさんのこの文章が絶妙だと感じている。
じぶんではこれ以上の的確さは出せそうにないので引用させてもらうと、
「大匙屋さんならもっと行けるはず」という考えはあるんだよね。つまり、しつこいようだけど(笑)、「寒天プールについて中立的、あるいは可謬主義的スタンスを保ったまま批評することができたはず、体系的な成果を得ることができたはず」という思いがあるわけ。三回ドカンについても同様で、帰納によって体系化する姿勢を見せながらもやはり批評的なスタンスの保持を諦めてしまう。
(中略)
おれが気持ち悪い奴(妙な奴)なだけなんだけどまあ、この気持ち悪いやつをも承服させるレベルに大匙屋さんは行ける可能性があるということなんだよね。
そう、もっといけるのだ。身も蓋もない言い方をすれば、めっちゃ体系化するような素振りを見せておいて最後はどこかに放り投げてしまう感がある。なにか本人には考えがあるのかもしれないが、当時から、この記事には全面的に同意している。ああそうそう、ちょこハメさんもすごいよ。ぼくはずっと作画でもアニメでも書くことに復帰して欲しいと願っているし、当人にもその思いは伝えた。ブログを書く上ですさまじい影響を受けたのは、ちょこハメさんと大匙屋さんの2人からだけ。

ちょこハメさんについて書くならば、野中作画の点だけで十分だろう。2014年当時、野中作画のタイミングについて、「木上作画のコミカルなやつ(と手触りが似ている)」とすっぱり言ってのけた。当時はまったくもって理解できなかったが、2019年になってようやく理解できた。野中のタイミングがきわめて異質なもの(そして特別に斬新なもの)であり、その上で木上作画のタイミングを持ち出せる人はいない。竹内とか田中とかはだれでも言える、木上や上妻作画は出てこない。持ち出せない。それだけ。あ、ちなみに凪あす17話まだ未見です。すいません。

彼ら2人はウエブアニメ評論として代表されるべき人物だ。スパチャされるべき。投げ銭されるべき。それだけは間違いない。あ、ちょこはめさんはちょっと文章が難しいかな・・・。いや、ぼくはあの文章が好きなんですよ。ああいうクセっ毛のような文章が好き。いっけん難しく見えるけど、取り繕うようには難しくしていないので明確に分かる。2年後とかに読むと理解できる。最後に大匙屋さんへ。「磯作画について書け」って毎度毎度ぼくは言ってますけど、これ冗談じゃないよ。2009年のあのラブレターのような磯光雄についての記事を見ると、あなた以外には書けないとおもう。

昨今、新型肺炎など政権責任問題の際に、「シン・ゴジラ」などのフィクション映画の内容を持ち出す人がいます。それは日本のネット上で見られる右翼左翼のように、どちらの陣営もです。まるで、自分の考えを代弁させるように、混紡などの武器として使うケースが多々見られます。「シン・ゴジラ」の作り手はネトウヨであるとか、ファンもそうであるとか、そういったくだらない次元のことは意味がありません。

これは「この世界の片隅に」でも同様でした。戦争映画としての解釈を否定しているのではありません。自分の思想的な意見や考えを補助するものとして、映画を使うべきではありません。自分の主張を成立させようと、もしくは戦争映画的な解釈において、最後の部落問題に対して争うことに意味はありません。些細な思想で争い、本質的なすずさんの心境を追わないことはまったくもって無粋・愚かという他ありません。少なくとも、うちのブログ読者にはそういった人々がいないことを願います。

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