・「下ネタという概念が存在しない退屈な世界(2015)」
いやあ最後まで楽しめました。アホなタイトルだったんで、アホな世界観なのかなと思ったらそんなことはなかった。ミスリード誘うタイトルで良かった。

故・松来未祐の演技はきわだっていて、アンナの異常さを補助します。彼女のキャラは面白かった。「”正しいことをしていない”から奥間くんは自分を受け入れてくれない。だから”正しいこと”を(=卑猥なものを撲滅)すればいい」という異常さ!でも、奥間くんは狭量だな~。青も言っていましたが、憧れの人の少し嫌な側面みたくらいでそれを放棄するものなのかな。幼少期の自分を救ってくれた人で、あれだけの美少女で、自分に好意をもってくれている。アンナ先輩を諦めるのが早かった印象。だから、奥間くんにとっては、”清楚な”アンナ先輩以外ありえないんでしょうね。もうアンナ先輩ではなかった、アンナ先輩の形をしたなにかだったんでしょう。

あとは風紀委員の存在も面白かった。「卑猥なことを卑猥と理解して、取り締まれる組織」とありながら、認識がコロコロ変わってしまう。その不気味なズレ方は、けっきょく卑猥を理解していない、ということかな。アンナの保護役みたいな感じもしましたが。

「SOX(ソックス)」と「群れた布地」の反体制どうしの対比も良かったです。「群れた布地」は私利私欲のためだけにSOXに便乗するわけですから、まあ最悪ですよね。反体制なのに肩入れできない。「SOX」はテロ行為を行いつつも、致命的なテロは起こさず、あくまで健全に「卑猥さ」を社会に取り戻そうとしているのが良い。セックスは悪いことでも、汚れたことでもないですからね青の言う通り。こすりは父親の不甲斐なさで、(あんな生ぬるいやり方じゃ世界は変わらない!と)過激派になってしまった。最後は、ああこれは間違っていたと悔いていたので父親とも和解できそう。

不破さんすこ。ダウナージト目キャラってだけで、プラス5000点から始まりますね。

3.5/5.0



・「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか(2015)」
あれだろ?ヘスティアの紐だけなんだろ?と思っていたら、けっこう面白くて驚いた。
僕の勝手な想像では、ヘスティアとベルくんが二人イチャイチャしながらダンジョンを回るのかなあとか思っていたら、予想以上に作り込まれていて驚きました。1、2話のモブ作画とかちょっと異常に思うほど、描き込まれていた。ベルくんがぞんざいに扱われているシーンなので、モブも気合入れたのかな。モブを醜悪に描かないとベルくんの悲惨さが出てこないから。アクション作画もすさまじく、1話の煙から良かったですねえ。8話は三木達也タイミングがあったんで、暇があったら取り上げます。たぶんあそこのエフェクトは三木さんだ。

ところで、ベルくんは天才系なんだろうか?それとも努力系なんだろうか?いっけん努力系に見えますけど、特別なスキルの恩恵(思うだけ思うほど?みたいなやつ)はすさまじく。いやでも、あれだけの修羅場をくぐり抜けた人間を、「天賦の才があったおかげだろ」で片付けるのはダメだね。まあ、ヘスティアよりは、ロキ・ファミリアの姉妹のおっぱいが好きです。そしてベルくんも可愛いねんなあ…鎖骨と肩甲骨がセクシーです。

あとはなんだろう。暴行・グロ描写が良かったですね。地味に痛そうな感じがよくできていた。サポーターのリリルカが足蹴にされているシーンは素晴らしかった。キャラを見て胸糞悪く感じたのは久々でしたので。リリルカのエピソードは良かったですね、ベルくんの一言が至極。あれは救われる。

ベルくんへのヘスティアの愛を丁寧に描いていたのが、おそらくアニメでは珍しい。ここまでヒロインが「一緒にいたい」「ボクのものなのに」とか直接的に言うのは珍しい気がします。いや、下セカのアンナは例外ですよ。あれは異常なので。ゆがんでいない愛情の中で、自分の気持ちを素直に伝える、というのが珍しいとおもう。あ!ヘスティアがベルくんとデートにいくときの格好は、これじゃない感がすさまじかった!!!!服や髪の毛が似合ってなくてあんま可愛くねえ!!!!でも、そのデートっぽいことをしようと背伸びしている感じは可愛くてよかったです!!!!!

おっぱいはロキ・ファミリアのお姉ちゃんのほうが良い。ヘスティアのおっぱいはあれだ、ロリすぎる上に露出が多くて興奮しない。だんだん慣れてきちゃう。そういう意味ではリューさんみたくふだん着込んでいる人のほうがいいですよね。ギャップがある。二期も今夏やるそうで楽しみです(※というか1クールで終わってしまってびっくりした)。おっぱいのことしか言ってねえな。

4.0/5.0

それはきわめて辛い作業だからだ。

なにが辛いのか。批評的になるということは、「良い」部分も「悪い」部分も、なるたけ客観的に見なければならない。自分の主観をなるべく押し潰して語らないといけない。良い要素は隠れた部分を除けば、だいたい分かることで。批評的になるときは、悪い要素がメインになってしまう場合が多い。つまり、「これはなぜクソに見えるのか?」ということを構造的に語るときには、悪い要素も取り上げなければ批評とならない。良い部分を取り上げても、それがクソな作品の原因ではないので意味がない。

なるたけ、本当になるたけ、中立性(主観性を少なくする)を保ちつつ、批評しようとする。それで、批評的な文章が出来上がる。読者からのツッコミが入る。これは良い、誰からかツッコミが入るのはむしろ喜ぶべきことで問題がない。なにが辛いのか。それは、クソな作品を見直すことだ。ツッコミが入った時点で、その部分をもしくは全体を見直す必要性が生じる。自分がクソと感じ、構造的な悪い要素に起因すると考えたことを、もう一度見直さないとならない。自分が好きでもない作品に対してだ。

重ねて言おう。仕事でもないのに(なんなら足が出ている)、自分がクソと考え論評したアニメ作品を見直す必要があるから、批評的な文章は体力と精神を大変に消耗する。だから辛い。

─そうであるならば、最初からやらなくていいのでは?─
こう思う人がたくさんいるだろう。


エセ批評家やその類の文筆家が批評をしていたら、べつに僕のような素人が批評することもない。大して必要がない。先日の記事通り、批評と体系化の努力を怠り、「”楽屋チックな裏話”こそが批評」という論評の土壌を作ってしまったことこそが、明確な失敗である。そして、「批評性のない批評」を生み出した最たる原因だ。なにがいいたいか。エセ批評家・研究家・編集者は、自分たちの仕事を放棄したくせに報酬をもらい称賛されているので、くたばってしまえ、ということだ。

「批判すると仕事がなくなってしまうから」というなんともジャーナリズムにあるまじき情けない理由で、批評活動は、今日において日本内アニメに対してほとんど行われていない。それでもなお、「なんちゃって批評家(実情はインタビュアーだろうな)」を褒め称えて、かれらの仕事を評価したために、アニメ・漫画映画からは批判性質が失われた。これは、しみったれた前世代的な「知識量を権威」とみるところに起因する。つまりは、たくさんの知識を所有しているから権力がある、という風潮は未だに根強く存在しているのだ。目の前の箱や板によって差異が少なくなったにもかかわらず、知識の所有の優位性(「あの作品にはこんな裏話があった!」という態度)にいまだ強引に縋り付いているのだ。知識優位的権威の姿勢は、批評から批評性を奪い映像評論を成り立たなくした。同時に、批評することによって得られる体系化もされてこなかった。

つまり、いま僕たちが見ているアニメは、どのような風に地続きになっているのか、だれもかれもさっぱり分からないのだ。体系化など微塵もしてこなかった。そして、一部のみが、その地続きを所有している風に見せかけており、あるときは隠したり、あるときはまるで全て把握しているかのごとく喋ることで権威を維持している。眉唾ゼロ年代批評もその一部である。「なにか賢そうなことを言っている」という、逆説的な知性のなさに、批評性はまったくとして必要とされなかった。そこに、「知性がありそう」と思わせるだけでアニメオタクを錯乱させるのには十分だった。

現状、地道に良いところ/悪いところを列挙しても、「悪いところ探しをするな」と言われる事態だ。比較分析すれば、「好きなアニメを持ち上げるために、別の作品を持ち出すな」と予想外の家から投石が届く。この国民に批評は早すぎたとしか思えない。ひとたび意見すれば、否定と勝手に誤った認識を起こし拒否を行う。否定と批判と、嗜好と分析、主観と客観の区別がつかない。そんな論理性が欠けた国民であるがゆえに、アニメ批評の土壌は育たなかったし、これからも作られることはないだろう。


さあ、「知識を捨てよう」といっても受け入れられない。なぜか。知識こそが彼らのアイデンティティであり、彼らの自尊心を支える石杖だからだ。それを捨ててしまっては何もできないのだ。なんと情けないことか。かれらは汚くなってしまった十二単を脱げない平安貴族である、さて脱ぎ捨てて楽になろうと言ってもなれない。なぜか。それが、彼らにとってはステイタスであり常識だからだ。腐り果てるまで、十二単を脱ぐことはないだろう。

知識は楽しむもので、知識ありきの態度を他人に押し付けるものではない。所有していないと駄目なものではない。クリエイターのインタビューなど、眉唾ものでその発言は信じるに値しない。いちばん大事なのは画面である、それだけ。そんなシンプルなことを5年続けても、ほとんど伝わっていないと思う。「画面を楽しむこと」はひっそりと忘れ去られている。副産物であるクリエイターの裏話などが主たる”批評”になっている。未だにあのようなエセ批評家どもの文章を読み、文章やコラムに金を払っているのがその証左であり僕の憎悪だ。はっきり言ってしまえば、ぼくはアニメを見る習慣などない。アニメを見ない理由にとくだんのものなどない。だからこそ、ほんとうに偶然別の角度から入ってこれたと考えているが、これだけ多くの人間に本当の意味での思考や寛容のなさを感じると辟易する。

いつまでも親鳥のエサを待つ小鳥のようだ。

知識満点のステーキコラムを読み─
それらしい要素が散りばめられたエッセイを読み─
汚いコネ知識に金を払い─
とんでも理屈に感銘を覚え─
いっけん賢そうな論壇を真似していく─


そうしていつまでも、本質たる画面を置き去りにするのだ。画面の技術やクリエイターを「わからない/知らない」と言えない社会は息苦しい。気軽に教えてもらえない雰囲気が漂う社会はつねに苦痛で嫌気が指す。「知っていて当然/知っているべきだ」という態度や前提がいかに多くの人を遠ざけているか、諸氏は自省されたい。

クリティックの存在しないアニメ言及は成長せず、フィードバックもないので、アニメそのもののクオリティも向上しない。脚本家は推敲を繰り返し、原画マンは不眠不休で働き、動画マンは貯金と命をすり減らし、制作進行は何人も過労で倒れる、そうやって作られた作品自体の批評をさして行わないのだ。異常ではないか。現場を考慮して同情的になることは、むしろ彼らにとって侮辱的ではないか。彼らの労力をただ称えたり、彼らの血反吐に前時代的な拍手をし感動ポルノ化させ咀嚼するのみが僕らの役目か。きわめて懐疑的にならざるを得ない。

本当に評価されるべきクリティックは評価されずに、ネットを漂っているばかりで見ていられない。アニメーションという素晴らしいものはあっても、この国にはそれは早すぎた。いち映画監督である山本寛が、前述した批評家たちなどとは比類しない批評的文章を開陳できる現状は正直に言って異常というほかない。


[追記]
わかりにくいのは僕の文責なんで、チラ裏はどっか他所でどうぞ。ゼロ年代批評のあの賢そうな文体は嫌いな人も多そうだから反発する気持ちは分からんでもない。ああいう感じを皮肉ったつもりだったんだけど、後出しじゃんと言われたらそれまでだねえ。そこはすまんごねえ。というか、表面はどうでもいいです、内容の批判なら受け付けますよ!議論しましょう!

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