GOMIstation

2025-1

2014年11月

何かあんま更新できないのもアレなので。
(※一応、Fate、グリザイア、君嘘に関しては必ず感想記事出しますので、ご安心を。少しばかり遅れるかもしれませんが…そこはごめんね。) 

「ソードアート・オンライン」を最近見始めたんですが、いやあそこそこに面白いですね。売れる、人気になる理由も分からんではないです。というかメッチャ分かる。ああ、これは人気出て2期もやるわなと。



■『ソードアート・オンライン(2012)』 #1
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1つ目は、90度回転の擬似バレットタイム。2つ目は180度超えのカメラワークによる、バレットタイムですね。多分そう言って大丈夫だと思う。で、こういったバレットタイムを何故使用するかですが、もう単純にカッコイイからですね。スポーツでも、「ボールが止まって見える」じゃないですけど、そういった「スローモーションのように見えるほど集中できた」経験って誰しもあると思うので。そういった現実に起きる事象の誇張的表現だと思うんですね。だから一見、デフォルメ(ハイスピードカメラで撮られるような)っぽいんだけど、実はめっちゃフォトリアルな表現です。



■ED1
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後は、こういった面白い回り込み作画もあったりしたり。面倒臭そうなのにね、良くやりますわ。ここは回り込みもいいんだけど、髪の毛のリアクション、フォロースルーじゃないけど、行って帰っても上手い。ふわふわしてる感じ上手く出せてますよね。 

■知識の多寡と論評(2)

アニメ・映画を語る時、例えば、「じわーっと引くことが画面全体にとって効果的だ」というAの言及と、「じわTUは画面として効果的だ」というBの言及は、表現が高等化してるだけで、言及している内容自体は変わらんわけです。ここについて知識は必要かどうか言われれば、疑問が残ります。極端に言えば、(撮影用語を知識として習得したところで)言い方がかっこ良くなるだけです。ですが、それは単語としての機能もあります。説明文をわざわざ毎回書くことをしないために、単語はあるので、(当たり前のことですが)文章の冗長化も防げます。

最近思うことは、あるジャンルに対する知識の多寡です。例えば、少女漫画に対しての言及をしたいとき、サンプリングの多寡によって、果たして論評の質は変化するのか、ということについて疑問があります。ukkahさんの『閾値』という表現は的確な気がします。一定のサンプリング数を超えると、知識から論評が出てくる(という意味でいいのかな?)。少女漫画の例で行けば、まず古典的な『はいからさんが通る』『ベルサイユのばら』『赤ずきんチャチャ』押さえ、エポック作品であろう『セーラームーン』『魔法騎士レイアース』といった別ジャンルの要素を含んだものを享受する。王道的な作品と、それとは少し違う作品の両方を吸収することで、例えば『四月は君の嘘』に対しての言及はもっと濃く実のある批評になるのか。それとも、そうではないのか。類似点を探し、対比することは確実に意味がありますが…

ここがボクの最近の疑問点です。だから、作品を見て、違和や悶々とした感情を言葉にできない時は、「作品数のサンプリングが足りないのでは無いのか」という焦燥も少し持つことがあります。ただ、そうじゃないと思う時もある。今までの作品によるバイアスがかかり、純粋な目で映像というのを捉えられていないのではないのか、と感じる時もある。だからボクにとっては、不明瞭です。「薬も過ぎれば毒となる」というように、知識はたくさんありすぎても得をしないような気がします。だから、知識と論評は比例しないと思ったんですね。

そんなことをグダグダ考えずに、まずはやってみる、というのが一番確実で近道のような気もします。だから、今古い映画でも何でもいいから洋画をたくさん見てます。多分、それは作品やジャンルによって変わってくる気もします。例えば「新Fate」に関しては、知識を積極的に避ける(つまり、深入りしない)という姿勢で論評しています。それは、無意識の思い込みによって起こる、良くない見方を避けるためです。「グリザイアの果実」も同じく。最近のwikiは、「核心的な内容をネタバレする」ということを知っていますので、wikiすら見ていません(笑)。「四月は君の嘘」については、正直困っています。原作既読の思い込みが否が応でも発生しますので、読んだ時の自分の感情によって思い出補正されてしまう。だから、こういう時は他人の意見を求めます。自分で気付かないクセというのは、他人からの指摘でないと中々分かりませんから。




■野球:日米野球と草野球

柳田、菊池、坂本、丸、嶋、筒香は特に良かった。といっても短期決戦なので、固定的・確定的な評価などあり得ないわけですが。中田の4番固定は物議を醸しています。小久保監督の意図は分からないこともないです。流動的な打線になっては良くないだろうと。そういう意味でせめて4番だけは固定して、責任を持ってもらおうと。ただ、それならそれで、前後は色々と試行錯誤するべきです。短期決戦では、やはり「お祭り男」なる者の存在がかかせません。しかし、2009イチローを反例として出されると難しいところです。一度、スタメンから外れるほど、状態が最初は悪かった。準決勝あたりですかね、調子が上向き始めたのは確か。結果論だけで言うと、栗原の起用とか原采配ドンピシャリなわけですが。

ベターな選考方法は、①実績+②今年の成績+③その大会における状態、でしょうか。

内川、糸井といった安定的な選手でも今回のように打てない時はあります。先行試合も当然あるわけですから、あまりに状態が良くない選手は下位に置く、外す等した方がチャンスは拡大します。短期決戦は勝負勘が強い人がトップでないとダメですね。それこそ、原はいい人材だと思います(※今年のCSは誰がやっても、どうにもなりません)。

兼任監督の難しさというのが、2013WBCで露呈し、今回の小久保ジャパン結成というわけですが、どうも納得できない。これは逆に小久保に対して、監督としての経験を積ませないようにやっているんでしょうか。シーズンでの戦い方を応用しても上手くいくとは限らないと。でも一応のセオリーは守ってほしい。成績が残ってない、今日はバッティングの内容も良くないという選手には代打を送る、といった当然のことから、守備固めまでしっかりと。そういった意味では、スコアラーや裏方さんの重要性が増しますね。どういう打撃内容だったか、というのを客観的に詳しく監督・ヘッドに伝達できるような存在は必要不可欠です。

■四月は君の嘘OP:ブランコのカット
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このブランコのカット、カッコイイっすよね。
このカッコよさの要因は、おそらく「右方向への一貫性」です。

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白い鳥は、画面の左方向に向かって飛んでいますが、(カメラワークによって)相対的な位置は右方向に移動しています。ここでは、画面下に見える白い流線によって、風が左から右に向かって(つまり右方向)吹いていることも分かります。この2つの事象が、次カットでのブランコの急速的な運動の示唆・伏線になっているんですよ。



この後のカットも、「右方向への一貫性」は保たれたままで展開されます。

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さっきのブランコとは反対方向からのアングル。風は右方向へと吹いています、それに従う形で有馬のネクタイと髪の毛も右方向へとなびいている。後ろでは、さっきのブランコが余韻をもった動きを見せています。ここでは、動きの対比として、明らかに有馬のネクタイの挙動の方が大きくて、しかも速いです。だから結果的に、ブランコの左方向への動きよりも、右方向への方にアクションの比重がかかっています。つまり、ここでも「右方向への一貫性」が保たれていることが分かりますよね。

まあ言っちゃうと、これって実際にはあり得ないカットじゃないですか。さっきは右方向に風が吹いてて、ブランコがそれによって動いたのに、反対方向にカメラが動いた次のカットでも、右方向に風が吹いている。現実に即して考えると、有馬のネクタイは左方向に揺れるべきなんだけど、何でこういう風にしてるのかって言うと、「右方向への一貫性を保つため」だと僕は思うんですよ。

有馬は別の位置にいて風を受けてるんだよとか、そもそもOPにそんなことを言うのは野暮ったい、というのは当然あるわけなんですが、一連のシークエンスとして、何故違和感なく自然にカットが繋がっているのか、ということを見ていくと、やはりこういう「大切な矛盾」含んだカットが存在しているからではないかなあと思うわけです。

世間様から一週近く遅れていることは承知してます。

アバン:椿と有馬の過去
・2人で大車輪、椿が有馬をおんぶ

A:毎コンの練習 有馬と宮園パート
・モノローグとセリフの洪水
・徐々にピアノに実直に向き合う有馬

B:椿パート
・野球(ソフトボール) 
・影と光の対比(安直やな…) 

C:ライバル達パート
・何気に作画良かった(女の子の方ね)



脚本・作劇・構成

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おさらいしておきますと、このアニメは「セリフ」 が非常に大量にあります。特に「モノローグ」。「モノローグ」とは独白ともいい、相手を必要としないセリフのことです。独り言みたいなもん(心の中での呟きも)です。少女漫画系作品においては、恋愛対象の相手に対して抱く感情を本人に言う勇気が無かったり、その感情がよく分からないものであったりするために、モノローグが発生します。

このモノローグ・セリフの氾濫によって、「セリフに頼りすぎて、(アニメ本来の)絵で表現していない」「セリフが多すぎて、うっとうしい」という意見が多いようです。結局、「セリフの氾濫はアニメを駄目にする」という風な誤解をされがちですが、そうではないです。実際、庵野監督による、『彼氏彼女の事情(98)』では、大量のモノローグ、セリフを処理しているにも関わらず、アニメ本来の面白さを失わずに映像化できています。

だから、「セリフの氾濫はアニメを駄目にする」ではなく、正確には、「セリフの氾濫をきちんと演出できないと、アニメとしては破綻してしまう」ということです。この問題は、コンテ・演出に帰結します。どれほどのセリフの多さであっても、処理できているアニメは存在し、例えば出崎監督の『スペースコブラ』はその代表格といえるでしょう。コブラのつぶやき・セリフ、敵の焦燥を含め、全く飽きさせないような画面展開により、素晴らしい作品になっています。


では、『四月は君の嘘』はどうなのか。正直なところを言うと、ギャグ・コメディはとても上手い。ただ、シリアスな場面における、緩急の付け方があまり良くない。具体的に言うと、カット割りやコンテのテンポが良くない、と思うんです。シリアスな場面において、どうにも尺を大目にとって、シリアスな感じに展開させているシーンが多いですが、それはシリアスとギャグの緩急であり、シリアスなシーン内における緩急ではありません。それが必要だと僕は思うんですよ。

出崎・庵野監督は、どちらもカット割りが細かい監督です。繰り返しのショットとか、トラックアップの多用とかフラッシュカットとか。とにかく、バンクを活かしたカットも含めて、映像のテンポが良いです。こういうわけで、4話の有馬演奏回と、6話の石浜さんによる有馬の葛藤回は良いと思ったんですよ。ちゃんとシリアスにも緩急を持ち込んでいたから、セリフも浮かず、セルにしっかりと染み付いてた。接着剤でくっつけたかのように、しっかりと映像になってた。



前置きが長くなりました。6話はどうだったのかというと、惜しかった。
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Bにおける、椿のベーラン一周シーンとか、最後におんぶされながら泣くシーンとか、そういったところのシリアスは良かった。コンテ細かく割ってて、特におんぶされながらのシーンは良かった。同ポの多用とかもあって。


だけど、有馬と宮園の会話における、「ショパンが囁くんだ」の辺りのシーンが惜しい。

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ここ3カットぐらいしか無いんですよ。俯瞰と、テープレコーダーのアップと宮園ドーナツと。ポン寄りと、TU・TBの使用で倍のカット数にはできるし、テンポは確実に生み出せるのに何故か(※ベーラン一周とか、ラスト泣きシーンの存在があるから、出来ないのではない)やっていない。そうしない意図があるのかもしれない。中学生の内面描写をナルシズム的にやるために、わざとテンポを悪くしてる、とか。結局は分からんわけですが。





作画・画面構成

ラスト、椿の無くシーン。しがみつき方、泣き方、髪の毛のぐしゃっとした感じ。どれをとっても良かった。うめえ。誰が描いてんのかな。全く分からん。完全に適当なこと言うと、濱口さんかもしれない。
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後は、演出にもまたがることですが、こういった表現はいいですね。個人的に好みです。
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ああ、野球の描写はとても良かったです。(相手チームの)ブロック巧すぎて笑った。あんなこと中学生で出来るんかな。本当は、グラブに収めたままタッチするのが普通なんだけど、「ボールを見せる」ということで、ああいう感じになったのかなあと思う。後はクッションボールの処理ミスとかも自然で巧かった。



そんなところです。 

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お前ら、幼なじみだったんかい。

アバン:サチ目線

A:サチ目線からのみんな
・ミチルの無茶な要求
・やばい雰囲気ただよう
・サチお手製爆弾
・ユウジは先生か何かか?

B:サチの過去
・ベッタベタの王道
・ゆーくん
・工場の美術いい


 
脚本・作劇・展開

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サチは事故で両親を失って(※母親は存命)以来、その事故のきっかけとなった「自分のワガママ」を封じ込めます。それだけで済めば、まだ良かったのだけどサチの考えは発展してしまい、相手の要求(ワガママ)を受け入れないことも、「自分のワガママ」と認識するようになってしまった。だから、どんな無茶な要求でも、他愛のない冗談も、サチにとっては「自分に課された問題」と捉え、風呂10000回数えや、テストを無くす、といった無茶な行為へと走って行く。

この無茶な行為に走ったのは、天音やミチルがユウジと仲良くなっている現状に対しての感情がよく分からないまま進行したからじゃないかなあ。つまり、普段よりも思考がこんがらがった結果、「いい子になる」という原点回帰をしてしまったことが、今回の騒動の全貌だと思う。

サッチーの過去については王道ですね。王道なんだけど、演出が上手いのかなあ。何だか普通に良かった。ワガママは絶対的悪という認識で生きてきて、誰も止めてくれず、やっとこさ「良いワガママもある」と言ってくれたのが幼なじみだったら、それはもう泣けますよね。過去回想で、ユウジにも人間地味た所があるのが分かって、ますます面白いです(※辛い時期に支えてくれたとか、そういう部分)。失禁シーンも真面目に描いてるじゃないですか、そこがスゴイ好印象です。やっぱ体操着ですよね。





作画・画面設計

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ちょっとこういう指摘は本来したくないんですが、流石にこれはというのがあったので。サチお手製の爆弾のディテール部分の作画ですね。これもったいないですよ。せっかくディテールを設定してるのに、その作画がお粗末というのはもったいない。工場の美術は良かったので、そういった細かいディテールの部分でのミスは損のような気がします。細かい事ですが、サチの作画もこのシークエンスはちょっと良くない。

まあ重箱の隅をつつくようなことなので、大部分の人にとってはどうでもいいことです。ただ、特撮しかり、細部の描写というのはやはり重要であるという強い認識があり、個人的に気になったので取り上げました。全く関係ありませんが、野中は次回来るような気がします。

最近、この「グリザイアの果実」が教育アニメのように見えてきました。家庭に問題がある、自分の内面に問題がある、そういった生徒をユウジ先生が全力で受け止めてあげるというか。まあそんなわけはないか(笑)。次回からは、複数エピソードのようなので、(これまでは)キャラ紹介と素直に捉える方が自然ですね。



[追記]
交通事故のシーンを笑う輩(やらチル)がいると聞きました。彼らは完全に映像作品というものを見るレベルにないので、映像を見るのを止めて頂きたい。王道のストーリーもちゃんと受け取れず、話の機微も分からずに視聴して文句言うなんて痴がましいったらありゃしない。論評するならするで、ちゃんとしろ。中途半端にするんじゃないと思う。つまり、文責(自分の発言に対する責任)は持てということです。また、テンプレートを享受できない人間は、意外性のあるモノも同じく享受できません。それは、スポーツでも勉強でも明らかですので。(※だから僕は『やらおん』が大嫌いなんです、そういった輩を増やしますから。さっさと「やらおん!」や「オタコム」は訴えられればいいのに。 )

一応言っておくと、「手放しで褒めろ」ということではありませんので。大事なところを見誤らないで、批評すべきだと思っています。愚痴のような格好になってしまい申し訳ないです。次回からは、こういうの無くします。一生の不覚ですね、やらおんリンクなんて汚いモン踏みたくなかったんですが、まあ手が滑りました。何でこんなに純粋に映像を見れない人が増えたんでしょうかね。僕にはよく分かりません。

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