GOMIstation

2025-1

2014年11月

25]
5話の凛なんて存在しない。


アバン:切嗣と士郎

A:学校と葛木先生
・凛の顔
・行方不明は弓道部部長
・放課後戦闘

B:凛との戦闘の続きとライダー戦
・気を失ってる女の子を介抱
・矢ビューン
・ライダーかっけえ



脚本・作劇・構成

46]52]
22]23]

5話では一旦傷をおった士郎に情けをかけ、殺さなかった凛。「次ヘラヘラしてたら迷わず殺すわ」という5話ラストでの宣言通りに、放課後で士郎を待ちぶせ戦闘を始める。いよいよこれから、という時に、女生徒の叫び声が聞こえ向かうと、そこには精気を吸われた少女が。治療する凛のもとへ、ライダーからの矢?が飛んでくるが、これを士郎がナイスキャッチ。痛い。凛が動揺している間に、士郎はライダーとの無謀とも言える戦闘へと挑むが、予想通り殺されそうになる。そこへ、凛が救助へ。これでは面倒臭いということで、士郎・セイバーとの一時休戦を締結するのであったが。

何かあらすじみたいになりましたね。まあでも大体はこんな感じでしたよね。「DEEN」版の時から疑問なんですが、凛の本気度はいかほどなものなのか。というのは、「殺し合い」に関して。「聖杯戦争は殺し合いなのよ」というセリフを、彼女は自己暗示のように何度もつぶやきます。本来であれば、覚悟もしているはずでしょうが、心の底ではやはり「死に対する恐怖」「殺すという罪悪感」には抵抗があるようです。凛は、家の生まれもその教えもいい家庭でした。聖杯戦争に関するルールも完全に把握してることでしょう(うっかりんはあるにせよ)。ですが、伝統と慣習によって考えてきた今までの人生では、やはり実際への対応が難しいということが分かります。道徳観・良心というものが彼女を束縛し、ある意味では助けているのです。

対して、士郎はどうか。こちらは、孤児です。しかも、その代わりの親の切嗣もすぐに死んでしまう。そんな中で自分のモデリングとなったのは、切嗣の「正義心」だけであり、それがある程度まで膨張し今に至ります。つまり、彼の方が凛よりも純粋な考え=ピュアな理想主義者であり、だからこそ、飛んでくる矢に手を出すなどということができるのです。

予防線というわけではないのですが、私はFateをさほど知りません。ゲームもやってないし、アニメも薄っすら記憶に残っているだけ。なので、この解釈には間違いがあるかもしれませんがご了承ください。




作画・画面設計

今回の作画は今まででピカイチでした。作監の白井さんという方は全く知らないのですが、演出・コンテにまたがっているのがいいんでしょうか。冒頭の凛の絵とか、すごく活き活きしてますよね。見ていて面白いし、印象に残りやすい。そうそうufotableは作画が印象に残りにくいんですよね、薄味というか。執拗なまでの色トレスがそうさせているのかも。後、カゲの付けなさすぎですね。


今回は本当に絵がいい。

・戦闘シーンは殆ど全部良かった。特に凛がガンド打つ前の顔とか。
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ちょっとこれまでの話数は淡泊な絵が多かったんだけど、凛を中心に濃い絵が多かった。キャラが活き活きしてるというんですかね。奥歯の見え方とか舌の描き方がいいのかもしれない。まあ一番は、目でしょうけど。気合入ってますね、目の作画。特に目の下のカゲ付けがいい。ああカゲって大事だなあって改めて思った。


・士郎の顔も鬼気としててよかった
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鬼気迫る顔とか、後は、ガンド避けた後に尻もちつくじゃないですか。あの後の士郎の少し慌てながらも、判断して行動する描写が良かった。何か最善を考えて行動に移してますっていうのが作画に出てた。


・このライダーのポン寄りすんげえカッコイイ
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これ何でカッコイイかというと、鎖がいい味出してるんですよ。まず1枚目でじゃらーんと見せておくわけじゃないですか、その次のポン寄りで、鎖の一部がカット内に存在しててなおかつ、ピントが合ってないのがいいんです。つまり、被写界深度は浅く、ライダーと鎖の間に空間があることが分かるから良いんですよ。奥行きを感じることができる。本当にここのポン寄りはカッコイイ。



・最近「SHIROBAKO」関係でのアクセスが多い「エフェクト作画」(笑)。
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57]41]

CGでないエフェクトは、2話の藤村原付エフェクト以来だと思う。あ~たまりませんねえ。特に1、2枚目は、煙の消え方も良かった。ブワッという感じで急速的に消えていくんですよね。すんげえフォトリアル。4枚目は、3DCG背動後のダブラシ煙。これも他の電撃系のエフェクトと合わさってキレイだった。


個人的には、さほどキャラ絵には興味が無いんですが、今回の話数、第6話はそんな僕でも感じられるほどに、ケレン味のある(※しっかりと記憶に残る)良い絵でした。本当にね、びっくりするほど、キャラ絵違うなって感じで。これは演出にまたがってるからなのか、はたまたufotableの作画陣が良かったのかは不明ですけど、僕個人は一番楽しめました。これぐらい味があった方がいいですね。


そんなとこです。(30m) 

44]

小島さん1人原画回でした。良かった。


アバン:子ども時代の有馬・椿・渡 川への飛び込み

A:お見舞いと学校
・罪悪感を抱える有馬
・羨望を感じる有馬

B:椿と先輩、そして宮園と有馬
・どんてんもような関係性
・柏木さんカワイすぎてよくない



脚本・作劇・構成

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58]57]

東和コンクールも終わり、宮園に対して罪悪感を抱く有馬。病院での気まずい雰囲気は、そのせいで起きてる。その中で確実に、「何のためにピアノを弾くのか」ということに対し、有馬は考えを深め始めています。「僕にはピアノしかない」という有馬の言葉に、宮園は「それではいけない?」と肯定的な意見を返し、椿は「他にもいいところがある」と否定的な意見を返すところは、2人の性格を反映しているように感じます。宮園は実直・素直な考え方であり、一貫している。「ピアノしかない」というネガティブな吐露に対して、肯定するのは彼女らしいといえます。普通は、椿のように励ますものですが、自分の考え・思考に素直なので、「いいじゃんそれで」ということが言える。忘れられないモノ=演奏終了後の喝采というのは、演奏者にとって特別なものであるがピアノの音がいまだ聞こえないことで、有馬は悩んでいます

宮園は有馬にピアノの再開を促しますが、この葛藤により、色々と言い訳をする。「楽譜を捨てた人間が今更やるべきではない」とか色々大義名分をかざす。だけども、宮園は本当に有馬にピアノを弾いてもらいたくて、全部跳ね返す。要するに、グダグダ言ってんじゃねえ、憧れなんだからやってよと。そういったとても自分に素直な宮園に惹かれていく有馬がこの話数では描かれている。

どんてんもようは、有馬の心情の情景描写。とても曖昧で、どうしたらいいか分からないと迷っている。しかしラストに宮園と会うシーンでは晴れている。彼にとっては、まさしく「日の当たる場所」に連れて行ってくれる存在なんだろう。一方このどんてんもようは、椿の心情も表していて、自分と有馬の関係性に対して少しずづ疑問符が生じ始めている。極端に言うと、自分だけのものだった有馬公生が他の女の子のモノにもなりつつあり、しかも憧れだった先輩とも再会し、非常に微妙な心情になっている。



作画・画面設計

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小島崇史さんの1人原画。僕は小島作画というものをあまり知らないんですが、やはりいちばん印象が強いのは「手」の作画ですね。当然他の芝居も良いんだけど、手に関しては本当に素晴らしい。 


特にすごかったのはこの2カット。

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これは有馬公生がコンクールを終えて立ち上がろうとするときに、転けそうになるシーン。椅子にかかる手の感じで重さが偏って(倒れそうになって)いるのが分かる。指への重さの表現は素晴らしく上手い。

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こっちも良かった。これは有馬が渡に少し羨望・嫉妬と、自分に対する自虐を感じてるシーンなんだけど、手だけでそれを表現している。グッと一瞬力が入る手によって感情まで伝わってくる。上手い。


このカットは普通に笑ってしまった。(※「カヲリちゃんチェケラ!」的なところ)
多分、有馬の心情的には笑うシーンではないんだろうけど。

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ここは作画はっちゃけてた。
でも、有馬主観だから楽しそうに見えて、演出的には良いのかな。


後は、最後の飛び込みカットはやけにぬるぬるしてましたね。

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中打ちまくってる感じだった。何でこうしたんだろう、あんまり分かんないけど。



そうそう、柏木がカワイすぎたのはイカンですね。
これは愛敬さんのキャラデだと思うんだけど。

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柏木は一歩引いた目線でみんなを見てるから、「可愛くない女の子」でないとならないんです。つまり、物語世界の女の子ではなくて、現実世界にいるような女の子。簡潔に言うと、少しブスでないといけない。少しブスだからこそ、この女の子は客観視・俯瞰視してることが伝わる。僕の希望は、もう少し目が死んでいて欲しい。何か酷いことを言ってるような気がするな…


こんなところです。(45m)

■キャラクターの一面性化

これは「岡田斗司夫ゼミ」だったかな、とある人から聞いたんだけど、その内容が素晴らしく面白かった。岡田の言ってたことを簡潔に要約すると、「キャラクターの強い面も弱い面も描写する(※エヴァ的・富野的な)”立体的な”キャラクター造詣は今受け入れられにくい、それよりもキャラの一面性(※この子は、どんな要素をもってるか単一に言語化できる水準まで一面的)をペラペラに描いた方が受け入れられやすい」と。

ああ、なるほどなあと腑に落ちてしまって。その岡田がどうして「キャラの一面性」が支持されているかどうかという説明までは聞かなかったんだけど、僕は自分で非常に納得できてしまって。それは何で納得できたかというと、「ファンの二次創作(SS、同人誌)」がとても多いアニメは(※比較的)人気も高い、というのがあったから。「咲-Saki-」なんかが代表的だと思うんだけど。これはおそらく、「東方」と同じように、ありていの設定があれば自分たちで物語を無尽蔵に作れるということで。キャラに自分がしたい肉付け(もしくはストーリー)をしていっても、ある一定の閾値を超えない限りは、そのキャラの別な側面(※本編では描かれていない)として許容されるんだろうなあと。閾値を超える場合は、突き抜けるほどひどい場合に限って、異常性が増すので、結果として「別物」として、これまた許容ができるんだよね。これは東も「データベース消費社会(だっけ?)」 とか何とかで言ってたような気もする。 

「艦これ」も基本的に、キャラ設定みたいなものはあるけど、そこまで深く設定が組まれてるわけではないでしょ。だから、爆発的に受けて、同人ゴロは大陸移動したし、ファンアートやSSは大量に製造されているし、アニメ化にまで至ったと思う。これは別の側面も表していて、クリエイター予備軍が山ほどいるということなんだよね。モデリングがあって初めて動かせて、模倣から自己創作は始まるのだから、これは当然といえる。けど、おそらく、「クリエイター予備軍のままが楽で儲かるから、クリエイターになる必要もない」、と考えている人もまた山ほどいると思う。他人の設定を借りて、自分で展開するのはスゴイ楽だということは言うまでもなく。二次創作が悪いとは思わない。ただ、それで、ずっとクリエイター風に装ってるのはおかしいよねと。





■アニメ論評の態度について

「閾値を超えれば」というのはボクもそう思う。それは最低限の知識であって、論評するのに必要十分・必要最低限な閾値だと感じます。ただ、その最低限のラインをクリアした後、知識が増えていくに従って、論評のクオリティも上昇するとは思わないということです。こういう風に感じる理由は、個人として、知識が増加していっている最中なんだけど(※アニメを見出したのは2010ぐらい。ちゃんと見出したのはここ数年。)、論評が知識から出てくる感じは今のところ無いなあというのが実体験としてあるわけなので。到達していない可能性も十二分にありえますが。(閾値の意味合いが違うとは思います。)

知識の増加に関してはメリットだけではなく、当然デメリットもあって。前回も言ったとおり、例えば、「暴力ヒロイン(四月は君の嘘の椿、宮園)についての是非」を語る時に、「Working!!」の伊波まひるは例示するくせに、「うる星やつら」のラムちゃんは無視するという暴力的な論評があったんですね。自分の意見を通すために敢えて「ラムちゃん」という具体例を提示していないんです。「ラムちゃん」というのは、彼らにとっては反例であるから。これは、知識が下手にあるから、起こりうる事象だと思うんです。伊波まひるという存在を知ってるから、それに結びつけて自分の都合のいいように論を進める。

これは当然、知識がなくてもできることですが、知識が増えればそういった可能性が増えることは自明です。それだけ、ある種の思い込み材料が増えていくのですから。つまり、偏見やアサンプションを持ちながら論じる可能性と、知識の多寡とは相関性があると思うのです。アニメでなくても下手に知識を得て、思い込みを抱えることは少なくありません。例えば、野球とか。

知識と論評の態度、という観点からは少し脱線するかもしれませんが、もっと「純粋に」「真摯に」「真っ当に」映像を享受できてない人が多いよね、ということを言いたかったのです。だからこそ、知識と論評の巧技が比例するとは思えないし、論評の巧技と比例すべきは「映像享受の態度」ということです。

洋画

■2001年宇宙の旅(’68) スタンリー・キューブリック

3度目くらいでようやく全部見れた。これは詳細に評論したいから、暇があればいいな。モノリスを巡る人類の進化の話かもしれない。第一にジャンプカット(マッチカット)するシーンで有名な、猿が骨を使うということには、モノリスの知恵の授けがあった。第二はその400万年後、月にぽっかりと現れたモノリス。これが木星へと強い電波を放出しているということで、それを確かめるべく、最新のコンピュータ「HAL9000」を載せた宇宙船が長い旅を始める。そして、HALの暴走(※完璧なのに嘘をつかなくてはならないという矛盾を抱えたことに起因している)から船長以外は全員死んでしまう。残った船長がHALを殺害している間に、宇宙船は木星圏内へと到達し、これまで搭乗員には隠されていた事実がビデオレターで告げられる。それから、あっという間に船長が木星に浮かぶ、モノリスへと飲み込まれていく。スターゲイトを通り、モノリスのあらゆる刺激を受けるシークエンス、約10分あまりだろうか。よく分かんないが、何かしら強烈な刺激であったに違いないと思う。そうして辿り着いたのは、ホテルの一室のようなところ。そこに船長はポッドで乗り込んで来たのだけど、食事をしてる老人がいる。それを見ていると、すっとポッドはなくなり、船長が老人となる。今度は、船長(食事をしている老人)がベッドに横たわる老人を見ると、またもやベッドの老人へとすげ替えられる。オーバーラップ的なシークエンスと言ったらいいのだろうか、つまるところ、これらは全部船長なのだ。ベッドに横たわる船長の前には、再度モノリスが現れる。4度目のモノリス。そうすると、船長は胎児(スターチャイルド)になり、美しき青きドナウが流れながらエンド。

最終的なモノリスについて、船長についてはよく分からないけれど、HALと人間のやり取りは非常に面白かった。今作に出てくる人間には、感情じみたものがなく、まるでコンピュータのようで近寄りがたい。一方、HALの方は命乞いをしたり、殺意があったりと人間的である。HALの姿見は、赤いカメラ・アイだけなんだけど、それだけで人間のように感じられる。まるで「寄生獣」のミギーのように。



■フルメタルジャケット(’87)

戦争映画。ベトナム戦争を題材に、訓練生と戦争の2段階に分けて、描いていく。特に訓練生時代の、「ほほえみデブ」の最後の晩に至るまでの描写は圧倒的だった。戦争において、訓練生からは人間らしい個性やらを全部まっさらに取り除き、一から育て上げる。普通の人間が殺戮マシーンになる様は、見ていて恐怖だった。

また僕が心惹かれたのは、戦争の方のラストでどんどん軍隊組織が崩壊していくところだった。訓練生時代は、行進や全員一致の行動が理想とされた。人間の均一化とともに組織を作り挙げていたはずだったろう。しかし、隊長がブービートラップによって殺されてから、その組織はだんだんとちぎれていく。次に指揮するのは、カウボーイであったが、アニマルマザーはこれに従わない。狙撃兵によってやられた隊員を助けようと必死なアニマルマザーは、命令に従わず、銃を発砲し続ける。「撤退する」と言っているにも関わらず、隊員の1人は助けに行こうとし、また狙撃される。ここで、隊としての組織は崩壊しきっていた。後は、隊長でもないアニマルマザーが飛び出し、みんなが付いていくという理想とはかけ離れた、パーソナルな戦争であった。 最後に、「ミッキマウスマーチ」を歌うところには、訓練生時代への皮肉と戦争の実際を表してる。







■未知への飛行(フェイル・セーフ)(’64) 監督:シドニー・ルメット

水爆を搭載した爆撃機が機械の故障から、モスクワ、ニューヨークへと落としてしまう物語。白黒映画。アバンは、主人公だけを抜き取り、合成したかのような表現で面白かった。闘牛士というものが何を指しているのかはイマイチ今は分かってない。観客、牛を全てコントロールしているという意味だろうか。それが人間と水爆に置き換わるような気がする。

大統領や議会を中心に、こうするべき、ああするべきと議論が飛んで行く。しかし、「フェイル・セーフ」を超えて5分経ってしまうと、大統領の命令さえも「敵のマネ」とみなし受け付けない訓練をパイロットは受けているので、説得は不可能で撃墜することにするが、それもまたできない。ソ連との電話中、幾度も理解と共有をしようと図るが中々巧くいかない。そして、最後にニューヨークへと主人公は水爆を投下する。

タイポグラフィが美しい作品でもあった。黒BGに白文字で、アバンタイトルの3コマショックのような表現は、核爆発の示唆であろう。映像的な美しさと、脚本における意味を兼ね備えたアバンタイトルであった。





■ミッドナイト・ラン(’88) 監督:マーティン・ブレスト

元刑事のウォッシュは、保釈屋と手を組み、犯罪者を捕まえて生計を立てていた。シカゴには、再婚した妻と娘がいて、それに会いたいと思っている。そこに、10万ドルを稼げるチャンスがやってくる。ギャング・セラノの金を横領し慈善団体へと寄付した、会計士「デューク」を捕まえることで、それがもらえるというのだ。簡単にデューク自体は見つかり、捕まえるがここからが大変。警察、FBI、ギャング、そして商売仲間からも狙われる自体に発展する。

ウォッシュは非常に頑固で考えを変えない男だったが、デュークはシカゴの娘への再会を促したりと会計士らしく、理屈で物事を進めようとする。時には、立場が逆転したり、辛い気持ちを吐露したりとウォッシュ自体の弱さも垣間見える。逃走劇の果て、ギャング・セラノにシカゴから追い出されたウォッシュはFBIと共謀し、セラノを捕まえることに成功した挙句、またもや逃走する。最後には、デュークを逃しお礼として30万ドルをもらうが、もの寂しい様子のウォッシュを見る限り、デュークとの別れは辛かったものと思う。

ストックホルム症候群というのは、この作品に関しては全く当てはまらないだろう。 




■ビアンカの大冒険(’77)

まさしくディズニーアニメの傑作。「101匹わんちゃん」や「ピーターパン」の大きさに隠れながらも、作画・演出ともに素晴らしい作品。ネズミたちの国連要請で、ビアンカとバーナードは少女を救いに行く。フィッシャーの「バッタ君街に行く」を彷彿とさせるような、ネズミたちから見た世界はとても広大で乱暴だ。

また、この作品では液体の作画が光る。池に落ちるぬいぐるみ、それを拾い上げる少女、滴る水の表現はとてもフォトリアルで素晴らしい。水中ボートのエンジンの表現もディズニーらしく(ピーターパンっぽく)、コミカルな表現と危険・脅威的表現の混在もまた良かった。

「ビアンカの大冒険2」は、コレ以上に面白かった記憶がある。それはまた追って紹介したい。興行的には、1は成功し、2はそこまで盛況ではなかったようだ。何とも言いがたいが、確実に言えることは、この作品はどちらも素晴らしいということだ。 

Fateも早5話。説明とほのぼの回。

アバン:イリヤお風呂
A:凛とセイバー
・ちょろ凛
・警備セイバー
・弓道部 

B:学校とガス漏れ調査
・葛木先生
・セイバー同居
・新都ガス漏れ事故の調査


脚本・作劇・構成

57]13]
26]37]

聖杯戦争の仕組み等のセイバーによる説明と凛の新都ガス漏れ調査がメインなので、殆ど物語的に進行はなし。モノローグが多くなってしまいがちな説明回に対して、ポン寄り、引き、細かいカット割りで対処するのは、だらだら感を解消するため。次回への伏線回とみなしてもいいかもしれない。全体的には落ち着いていて、安全と危険の対比(※極々古典的ではあるけれども)は映像でも示されている通りで良かった。どうでもいいですが、カタカナ苦手です。


作画・画面設計

今週の机作画(美術)コーナー。

Fateで日常回と言ったら、これが真っ先に目に行くようになってしまった。あまり良くないことだとは思うけど、引き続き注目していきたい。

26]46]
30]35]

作画ではなく美術で。だけども、作画との浮きもそんなになく(※細かいことを言うと、菓子入れの大きさは安定させて欲しい。ホントどうでもいいですが)。今回は特に、4人で料理を食べるというシチュエーションがあったので、机の本来の要素的な使用(※大勢の食器を置くということ)も巧く表現されたと思う。一応、2話と大きさを比較。

26]25]
(左:5話 右:2話)

色調は光源的な要因があると思うけど、机本体は明らかに小さくなってますね。
多分、2話の時点(おそらくラッシュ)で気づいたんじゃないのかと。 


今回は、机を囲んで4人で食べるシークエンスを細かく追ってみました。この前段階では、セイバーの同居が決まり、藤ねえと桜が少し不機嫌になっています。なので、無言で食べる音だけが響くシークエンス。

Fate机

ここが面白かった。
豪華な料理と冷ややかな食事風景というのが(言わずもがな対比されてて)、もうビンビンに空気が伝わってきますよね。9カット目を除いて、このシーンのカットはそれぞれ24k+α程度に収まっている、ショートカットの連続です。4.7.8では、各々が無言で食事を食べ進めるという事を直接的に表し、10.11.12カットでは、そのちょい引きカットで順番に再度示すことで、「無言の食事風景」を強調する。9カット目は6sぐらいの長いカットで、空気の重たい感じを演出してる。最後の13カット目で、客体的な目線で士郎のやれやれ感が描写されるので、全体の状況を把握することができる。

特に面白かったのが、9カット目。
10]

この食器の配置ね。これが各人の性格を反映しているようで面白かった。
士郎は、気配りができるのでキレイにバランス良く配置。
藤ねえは、野菜を遠くに唐揚げを近くに(笑)
桜は、士郎と同じくキレイに配置。若干唐揚げ遠目。
セイバーは、もう傍若無人ですよね。言っちゃあれですけど(笑) 王たる性質が出ているのか知らないですけど、テーブルの真ん中までフル使用してますからね。もしくは、桜のセイバーに対する対抗心の現れかもしれない(笑)意図的な演出かは分からないけど、良かった。


後は、エフェクト作画について。 

16]25]

CGエフェクトで大変悲しい。 ダブラシ系の透ける煙は、全然CGでも大丈夫ですね、誤魔化せるから違和なし。だけども、爆発の煙に関してはまだまだ違和ありというところで…手書きとCGの煙の違いってどんなところで現れてるんでしょうねえ。挙動はいいと思うんだけど、質感なのかなあ。


まあ、そんなとこです。(30m)

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