GOMI→STATION

さむくてエモい時期です

2015年01月

10話 「君といた景色」
コンテ:中村章子
演出:原田孝宏



脚本・構成・演出

04]28]
33]39]

正直なところを言うと、今回はさほど良い演出ではなかったと思う。有馬のピアノに対するもがき苦しみ、そこからの脱出とピアノに対する思考の転換。これが、この毎報コンクールにおいて最も重要な要素であると思うんだけど、そこが上手く出ていなかった。つまるところ、「宮園のために弾く」という思考に至るまでをもっと事細かく刻むべきだった。これでは足りない。宮園との思い出をたくさん出すべきであり、そのことで映像の7割が構成されてもいい。それぐらい、「独占的で・自分勝手な演奏」を演出しなければ、有馬の思考の転換は描写ができない。


後、細かいことを言っていく。

45]46]

こういったみんなの個性の演出をもう少し何とかして欲しかった。09話と同じであり、無味に感じる。個人的な要望を言えば、バンクを上手く使うべきだと思った。


44]

有馬が「ありがとう」を重ねるシークエンス。宮園に対する感情、何を考えても浮かぶのは宮園であるならば、これまた同じく、バンクで回想を紡ぐべきだった。もっと短くフラッシュカットに近い形で。後は、「アゲイン!」のセリフは必要では無かったと思う。あれは蛇足。音にしなくても分かるし、想像させて欲しかった。


10話に関してボロクソに言ってますが、あまり良くない演出だけかと言ったら、そうではなく当然良い点もあった。

42]07]

例えば、この時間の演出。これは素晴らしい。たったこれだけの短い時間、瞬間的な時間にあるにも関わらず、観客、視聴者にとっては、とても長く時間を感じる。それだけ、有馬の演奏が濃密であったことがとても伝わってくる。


12]07]

後は、同じレイアウトでの撮影効果による変化の入れ方。これも良かった。同じ絵だけども、全く違う意味を持たせている。前者は、コンサートでの暗い描写であり、後者は練習中の描写。この対比は良かった。


57]

10話に関しては僕は否定的なんだけど、この一枚のカットで全てを許容できてしまう気もする。有馬のイメージ、有馬の一途な思いがコンサートホールを包んでいく、この桜が舞うレイアウト。これは本当に素晴らしい。ここだけは、絶賛してしまう。すごい。


もの凄くハードルの高いことを要求してると思う。原作既読のせいもあって、ここはこうあるべきという確固たる思いが芽生えている。演奏を止めるシーンの有馬の無力感や、再び演奏を始める時の有馬の思考を上手く演出するのは難しいことだろうけど、2014-15を代表するような作品になりうるのだから、頑張って欲しいという気持ちが大きい。





作画・レイアウト

05]59]

西井さん1人原画。西井さんをさほど、というか全く知らないので、あれですけど、煽りのアングルが特に上手い。相座兄の先生や有馬の煽りアングルでの作画はとても上手く、コンサートホールや10話全体に立体感を持たす効果があったと思う。


33]

後、こういったイラスト調のカットも良かった。いいですよね、ちょっと抽象的になってふんわりする。優しい絵作りになってる。


22]

「ピアノが響かない」という描写で、手が崩壊していくのも良かった。体全体で響かそうとしているんだけど、それが出来ないのが伝わってくる。



10話に関しては、こんなとこです。

緊張感あって、良い回だったと思う。

37]


09話「共鳴」 
コンテ:神戸守 演出:黒木美幸

アバン:井川の過去
A:井川演奏と有馬の演奏前(緊張感あった)
B:有馬演奏


脚本・構成

14]08]
45]16]

毎報コンクールにおける、有馬の演奏回。前回のコンクールは殆ど宮園に引っ張られる格好であったけど、今回は有馬の決意がある所が異なる点であり、重要な点でもあります。未だピアノの音は聞こえないわけですが、それでもステージへと向かっていく。失敗やミスの不安は、08話において描写されており、それを自覚した上での演奏です。つまり、非凡であった有馬が凡人の思考を辿っているんですね。今まではただ譜面しか気にしていなかったけど、「音が聞こえなくなった」ということを転換点に、必死にもがいている中で見えてきた風景であるわけです。


11]09]

その必死にもがいている最中に、再び不安が襲いかかる。これまでの話数では、母親や小学生時代は抽象的なイメージが多かったですが、今回はダイレクトに映像で示されています。虐待とも呼べる母親のレッスン、容赦の無い嫉妬、母親の死。「音が聞こえなくなった」のは必然だということが伝わってきます。これを有馬は罪である(母親に対する酷い言葉に対して)と、合理化してピアノを弾かない理由にしている。そんで、有馬曰くの「罪」が襲いかかってくる。


これは本当に勝手な推測なんだけど、有馬は母親の死を認めたくないのではと思う。嫌なのイメージ・思い出を繰り返し顧みると、その人物の死は自分にとって些細なことであり、大したことではないと言い聞かせているような感じ。死んでしまった人に対し楽しかったイメージを持つと、死んだことを認めてしまうような気がするんですよね。まだ彼の中に、母親は生きているし、やはりまだ生きていて欲しいと願っている様子。





作画・レイアウト

39]

作見としては、やはりアバンのジャングルジム井川でしょうね。ここが大変に上手かった。滑り落ちる感じ、危うい感じ、「銀河鉄道999劇場版」における金田パートのような、「ああっ!」と声が出てしまうほどリアルな描写。上手かった。


03]

これは、相座兄とレイアウトまんま同じで僕はあんま好みではないです。変化が欲しいですね。井川であるなら、有馬に対して強い感情を持っているのだから、それをぶつけるようなレイアウトにして欲しかった。極端に言えば、口元・手元アップだけでも十二分にその感情は表現できると思う。


43]51]

スクワッシュ&ストレッチの表現。元になっている物体をAとすると、スクワッシュしたAダッシュは輪郭線がびよーんと伸びます。ディズニーでお馴染みの誇張表現ですね。後、ここらへんの母親の喋る作画良かった。すげー嫌なオバサンな感じがバンバン出てますよね。


09]16]

抜けていく鍵盤。鍵が外れたピアノとかピアニカってスゴイ不気味ですよね、それと綺麗な桜のミスマッチ感が上手く表現されてた。ここはCGと撮影が特に力を入れたと思う。これ大変ですよね。


08]11]

01話の流血描写があるからこそ引き立つ、この一滴の血の表現。ドバドバ出てたら大変とかそういうことじゃないんだよね。この一滴には、小学生有馬の今までの思いが全て詰まってる。だから、やっぱり01話の流血描写は必要ですし、オカシクもない。




09話に関しては、こんなとこです。 

■「告白(2010)」  監督:中島哲也 原作:湊かなえ

当時(2011)ぐらいに見た記憶を頼りに書く。主人公は娘を殺された女教師(松たか子)であり、その他の主な登場人物は少年A(頭いいヤツ)とB(自尊心が大きすぎるガキ)、そして少年Aと多くの描写がある少女(橋本愛)である。各家庭の状況をそれぞれに描いていて、特に母親に対しての焦点が鋭かった。少年Aの母親は大学教授であり、少年Aはマザーコンプレックスであった。また「家庭」においては断絶の状態であり、少年Aの聡明さが災いし、結果あの結末となる。一方少年Bの母親は、過保護・過干渉の存在として描かれ、最後には、自分の息子を殺そうとするという結末に至る。両者はどちらも悲劇的な最後であるし、どちらにも救いはない。このどちらにも救いがない悲劇的なラストに爆発を持ってくるのが、まさしくカタルシスといったところだろうか。女教師にとっては、完全なる復讐の完遂である。

少女を少年Aが殺害した理由、というのをはっきりと覚えていないからまた見直そうと思う。橋本愛は凄くかわいい。多分この時に初めて知ったと思う。しかし、このそれぞれの「告白」によって、段々と状況が把握できてくる感じ、霧が晴れていくような感覚は素晴らしい構成。後は、監督について。

監督は中島哲也。「嫌われ松子の一生(2006)」 がそれまでは有名だったと思うけど、あれは見てないから何とも言えない。タイポグラフィは確か、「下妻物語(2004)」では、ゴシック系(「木更津キャッツアイ」みたいな、シュビーン系)で、「松子」では金文体な感じだったんですけど、「告白」から急に明朝に変わった気がする。そんで、「渇き。(2014)」でも、明朝押しは激しく、市川崑のタイポグラフィを凄く真似ている。推測すると、エヴァ新劇序は2007であり、日本映画界においても耳に届いてないはずもなく。まあ簡単にいえば、インパクトが強いということで採用したんではないかと。



■「容疑者Xの献身」 監督:西谷弘 原作:東野圭吾

天才数学者である石神は、隣の家で起こった殺人を全て自分にふっかけ、犯人の親子2人を匿う。この献身さの描写が素晴らしい。一点の曇りもないその純粋で緻密な献身は、愛情・恋愛という方程式を解くという行為である。石神にとっては解答が完成していたが、最後に女がやってくることで、破綻を迎える。

湯川と刑事のアバンでの会話をメインテーマに据え、「愛は解けるか」ということを描く。湯川が石神の家を訪れ、リーマン予想に関する反論の精査を依頼するのだけれど、解き終わった後のシーンの石神のセリフがいい。「素数の分布に対する考えが根本から間違っている」というセリフで、実はこれが最後のシーンに対する伏線になっている。恋愛に関して「こうすれば、こうなる」と石神が前提を立てていた故に、あの献身さがあったのだが、一番最後に重要な可能性を見落としていたのだということが分かる。それは人の思いもよらない想定外・非合理な行動であり、この部分を石神は勘違いしていた。最後の絶叫はその気付きである。

それにしても細かい絵作りが良かったと思う。ラストの壊れたスノーボールとか、ホームレスの描写とか、良かった。終盤における留置所の四色問題のシークエンスとか、良かったなあ。 

■秋アニメ感想記事について

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去年から見てくださってる方は少数だと思うんですが、この画像久しぶりですね。9月10月は割りかし暇だったんですが、仕事柄この時期は忙しいのと後色々あって、結果「新Fate」 も「グリザイア」も多分感想記事出せません。ごめんなさい。

もう本当にね、各話感想は結構キツイ。何であんな長くなるかと言ったら、自分の考え、その時思ったこと、作画に対して感じたことをリアルタイムで書いていくとあの字数になるんですよ。めっちゃ要約の力が欲しいですね。ざっくりした感想であれば、多分出せるけど、何かもう自分ではそれが納得できなくなってしまって。各話感想の最初は、あくまで自分のための備忘録的な感じ(※去年のキルラキルとか役員共とか)だったんですが、少しブログの規模も大きくなってしまったので製作側にも届いてしまうし、見ている人もそこそこいるので、あんまり適当にはやりたくないなあというのが正直なとこ。少しでも丁寧に自分の考えを説明したいし、どういう風な解釈をしているのかも書きたい。もうちっと上手く整理できたらなあ…能力不足です。中途半端にはしたくないので、ざっくりな映像主体の感想は別のブログ作って、そこでやるかも。楽しみにされていた方には、本当に申し訳ない。 

君嘘に関しては、今から9-13話ぐらいまで見ていって、感想書きます。これだけは書きたい。2クール目も全部行きたいですけど、そこもよく分からん。他のエフェクト記事も書きたいし、やること(やるべきこと・やりたいこと)はリアルでもネットでもありますので。

とりあえず、1クール終わりまでは書きます。そこまでは必ず。

まあ適度にお付き合いください。何でもかんでもやろうとすると、こんな風にパンクしますので注意してね!もう2回目だよ(去年の春アニメ時)、これ!本当ゴメン。

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自分のできる範囲をちゃんと認識してから、やっていきます。そこからじゃないと何やっても駄目ですね。

さて、以前「取り留めのない雑記(19)」において、ほっけさんから意見を頂き、「話数単位で選ぶこと」に対する意義をとても深く理解することができた。確かにCMやNHKアニメ短編はその映像の短さゆえに、語られることも話題になることも、今日の情報過多社会ではあまり見られない。それを年のまとめとして、機会を設け、語る、というのは非常に大事なことと共感できる。

既に年は明けてしまったが、去年を中心にアニメーションによるCM、アニメーションが使われているCMを整理した。コマーシャル・アニメーションに潜む魅力が伝わり、何かの参考になれば幸いである。


■「南アルプスの天然水/サントリー(2013-14)」


アクリル絵具のような質感のアニメーション。「動き続ける絵画」と言えなくもない。これは「Wild Life(2011)」からのキャラクター引用で、新しく制作されたものだと思われます。「Wild Life」とは、カナダのアマンダ・フォービスとウェンディ・ティルビーによって制作された短編アニメーション。2012年のアカデミー賞において短編アニメ賞に輝いています。ちなみにオスカーもノミネート。

ここがやはり素晴らしい。

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水流表現。多分12枚リピート。ペットボトルがカチャカチャなってるのもいいよね。とにかく、ここは川の透明度と流れの表現が巧すぎる。「水の透明度」っておそらく表現が一番難しい部類だと思うんですけど、これ見事ですよね。ある一つの水の流れでは、石があって、それを乗り越えていっているのが分かる。障壁がないところは、スムーズに通っている。



■「東京ディズニーリゾート/ディズニー(2012)」


ディズニーランドを舞台に、人の一生を描く。カット割りのテンポ、明暗が特に良かった。最後の方は、お母さんになって、おばあちゃんになるんですが、画面のレイアウトが反転しているのがいいんですよね。時間の移ろいを感じる。未だに制作会社が明かされていないようですが、どうにもIGっぽいですよね。撮影的な意味で、少なくともマッドハウスとかこういうのはしなさそうです。同時期には、LED電球による東芝のCMでも「人の一生」を表現していたりと、伝播するものがあったんでしょうか。



■「ムーヴ カクカクシカジカ/ダイハツ(2008-2014)」


カクカクシカジカ自体は、記憶に新しい人も多いと思うが、この滑り込んだ後の作画について、特にエフェクト(煙・粉塵・砂埃)が素晴らしい。


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粉塵・砂埃が現れ消え行く、そのプロセスやタイミングが時間軸を表している。滑り込んだ直後は、スローモーション的な時間の流れ方だけど、セーフの後にスッと消えることにより、時間が現実に戻ったことをまさしく見事に表現している。



■「20代の部屋編/マイナビ賃貸(2015)」


これこの前見て、びっくりした。サラリーマンの男の子がカバンを引きずっていくところとか、自転車の挙動とかいいですよね。最後のカメラのじわ回りも(ちょっと手前の方が早過ぎる気もしますが)いい。

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「浅野先生が原画を担当!」と公式サイトに記載してあるんだけど、これ全部原画描いたのは流石に嘘やろ、と思う(※浅野先生全カット原画ならそれはそれで凄まじいですが)。どこが作って誰が描いてんやろね。



■「頭は使いよう。/クレディセゾン(2014)」

(みんな大好き)らっパル/山下清悟作画。

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衝撃波がなんとも絶妙な感じでいいですよね、こうぶわあっと。大地が割れて、石がずわあっと。やっぱり、らっパルさんとかってタイミングがこう上手いんですよねえ。女の子も可愛い。後は漫符が地味にアニメーションしているのがいい。



■「クロスロード/Z会(2014)」


新海誠作品。通信教育のZ会のCM。離島に住んでいる少女と、母子家庭と思われる少年の受験を描く。これが上手かった。一般的に、学校以外の教育と言えば、「塾」「予備校」でありますが、この作品に出てくる2人はそれが利用できない。少女は塾が近くないという距離的な問題で、少年は塾の費用が払えないという経済面の問題が原因です。それを解消するための通信教育ということで見事なコマーシャルになっている。さらに言うと、少年はその費用を捻出するためにアルバイトまでしているのが凄まじい描写で。また、家族や親戚に囲まれる少女に対し、最後まで少年側の親が映らないのは、やはり母子家庭の暗示だと思います。


映像としては(去年の最初にも触れたんですが)、やはりこの2カットが素晴らしい。


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おおっとなりますよね。試験をそれぞれのやり方で(深呼吸をする、すぐに取り掛かる、緊張から肩に力が入っているなど)、過ごしているのがいいですね。試験用紙のめくるタイミングもめくり方もみんな違う。こういった細部のディテールは画面の、ひいては映像全体の写実性をやっぱり増します。後は、差し込む光とパーティクルの効果がいい。現象としては空気中の埃が日光で照らされていて教室っぽいなあと。



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ここは年間エフェクトでも触れました。いいですよね、何度見てもいい。消え行く吐息(ダブラシ煙)はセクシーです。細かく髪とメガネを直しているのがまた(女の子らしい)仕草で良かった。



■「ワゴンR エネチャージ篇/スズキ(2012-14)」
 

これは一つ、CG部門として。渡辺謙さんが何か電気の超エネルギーみたいなもんを使ってますよね(笑)。これが当時見てて面白かった。放電エフェクトを作ったのが、「ガティット」というCG・アニメ制作会社。この会社は、アーティストのコンサート・ライブ映像であったり、コマーシャルのC.Iカットなんかも担当されています。



■「コニャラの歌/日清製粉グループ(2010-)」 


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近藤勝也さんによる作画。ジブリと矢野顕子タッグの有名なコマーシャル。やはり、アニメCMで馴染み深いものといったらこれだろうか。何と言っても最後に子猫が母猫寄って、毛並みがふわっとなるところが良い。「柔らかさ・安心・母性」といったものをこれだけの線で描写しているので凄いなあと。 




以上7選+αでした。

コマーシャルのようなショートフィルムには、物語性を持たせることが難しいです。その上、元々の商品の宣伝もしなければならないのですから、負担は単純に考えても2倍増です。それでもなお、これらのCMのように「作品」になり得ている映像が作られるのは、クリエイターの「手加減なし」を感じます。そこには、「コマーシャルだから、物語性の欠如を許そう」とかいう合理化もないんですよね。「あくまでCMであるけども、一つの作品を作ろう」としていることが、制限付きのショートフィルムにおける、瞬間的な魅力と拘束的な妙技だと思います。

これからは、アニメーションCM、CGが含まれるCMはより増加すると思います。個人的には、煙とかを中心に注目していきたいです。


<参考文献>
CM情報-サントリー天然水
コニャラ-日清製粉グループ
カナダのアニメーションデュオ、ウェンディ・ティルビー&アマンダ・フォービスのデザイン-17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード  
Wild Life by Amanda Forbis & Wendy Tilby, 
・CGWorld 180号特別付録
らっぱるさんのツイート  
マイナビ賃貸TOP / お部屋探しキャンペーン 


お久しぶりな気がするようなしないような。


7
アバン:ブランコ有馬、内在する自己(=黒猫)との対話(1)

A:渡の中学最後の大会終わり
・渡泣いてるシーンからの音楽OLはスゴク上手い
・黒猫(2)
・公園の宮園の作画いい
・黒猫(3)
・ライバルとの邂逅

B:過去の有馬から紡がれる現在
・小学生時代の3人
・有馬のコンクールへの恐怖と宮園の支え
・相座から見た有馬
・演奏はオマケでしかない(脚本的な意味で)
・それに至るまでが描写したいところ


脚本・構成

全体の構成としては、黒猫(=有馬の自己)をベースとした、葛藤回です。過去に縛られつつ、何とかもがいている状態。有馬の気持ちとしては、やはり宮園に依存する部分が多く、だからこその毎報コンへの出場を決める。有馬・井沢・相座、三人の小学生時代を回想として出すことにより、邂逅がよりはっきりと明確なものになる。「不安になる、失敗したらどうしよう」という感情は、当時のままの有馬には、最初は自分だけが抱え持つパーソナルな心情だと思っているんだけど、これは当然勘違いです。B後半、他の演奏者が震えて待っていたり、必死に譜面を読み直している状況を見て、有馬はやっと把握します。「ああ、みんな大変なんだ…」と。ここでも宮園の存在は大きい。有馬にとっては、彼女こそが太陽であり、色をつけてくれた張本人である以上の意味を持ち始めています。



作画

げそさんいましたね。黒猫カットあたりらしい。良かったと思う。後はなんだろう。演出にもまたぐことなんですが、渡が泣いているシーンからの音楽オーバーラップはとってもきれいに繋がってた。ああ上手いなあと。実直に心情を映し出していて、それでいて、次のシーンにつなぐんだから。





8
アバン:相座兄の思い

A:相座兄の演奏と三人の過去
・演奏シーン神がかってる
・グラフィニカいいね

B:井沢の過去と演奏
・木枯らしの演出は見事


脚本・構成

相座・井川の有馬に対する感情の違いが独特で、しかしやはり彼らが固執するぐらいに、有馬は素晴らしいものを持っているということが分かります。相座にとっての有馬とは、「完全超人、自分のあこがれ」であり、井川にとっては「有馬公生を否定するために演奏している。最初の演奏こそが本来の有馬公生」という何とも両極端な感じ。相座にとってはリスペクトの対象で、井川にとっては「(私がピアニストの道を選んだ)責任とってよ!」という感じ。現実世界でもそうですが、しつこい、執念深い人は何だかんだ凄いひとが多い気がします。まあ、どっちも非凡ですよね。



作画

34]37]

グラフィニカ(咲-Saki-CG方式)のピアノCGは素晴らしい。そして、ロトスコ&モーションキャプチャー(だったと思う)による作画も負担が大きいと思われますが、良かったです。「彼らがそこに存在している」という感覚を出すのは、非常に苦労がいると思うんですが、その部分が出ていて良かった。存在感がきちんとあった。相座兄のラストで、肩がカタカタなるカットがあるんですが、そこは畳み掛けている感じがあっていいですね。


15]

井川の手クニクニ。ここ上手かった。小島さんいましたっけ。


02]49]
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ラストの木枯らし演出は、作画・CGも相まって見事。美しい画面がそこには存在していて、井川の実直な有馬に対する思いや師事している先生の感情(「いけエミ!」)、そして何よりも井川のこれまでの苦しみ・葛藤・スランプが伝わって素晴らしかった。


こんな感じでした。いやはや大変遅くなり誠に申し訳ない。


[追伸]
「四月は君の嘘」とは関係ないですが、「グリザイア」「新Fate」どっちか各話感想中止します。色んな都合が重なった上です、ごめんなさい。各話感想はやっぱ2個までだね…反省や…

■岡田斗司夫の愛人問題と謝罪ニコ生での狙い

愛人問題の是非は置いといて、ニコ生で謝罪したときに言ったこの言葉で全ては分かる。「僕はね、本当は論理的じゃないんですよ、昔の嫁さんに全部教えてもらって。(中略)それで、面白い話も全部彼女たちから教えてもらってる」というこの文言。これ完璧な理論武装なんですよ、自分には論理性がない。だから、今日喋ることには端から合理的におかしい部分もあるけど許してねってことなんです。やっぱ上手いよね、岡田斗司夫。

で、あの放送の狙いは、「ファンのコア化」です。こんな論理性もないただのオタクのおっさんがやってる事に付いてきてくれるか、それでも良ければ私はあなたを大歓迎する。つまり、「選民」です。岡田斗司夫は一般人からの支持を高めようとかはさほど考えてないんです、あそこまでいけば破綻は目に見えているから。一度、ストレス発散の暴力の場所を提供してあげた。それがこの前のニコ生。そんで、一般人は「人の噂も七十五日」っていう風に、半年もすれば良くなるもんなんです。それを見越して、フリックスとかクラウド市民の中での存在やその中の人たちとの関係をより強靭なものにしようとしてる。そんな気がする。 



■社会・世間を(少しは)良くする、たった一つの方法

社会・世間において、質問・疑問をバカにしない風潮・雰囲気を作ること。これだけ。もっと具体的に言えば、質問や聞くことを気軽に出来る社会にすること、です。政治や経済に対する情報格差が広がっているのは、無知が許されないからであり、シンプルに言えば、「ググレカス」が全てを悪くしている。「こんなことも知らないのか」という否定を恐れるばかりに、子どものみならず大人まで萎縮し、政治や行政、税制度、経済に関する知的好奇心はあるのにも関わらず、「未だ少ししか知らない」という状態が許されず、結果権威主義の盲従になるか、放置主義になるかのどちらかです。

「質問ができる人が伸びる・成長する」、と勝手なことを宣うのは自由だけど、そこに正しい環境はあるか。質問をすると、呆れ顔が帰ってくる。嘲笑される。多くの場所がそんなところで、何度も質問したいと思うだろうか。前、ツイッターで言ったように、特に子どもに対しては、大人が確認しなければいけない。例えば、算数の宿題があり、それを解き終わったとしよう。その後で、「本当にわからない所はないのか」と問いかける。ここで、引っ込み思案な子どもはやっとこさ質問ができるし、適当に考えていた子どもも真剣に問われれば真剣に考える。そうして、本当の質問ができる。

先日の「咲-Saki-CG」記事や「レイアウトと構図」記事については、こういったことを考慮に入れつつ書いた。つまり、「君たち、実は分かっているようで分かっていないことについて黙殺していないか」ということだ。これには、当然ながら自分も含まれている。もちろん完全に理解する必要はどこにもない。しかし、少しでも疑問が生じたり、ある要素とある要素がくっつくのが気になりだしたら、それは既に自分の脳みそで黙殺するか質問するかどうかを判断しようとしている状況である。

もっと無知を表明して、認められる人が増えるべきと思う。そうでなくては、閉鎖感と日本人の萎縮は延々と継続するだけなのだから。疑問を解消したい、質問をしたい人は山ほどいるはずだ。世間がそれを、暗黙的に許していないだけである。そう思う。


なんのことやら分からん人は、下記の記事を読んで頂けるとわかると思います。まあ簡単にいえば、カメラがぐるぐるしてる作画のリファレンス。

<バレットタイム・回り込み関連の記事>
擬似的な回り込み表現のいろいろ
「ごちうさ」のバレットタイム表現と、その類似例
回り込みにおける主観的な時間の流れ方
ゴーハンズ回り込み 



■「四月は君の嘘(2014)」 8話
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相座兄の演奏終盤。カメラがじんわりと回り込んでいる。時間は静止していないが、この刹那的なシークエンスは有馬に対する感情を示したものになっていることはおそらく間違いない。



■「名探偵コナン」 ED48(2014/11/1~)
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コナンED48における完全バレットタイム。「未確認で進行形 MV」のように、カメラは90度回転。髪のなびきが画面に合わせ、右から左に転換しているのが、細かいが良いところ。アングルが変わっても、勢いで押し切っている。ここに理屈ではない。



■「ソードアート・オンラインⅡ」 8話 
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GGOの決勝戦中盤、ダインがペイルライダーによって倒されるシーン。これは単純な回り込みではなく、バレットタイム。高速度撮影+被写体の状況は静止に近いものだからです。一瞬の出来事を長回しで膨らますことができるのは映像の良いところですね、時間軸を操作できるからタメが作れる。



■「咲-Saki- 阿知賀編」 16話
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準決勝大将戦の終盤、竜華の覚醒シーン。これも同じく、一瞬の内に竜華にどれだけの変化が生じたかを示している。つまり、これは竜華の「変貌・変身」を表現するためのバレットタイム。


今回はこんなところです。

何だかんだこの雑記も20個目(ドンドンパフパフ


■個人の自主制作だらけなのは良くないことかも

あまりに自主制作は「ほぼ1人で全部作りました」、というのが多すぎて良くないことだと思う。新海誠の出現が原因とは言い切れないけど、一端だと感じる。もちろん1人で全部作る(作画から美術まで)人がいてもいいとおもうんだけど、あまりに多すぎないかということが問題の要点。世界観の多様性の観点から見て、僕としてはもっと集団でやる人が増えた方がいいと思ってる。1人1人だとどうしても、他の人が関与しないので、その人だけの世界観になってしまう。つまり、団体でやるのに比べ、世界のディテールが必然的に狭くなる可能性が大きくなる。もう1点、作画(アニメート)できる人にしかアニメーションが作れないと仮定されるならば、それはこの業界の愚かさを嘆くべきだと思う。山賀博之だとか、水島努、高畑勲、山本寛みたいな人の存在を否定してるわけで(※これは、アニメートできる人の待遇が改善されていないことに起因する。技術者を使い捨てカイロみたいにしか扱わないところに責任がある。待遇を向上させれば、過労を伴う演出・作監業務をしなくても、ちゃんとした生活を遅れる。つまり、演出家を無理に目指そうとするアニメーターが減るので、必然的に作家の需要が上がる)。書けなくてもアニメーションは完成するし、動かなくてもアニメーションは成立する、それは具体例を示すまでもないと思う。

だけど、1人でやる価値も当然あって、その人にしか出せない、その人がやりたいこと全てを盛り込んだのは1人でしかできないと思う。他の人の意見がここに介入する必要はなくて、その人の動かしたいように、やりたいように世界は作られるべき。個人制作においては、むしろ他人の存在は妨害要素になる。だから何度も言っているように、1人で自主制作をすることを問題にしているわけではない、その数があまりに多すぎる(逆に言えば、集団制作が少なすぎる)ことが問題であると考えている。

これは、「見本市OP」を企画・監督をした後に強く再確認したことだけど、あれは7名全員初対面で作ったんですよ。そりゃあ色々ありましたけど、何とか作れたわけです。作れないわけではないんです。この大変さ(コミュニケーションの煩わしさ、意見の衝突、自己のアイデアを否定される恐怖)を回避しようとして、個人制作に走ってる人が多いんではないんかなあと思うわけです。だから、アニメーション業界はオタクの巣から抜けられないんです。1人1人が教養的であれば大丈夫でしょうが、そうではない。それぞれに得意な分野があって、それぞれに苦手な分野がある。これ自体は問題ないですが、それぞれが上手く補完されていないのが今の現状だと思います。僕は絵が全く描けないどころか、アニメーションを殆ど見てきていません。ですが、(誰にだって)作りたい世界は多少なりともある。究極的に言えば、アニメでも実写でも、紙芝居でも何でもいい。僕にとっては、アニメーションがより正確に構築できる可能性を感じるというだけの話です。

だとすると、非商業である自主制作において重要なのは人間性とか人間関係だと思うんですよ。こんなの実社会と変わらないんですよ。やっぱり、作りたい人と作りたい。好きな人がいる現場で、職場で仕事したい。現実の世界においても、馬が合わない人とは一緒にアニメなんか作っても楽しくないと思うんですよ。お金を貰ってるなら別ですが、それでもなるたけ自分と合う人とやりたいというのは、アニメ業界に限らないと思います。



■「1人でやったから凄い」と考える人が勘違いしていること

最近、中国の方が作ったアニメーションが話題になっていまして。このアニメーション自体は素晴らしいと思いますし、じっさいカメラワークやエフェクトも相当に上手い。そう感じます。だけど、評価として、「1人で作っている」という視点が入るとマズイと思うんですよ。まず、こういった視点が入った時点で、評価基準はすり替わっています。それまで、「作品の内容・クオリティ」で作品の評価を考えていたはずのに、「このアニメは1人で作っている」という基準にいつの間にか変わっているんです。1人で作ることをすごいと感じるのが悪いとは言っていません。因果が逆転しているんですよ。本来あるべき評価の論理体系は、「アニメーションを見る→これはすごいものだ→1人で作っているのか」であるべきはずなのに、「1人で作っている→これはすごいものだ」となってしまっている。これが僕の言いたい問題点です。

新海誠の「ほしのこえ」公開の時もそうだったんですが、みんな思い違いしている。「1人で作ったから、すごい」という論理を採用すると、同じ作品は「多人数で作ったら、そこまで凄くないもの」と自然となってしまうんです。そんなわけないでしょ。大抵ですが、こういう評価の仕方をする人は、想像力が足りていません。一つ質問したいと思います。「多人数で制作すれば、個人の場合に比べクオリティが(その人数に比例して)上がる可能性は高くなる」のでしょうか。

多人数には、そのの強みと弱みがあります。まず多人数で作る場合、物量的なクオリテイ(破片や効果、実作業など)は個人制作よりも増す可能性が大きいです。その代わり、意見の衝突、内容の変更、それによる妥協など、多人数ならではの「人間関係」「コミュニケーション」が制作において大変な問題となってくる可能性も大いにあります。個人制作は、1人ですからケチをつける人が存在しません。なので、妥協や意見の衝突などはほぼありません。その分、自分で全ての作業を行うので物量的な面が制作において一番大変です。

結論を言うと、「1人で作ったから」なんて論理を使うのはオススメできません。それは元の命題としての「作品そのもの」を考慮していません。何度も言っているんですが、作品そのものをもっと純粋な目で見れないもんなんでしょうか。映像に関しては、思い込みやバイアスはゴミです。

これに関しては、少しだけ述べておこうと思いまして。概要に関しては、アニメーターの橋口さんがaskで答えていらっしゃいました。

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(引用元:http://ask.fm/TorahArc/answer/110566648498

橋口さんが仰るとおり、次の牌をツモろうと手が入るカット、つまり、「手と牌だけが映っているカット」。これらは全て3DCG(※以下CG)です。手元より上、バストアップ(胸より上を映すフレームのこと)のカット等では、手書きの作画であったり、CGと作画が混在していたりします。(※この記事では、「作画」という言葉を「手書きの動画」の意味合いで使用します。「CG」については、背景であっても動画であっても、「CG」という意味で言葉を使用しています。)


橋口さんのaskを引用させていただくと、「咲-Saki-」における、CGと作画の使い分けの定義はこんな感じになります。

[咲-Saki- CGと作画の使い分け定義]
(A)手と牌のみが映るカットはCGで描かれる
(B)それ以外は、作画のみか、作画とCGが混在しているかのどちらか

この定義は既にシンプルなので、少しだけ一般的なものにします。制作側が想定しているであろう使い分けの区分定義みたいなモンは、「①手と牌のみが映るカットはCG+②それ以外は場合による」と言い換えることができます。

実際に、「咲-Saki-シリーズ」の一作目にあたる「咲-Saki-(2009)」での1話でそれらについて少し見て行きましょう。


(0)「咲-Saki-」における麻雀描写の実例

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咲さんがまだ文学少女だった頃の映像です。それから京太郎もいますね、何もかも皆懐かしい…。ここでは、何となしにCGと作画混じってんなあぐらいに思ってもらえれば大丈夫です。これから詳しく説明をしていく。ちなみに、CG制作会社はサンジゲンです。



(1)CGによって描かれるカット

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ツモ(1.2枚目)、カン、ポン、打牌(3.4枚目)など「手と牌が同じ画面に入った上での動作・行為」に関しては、このように原則としてCGによって描かれます。バストアップのように、キャラクターの顔が入ってしまうと(※腕はCGで、顔は作画でという風に)映像処理できなくなるからです。可能だったとしても、相当に面倒くさそう。


(1+α)CGと作画の画面

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例外として、こういう画面も存在します。ここでは、タコス、和、京太郎はセルで描かれており、「咲さんの手」だけがCGになっているのが分かると思う。麻雀牌、卓は原則どおりですが、別に咲さんの手は作画で描いていてもおかしくないですよね。こういうのを見ると、キャラの顔が画面に入るかどうかというのは、非常に重要な点なんだと思います。



(2)作画によって描かれるカット

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これは前述したとおり、バストアップのカット(1.2.3枚目)で多く使われます。さらに、卓全体の俯瞰アングルのカット(4.5枚目)や、キャラクターの上半身を収めたフレームのカット(6枚目)でも作画によって描写されます。作画によるカットの多くは、キャラの顔が真正面or若干斜めからのアングルで描かれます。つまり、作画はキャラクター重視。これは、後述の「アカギ」でも同じです。


ここまでで、「咲-Saki-」における原則的な「CGと作画の使い分け」については大体理解してもらえたと思います。次は、実践として映像ではどんな風になっているかを分解して見て行きます。



(3)実際の映像(CG・作画の混在)を分解

※これ以降のgifでは、左上の文字が青色の場合は作画で、赤色の場合はCGであることを表しています。

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まずは和がツモ和了りするシーン。1カット目は腕を上方へと挙げていき、2カット目で打牌しています。意外と省略されている動作が多いことが分かりますよね。「腕を振り下ろす」という動作は、オミット(省略)されています。


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こちらは、咲が自分の手牌からわざとタコスに振り込むシーン。カットごとに追っていくと、①CG→②作画→③CGとなっていることが分かる。2カット目では、麻雀牌も作画で描かれている(※というか、ここの作画めっさ上手い…)。「牌を持ち上げる動作」や「打牌の途中動作」が存在してないのに、シーンとしては絶妙に繋がって見えますよね。


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次は、和の打牌シーン。1カット目は作画で描かれ、2カット目はフルCG。これも、手先にカメラが寄るような格好(ポン寄りのような感じ)でCGへと移り変わってる。でもこれらのシークエンスに対する違和感あんまり無いんですよね。咲-Saki-シリーズでは、こういった「動作をオミットして、作画とCGを繋げる」といったパターンがほとんどなのに。

今まで説明してきた、「動作が省略されているのにも関わらず、きれいに繋がって見えてしまう」、この現象を、実は映像用語で「カッティング・イン・アクション」、よく使われる言葉では「アクションつなぎ(ACつなぎ)」と言います。定義としては、「ある一つの動作が始まってから終わるまでの複数のカット割りの2カット目以降」を指します。昔からある手法です。誰が発明したのかは、調べたんですけど判明せず。ハリウッド映画において発明されたようですが。いつ頃からあるんでしょうかね。ともかく、「咲-Saki-」においてはこの「ACつなぎ」を多用しています。



(4)「阿知賀編(2012)」「全国編(2014)」との比較

若干ですが、折角なので阿知賀編や全国編との比較もしておきましょう。


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まずは、16話。全国準決勝の大将戦オーラスで、大星淡が山へと手を伸ばすシーン。これは、第一期でも見られた、名付けて「こいつが最強なんやで」描写です。咲さんも第一話目から、こんなのかっ飛ばしてましたね。カット毎に見ていくと、作画→CG→作画という風に往来してテンポが良い。しかもやはり違和感が皆無。


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同じく16話。「阿知賀編」からは、こういった「煽りアングルで、牌をなめてキャラの顔が映り込む」といった描写が多くなっているような気がします。これいいですよね。対戦相手が相手の手牌に対して鋭い思考を放っているのが分かって良い。一期では見た記憶がない。(※「なめて」とは画面手前に大きな物体が置かれたアングルを意味する)


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こちら全国編の11話。作画→CG+作画→CG。末原さんが姫様の異変をやや察知して打牌しているシーン。これも上記の「阿知賀編16話」と同じく、手前の河牌をなめて咲さんが映り込んでいる。これ本当いいアングルです。2カット目では、打牌する咲さんの手が細かく作画されている。(※これ頑張ったら、手前の牌で隠せるから手の作画しなくてもいいよね。


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ラストは、同じく全国編11話での咲さんのツモ。CG→作画へ。これすごい丁寧なアクションつなぎだと思うんですよ。作画に入る時、難しいアングルじゃないですか。それをしっかりと下からインする形で描けているのは見事だなあと。

後、変態動画を見つけました。


この動画作成者は変態です。言い切れます。何か参考になるかもしれないので、興味がある方は見てみたらどうでしょうか。僕は見れる気がしません。(※だって17分だぜ…)



(5)「闘牌伝説アカギ 〜闇に舞い降りた天才〜(2005)」のCG麻雀描写

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もうお疲れの方も多いでしょう、僕も疲れてます。そろそろ終わりたいんですが、麻雀CGアニメの草分け的存在、「アカギ」を語らずして終わりというのは少し寂しい感じがありますので。打牌の感じも良かったんですが、個人的には、このシーンが一番魅力的だった。


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20話。鷲巣麻雀2回戦のアカギの手牌を右にPANする形で描写。パースが効いてて良いカットです(やはり、麻雀漫画・アニメといえば、パースをきつめに効かしているのがカッコイイ)。鷲巣麻雀での使う牌は、1種類につき3つが透明牌です。そこで起きる、この透明感の描写。凄まじいのは、鷲巣の部下鈴木の服の映り込み方。ラストで最も明確になるんですが、きちんと屈折してるんですよ。

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すげえこれ。CGだけじゃなくて、撮影も相当に頑張って作業したに違いない。このディテールによって、もっとリアルさが増加します。


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18話。煽りから俯瞰アングルへの転換。こういった立体的なカメラワークが多用されるのが、「アカギ」における麻雀描写の魅力の一端であると思う。対面のアカギや鷲巣の手は作画で、それ以外はCG。この立体的カメラワーキングによって、臨場感と麻雀が分からない人にも伝わる「何か良い手が来た」という状況説明になっているんですよね。本当、こういうカメラワークが多用されます。透明感はさっき説明したように、同様に素晴らしい。

これエンドクレジット見ても、「COXAI ANIMATION STUDIO」とかすんごい曖昧な感じなんですけど、何処がやったんでしょうか。最初オレンジと勘違いしてたんですが。「メトロポリス」みたいにマッドハウス内部なんでしょうかね。これ10年前にやってんの本当すごいと思う。



(N)麻雀CG表現

個人的に「咲-Saki-」よりも「アカギ」の麻雀描写の方が好みなんですが、どこらへんが良いのか具体的に分かってない。ただ何となく、重い感じが「アカギ」CGにはあるなあという程度で(後は、やはりカメラワークでしょうか)。次回は、その辺りを詳しく説明できたらなと思っています。「勝負師伝説 哲也(2000-01)」とかも麻雀アニメではありますが、あっちの麻雀描写はほとんど作画ですので、さわり程度にしか触れないと思います。「哭きの竜(1988-90)」に至っては見たことがないです。まあ、どちらにもアニメにおける「麻雀描写の基本」みたいなモンはあると思います。


比較コラ2


カン!(続く)


<参考文献>
2-2-3 <アクションつなぎとジャンプショット>-映像の読み書きについて考える
アニメにおけるマッチカットの実例-大匙屋@セミリタイア 
アニメ用語、絵コンテ用語、映像用語、井上ジェットのカメラワーク大辞典
ジャンプカット-Wikipedia
<ジャンプ・カット手法>-テアトル十瑠 
蓮實重彦×青山真治-怠惰なひな菊 

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