GOMISTATION

足が絡まっても、踊り続けて

2015年01月

■岡田斗司夫の愛人問題と謝罪ニコ生での狙い

愛人問題の是非は置いといて、ニコ生で謝罪したときに言ったこの言葉で全ては分かる。「僕はね、本当は論理的じゃないんですよ、昔の嫁さんに全部教えてもらって。(中略)それで、面白い話も全部彼女たちから教えてもらってる」というこの文言。これ完璧な理論武装なんですよ、自分には論理性がない。だから、今日喋ることには端から合理的におかしい部分もあるけど許してねってことなんです。やっぱ上手いよね、岡田斗司夫。

で、あの放送の狙いは、「ファンのコア化」です。こんな論理性もないただのオタクのおっさんがやってる事に付いてきてくれるか、それでも良ければ私はあなたを大歓迎する。つまり、「選民」です。岡田斗司夫は一般人からの支持を高めようとかはさほど考えてないんです、あそこまでいけば破綻は目に見えているから。一度、ストレス発散の暴力の場所を提供してあげた。それがこの前のニコ生。そんで、一般人は「人の噂も七十五日」っていう風に、半年もすれば良くなるもんなんです。それを見越して、フリックスとかクラウド市民の中での存在やその中の人たちとの関係をより強靭なものにしようとしてる。そんな気がする。 



■社会・世間を(少しは)良くする、たった一つの方法

社会・世間において、質問・疑問をバカにしない風潮・雰囲気を作ること。これだけ。もっと具体的に言えば、質問や聞くことを気軽に出来る社会にすること、です。政治や経済に対する情報格差が広がっているのは、無知が許されないからであり、シンプルに言えば、「ググレカス」が全てを悪くしている。「こんなことも知らないのか」という否定を恐れるばかりに、子どものみならず大人まで萎縮し、政治や行政、税制度、経済に関する知的好奇心はあるのにも関わらず、「未だ少ししか知らない」という状態が許されず、結果権威主義の盲従になるか、放置主義になるかのどちらかです。

「質問ができる人が伸びる・成長する」、と勝手なことを宣うのは自由だけど、そこに正しい環境はあるか。質問をすると、呆れ顔が帰ってくる。嘲笑される。多くの場所がそんなところで、何度も質問したいと思うだろうか。前、ツイッターで言ったように、特に子どもに対しては、大人が確認しなければいけない。例えば、算数の宿題があり、それを解き終わったとしよう。その後で、「本当にわからない所はないのか」と問いかける。ここで、引っ込み思案な子どもはやっとこさ質問ができるし、適当に考えていた子どもも真剣に問われれば真剣に考える。そうして、本当の質問ができる。

先日の「咲-Saki-CG」記事や「レイアウトと構図」記事については、こういったことを考慮に入れつつ書いた。つまり、「君たち、実は分かっているようで分かっていないことについて黙殺していないか」ということだ。これには、当然ながら自分も含まれている。もちろん完全に理解する必要はどこにもない。しかし、少しでも疑問が生じたり、ある要素とある要素がくっつくのが気になりだしたら、それは既に自分の脳みそで黙殺するか質問するかどうかを判断しようとしている状況である。

もっと無知を表明して、認められる人が増えるべきと思う。そうでなくては、閉鎖感と日本人の萎縮は延々と継続するだけなのだから。疑問を解消したい、質問をしたい人は山ほどいるはずだ。世間がそれを、暗黙的に許していないだけである。そう思う。



なんのことやら分からん人は、下記の記事を読んで頂けるとわかると思います。まあ簡単にいえば、カメラがぐるぐるしてる作画のリファレンス。

<バレットタイム・回り込み関連の記事>
擬似的な回り込み表現のいろいろ
「ごちうさ」のバレットタイム表現と、その類似例
回り込みにおける主観的な時間の流れ方
ゴーハンズ回り込み 



■「四月は君の嘘(2014)」 8話
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相座兄の演奏終盤。カメラがじんわりと回り込んでいる。時間は静止していないが、この刹那的なシークエンスは有馬に対する感情を示したものになっていることはおそらく間違いない。



■「名探偵コナン」 ED48(2014/11/1~)
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コナンED48における完全バレットタイム。「未確認で進行形 MV」のように、カメラは90度回転。髪のなびきが画面に合わせ、右から左に転換しているのが、細かいが良いところ。アングルが変わっても、勢いで押し切っている。ここに理屈ではない。



■「ソードアート・オンラインⅡ」 8話 
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GGOの決勝戦中盤、ダインがペイルライダーによって倒されるシーン。これは単純な回り込みではなく、バレットタイム。高速度撮影+被写体の状況は静止に近いものだからです。一瞬の出来事を長回しで膨らますことができるのは映像の良いところですね、時間軸を操作できるからタメが作れる。



■「咲-Saki- 阿知賀編」 16話
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準決勝大将戦の終盤、竜華の覚醒シーン。これも同じく、一瞬の内に竜華にどれだけの変化が生じたかを示している。つまり、これは竜華の「変貌・変身」を表現するためのバレットタイム。


今回はこんなところです。


何だかんだこの雑記も20個目(ドンドンパフパフ


■個人の自主制作だらけなのは良くないことかも

あまりに自主制作は「ほぼ1人で全部作りました」、というのが多すぎて良くないことだと思う。新海誠の出現が原因とは言い切れないけど、一端だと感じる。もちろん1人で全部作る(作画から美術まで)人がいてもいいとおもうんだけど、あまりに多すぎないかということが問題の要点。世界観の多様性の観点から見て、僕としてはもっと集団でやる人が増えた方がいいと思ってる。1人1人だとどうしても、他の人が関与しないので、その人だけの世界観になってしまう。つまり、団体でやるのに比べ、世界のディテールが必然的に狭くなる可能性が大きくなる。もう1点、作画(アニメート)できる人にしかアニメーションが作れないと仮定されるならば、それはこの業界の愚かさを嘆くべきだと思う。山賀博之だとか、水島努、高畑勲、山本寛みたいな人の存在を否定してるわけで(※これは、アニメートできる人の待遇が改善されていないことに起因する。技術者を使い捨てカイロみたいにしか扱わないところに責任がある。待遇を向上させれば、過労を伴う演出・作監業務をしなくても、ちゃんとした生活を遅れる。つまり、演出家を無理に目指そうとするアニメーターが減るので、必然的に作家の需要が上がる)。書けなくてもアニメーションは完成するし、動かなくてもアニメーションは成立する、それは具体例を示すまでもないと思う。

だけど、1人でやる価値も当然あって、その人にしか出せない、その人がやりたいこと全てを盛り込んだのは1人でしかできないと思う。他の人の意見がここに介入する必要はなくて、その人の動かしたいように、やりたいように世界は作られるべき。個人制作においては、むしろ他人の存在は妨害要素になる。だから何度も言っているように、1人で自主制作をすることを問題にしているわけではない、その数があまりに多すぎる(逆に言えば、集団制作が少なすぎる)ことが問題であると考えている。

これは、「見本市OP」を企画・監督をした後に強く再確認したことだけど、あれは7名全員初対面で作ったんですよ。そりゃあ色々ありましたけど、何とか作れたわけです。作れないわけではないんです。この大変さ(コミュニケーションの煩わしさ、意見の衝突、自己のアイデアを否定される恐怖)を回避しようとして、個人制作に走ってる人が多いんではないんかなあと思うわけです。だから、アニメーション業界はオタクの巣から抜けられないんです。1人1人が教養的であれば大丈夫でしょうが、そうではない。それぞれに得意な分野があって、それぞれに苦手な分野がある。これ自体は問題ないですが、それぞれが上手く補完されていないのが今の現状だと思います。僕は絵が全く描けないどころか、アニメーションを殆ど見てきていません。ですが、(誰にだって)作りたい世界は多少なりともある。究極的に言えば、アニメでも実写でも、紙芝居でも何でもいい。僕にとっては、アニメーションがより正確に構築できる可能性を感じるというだけの話です。

だとすると、非商業である自主制作において重要なのは人間性とか人間関係だと思うんですよ。こんなの実社会と変わらないんですよ。やっぱり、作りたい人と作りたい。好きな人がいる現場で、職場で仕事したい。現実の世界においても、馬が合わない人とは一緒にアニメなんか作っても楽しくないと思うんですよ。お金を貰ってるなら別ですが、それでもなるたけ自分と合う人とやりたいというのは、アニメ業界に限らないと思います。



■「1人でやったから凄い」と考える人が勘違いしていること

最近、中国の方が作ったアニメーションが話題になっていまして。このアニメーション自体は素晴らしいと思いますし、じっさいカメラワークやエフェクトも相当に上手い。そう感じます。だけど、評価として、「1人で作っている」という視点が入るとマズイと思うんですよ。まず、こういった視点が入った時点で、評価基準はすり替わっています。それまで、「作品の内容・クオリティ」で作品の評価を考えていたはずのに、「このアニメは1人で作っている」という基準にいつの間にか変わっているんです。1人で作ることをすごいと感じるのが悪いとは言っていません。因果が逆転しているんですよ。本来あるべき評価の論理体系は、「アニメーションを見る→これはすごいものだ→1人で作っているのか」であるべきはずなのに、「1人で作っている→これはすごいものだ」となってしまっている。これが僕の言いたい問題点です。

新海誠の「ほしのこえ」公開の時もそうだったんですが、みんな思い違いしている。「1人で作ったから、すごい」という論理を採用すると、同じ作品は「多人数で作ったら、そこまで凄くないもの」と自然となってしまうんです。そんなわけないでしょ。大抵ですが、こういう評価の仕方をする人は、想像力が足りていません。一つ質問したいと思います。「多人数で制作すれば、個人の場合に比べクオリティが(その人数に比例して)上がる可能性は高くなる」のでしょうか。

多人数には、そのの強みと弱みがあります。まず多人数で作る場合、物量的なクオリテイ(破片や効果、実作業など)は個人制作よりも増す可能性が大きいです。その代わり、意見の衝突、内容の変更、それによる妥協など、多人数ならではの「人間関係」「コミュニケーション」が制作において大変な問題となってくる可能性も大いにあります。個人制作は、1人ですからケチをつける人が存在しません。なので、妥協や意見の衝突などはほぼありません。その分、自分で全ての作業を行うので物量的な面が制作において一番大変です。

結論を言うと、「1人で作ったから」なんて論理を使うのはオススメできません。それは元の命題としての「作品そのもの」を考慮していません。何度も言っているんですが、作品そのものをもっと純粋な目で見れないもんなんでしょうか。映像に関しては、思い込みやバイアスはゴミです。


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