GOMI→STATION

さむくてエモい時期です

2015年10月

のんのんびより公式サイト

さて、「のんのんびりぴーと」は好評のまま無事終了した。継続して見ていたが、2期において感じたのは、その時間感覚のリアルさである。「のんのんびより」の劇中内に流れる時間感覚は、現実の時間の流れと非常に似ていた。他の日常系アニメには無い、「(現実世界に敷衍しても違和のない)時間のリアルさ」を感じたのだ。今回は、他の日常系アニメを通じて、「のんのんびより」の時間感覚、「劇中における時間の流れ」というものを見ていきたい。

キャラクターの日常風景を楽しむ雰囲気を日常系アニメにおいて、「時間の流れ方」は肝心要の部分である。そして、「のんのんびより」の時間感覚は、現実の時間に非常に近い。何故、のんのんびよりの時間感覚は現実の時の流れに近いのか。


まずは、他の日常系での時間感覚を整理したいと思う。

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例えば、「ゆゆ式」における時間の流れを見ていこう。ゆずこ、唯、縁たち3人の時間だけを切り取り、その周辺環境(パソコン室)を補足しながら、時間は彼女たちのペースで緩やかに流れていく。お互いの家に行ったりもするが、基本的に彼女たちの関係性は、3人だけの「小さな関係」だ。小道具や部屋には彼女たちの性格は反映されるが、それが外の世界と関係性を持つことは殆ど無い。


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「キルミーベイベー」では、基本的にやすなとソーニャ、あぎり、没キャラの4人以外は描かれず、背景もイメージBGが多用される。ここでは、彼女たちキャラクターオンリーで物語は描かれてゆき、彼女たちの関係性は、「小さな関係」の中で発展していく。

彼女たちのキャラクターを誇張し、その関係を示すには、凝った背景美術や他の学生の描写などは端から必要ないのだ。それらは全て、彼女たちの関係性において妨害物となり、「小さな関係」を築けない。キルミーベイベーの物語は「小さな関係」の中で、構築され発展していく。それがコメディアニメとしてのキルミーベイベーの本質であると思う。彼女たちの中の小さな繋がりだけで進行していく物語を、視聴者は傍から見るのだ。



近年の日常系アニメの筆頭ともいえる、「ご注文はうさぎですか?」においても主要キャラ以外の情報はほとんど示されず、5人の中でリレーするように話は展開していく。これも「キルミーベイベー」の類型と思われる。チノからココアへ、ココアからチノへ、鬼畜和菓子からシャロへと、エピソードはそれぞれの関係を重視して描かれる。つまりは、彼女たちと明確な接点がない要素(学校、土地、店)とはあまり関係を持たず、彼女たちの「小さな関係」の中でしか物語は殆ど発展しない。日常系アニメは社会性を失い、キャラクターの関係する範囲はどんどんと狭まっていく。

「社会性の喪失」、これこそが日常系アニメの基本であり、心がぴょんぴょんする一因である。非日常系アニメにおいて、外部環境との関係がキーになる以上、社会性(外部との交流)が喪失することは少ない。外部と交流する状況を映さない日常系アニメは、ユートピアそのものである。外部から横槍が入ってしまうと、その理想郷は破壊されてしまう。だからこそ、関係性は「彼女たちの中で」脈々と育っていくのだ。


ここまで見た3作品の日常系アニメに共通することは、画面に示される彼女たちの関係性がいずれも、その舞台世界において個別の「小さな関係」であるということだ。もう一つの共通点として、外部の環境は彼女たちに影響をさほど及ぼさないというのがある。彼女たちは駄菓子屋に寄ったり、公園で戯れたり、帰り道でお店を訪ねたりするが、それらが彼女たちの関係性に対し、何らかの影響を与え変化を促す、といったことは殆どないのだ。それら外部の環境は、彼女たちの関係にとっては、小道具のようなものであり、「クレープを一緒においしく食べた」「公園で遊んだ」というアクセサリー的装置にしかすぎない。外部の環境は、付属品にはなりうるが、本体には成り得ない。つまり、物語の本題にはなれないのだ。それが、非日常系アニメと最も異なっている点である。

非日常系アニメにおいては、外部の環境は重要な伏線となり、物語に影響を与える。「シュタインズゲート」を例にすると、未来ガジェット研究所にしろ、ブラウン管工房にしろ、フェイリスのメイド喫茶にしろ、ルカ子の神社にしろ、それぞれ物語の本題に密接な繋がりを持つ。世界線が変わることで、その存在意義や立ち位置は瞬く間に変貌する。端から存在が無くなってしまう場所まである。「新世紀エヴァンゲリオン」にしてもそうであろう。碇シンジの心情は、彼が部屋にいる時と、コクピットに搭乗している時では全く違う。ゼーレの集会や、第一発令所におけるブリーフィング、使徒との戦闘後のデブリーフィング、セントラルドグマの構造やその破壊、それらが物語に影響を及ぼすのは言うまでもない。

日常系アニメは、これらの外部環境の効果がほぼ無きに等しいと言っても過言であろう。彼女たちにとって、外部の環境は物語自体に影響力を持つものではなく、付属品として彼女たちの魅力を拡大するものである。だからこそ、「プール回」という俗語も存在する。日常系アニメにおいて、外部の環境はあくまで気まぐれな存在なのだ。


対して、「のんのんびより」はどうなのか。

「のんのんびより」は、その「小さな関係」を描写する日常系アニメという体裁を保ちながら、「世界」と「彼女たちの関係性」を同値に描くことで、現実の時間感覚をあたかも見事に取り入れている。日常系アニメで、付属品であった外部環境を物語の背景(時には彼女たちと同等に)として描いているのだ。

描かれるのは過疎地域の平凡な日々、過ぎていく穏やかな時間。蛍、れんちょん、なっつん、こまちゃんら、「彼女たちの関係性」は、舞台世界の大きさとほぼ同値に描かれる。「のんのんびより」における舞台世界とは、例えば田んぼや森、虫、分校、さびれたバス停など描かれる世界全てであり、視聴者に示されない情報も含まれる。ここには、例えば、「蛍がやってくる1年前の旭丘分校の入学式以降の様子」といった劇中で示されていない要素も含まれている。

そこに彼女たちのキャラクターが配置されていく。「ゆゆ式」や「キルミーベイベー」などの日常系が、世界における「小さな関係(キャラクター内で発展する関係)」を優先したのに対し、「のんのんびより」では、彼女たちの関係性を「小さな関係」とせずに、舞台世界と同等の大きさ(「大きな関係」)で描いている。

これもうわかんねえなあ(混乱)
簡易的なベン図を用意した。大体こういうことだ。

小さな関係について大きな関係について

通常の日常系アニメは、「世界」が「彼女たちの関係性」を包括する。「世界」を必要条件として、彼女たちが存在する。「彼女たちの関係性」は「世界」にとって、十分条件にすぎないわけである。対して「のんのんびより」では、「世界」と「彼女たちの関係性」がほとんど同値に近い。


時間感覚の流れがリアルなのは、この「世界と彼女たちの関係性の大きさが同値」な点に起因する。「(のんのんびよりが成立している)舞台世界」と「彼女たちの関係性」が同値であるならば、この状態は現実世界のものと相似的であり、時間の流れは現実と近似する。つまり、「舞台世界で流れる時間」と、「彼女たちの関係性の中で流れる時間」がほぼ同じということだ。


この時間についての証左たる描写は2期2話で示されている。

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2期2話では、忌避される描写があった。自動販売機の虫がうじゃうじゃいるシーン。このシーンにおいて、(写実性という点では意味があるが)展開として虫を描く必要性はさほどない。誰だって虫の大群なんて見たくないし、ましてや萌え・日常系アニメでは悪手とも言える。虫の大群を見るなら、ナウシカで十分なわけであって、安らぎを求める日常系アニメにおいてあえて登場させる必要性は皆無に等しい。スト―リー展開として、明かりや目印が伏線であるならば、代用品はいくらでもあり、それこそ電灯でも、特徴的なランプでも何でもいいわけだ。

それならば、なぜこのようなシーンを描こうとしたのか。都会の自販機であったら、一応の管理があるために虫はさほど寄って来ない。しかし、ここはドが付く田舎の中の田舎。周囲にあるのは森と田んぼや用水路である。この外部環境において虫が生息していないわけはなく、むしろ山ほどいるのが現実的でリアルだ。前述のとおり、典型的な日常系アニメでキャラクター本位で描こうとすれば、虫を回避する方法はいくらでも方法はある。しかし、その選択をしなかった。それは、決して彼女たちの関係が「小さな関係」に留まるものではなく、「世界」と同等の関係性であることを描こうと突き通した故の演出ではなかろうか。


だからこそ、このような画面になったと思う。キャラクター本位であれば、女の子と自販機というだけで画面に違和はない。田舎という点を考慮しても、虫の描写はちょろっと端っこに書くだけでも物語の整合性は満たされる。作画や仕上げの負担も増えるのにもかかわらず、うじゃうじゃと虫を描いたのは、前述の「彼女たちの関係性」に起因すると思われる。「彼女たちの関係性」、ここではコマちゃんと蛍の関係を、「世界」と同等に扱おうとしたからこそ、この画面となったのだ。虫も田んぼも用水路も、コマちゃんと蛍の関係性の中に同居しているのだ。そうすることにより、受け手側もその関係性の中に自然に溶け込むことができる。


ここに「のんのんびより」の凄みを感じる。日常系アニメという体面を保ちながら、非日常系アニメ以上に外部環境を積極的に取り入れ、結果的には舞台世界と彼女たちの関係性を同等に描こうと試み成功した。この点において、「のんのんびより」は大成功を収め、たくさんのファンを生み出したのだと思う。

のんのんびより is God


<参考文献>
とりとめもないけれど、それでも時間は過ぎていくから。という話 - 不定形爆発 Ver.2.0 
2013秋アニメ のんのんびより - 大匙屋@セミリタイア   

多忙ではないけど、少し色々あった。
わりと回復してきた。


■おそ松さん

1、2話見た。これはこれでいいんじゃないのかな。おそ松くんを読んだのは、栓抜きの回だけなんだけど、いい気がする。今アニメ化しようと思ったら、このアニメ企画そのものへの風刺というのは的を射ている気がする。現代風刺をするのは原作そのものにも通じる部分があると思う。この上なく推測で物を語ってしまって、申し訳ないけど。「ニンジャスレイヤー」も賛否あったけど、なんだろう、もう結果論じゃないかなあと思ってる。あっちはちゃんとやるべきだった気もしてしまうけど、やっぱどうなったか分かんないし。


■ワンパンマン

こちらも1、2話鑑賞。アクションは言うまでもなし。エヘクトは情報量的な観点で多分あの薄さが、いい意味で効果的なんだと思う。もう少し重厚に書いて欲しい気もするけど、アクションが悪くなるかも。分からん。原作の持ち味をどこまで出しきれるかが勝負。村田先生じゃなくて、ONE先生の方ね。あのどうしようもない画力なんだけど、全力を出し切っているのが分かって、それでいて童心をくすぐるような英雄モノの原作。特撮モノ見てる感じの、「頑張れ!クワガタイタン!」みたいな本気で応援したくなるような味を出してもらいたい。 



■COPPELION(2013)(過去枠)

ちょいちょい見てる。いい加減に最終回までさっさと見ろっていうね。作画は中盤からややヘタリ、でも十二分に良いです。ゴーハンズの色味最高。でも、ストップウオッチみたいな演出は流石にギャグで駄目だった。それ以外は、人と人形のテーマが一貫されてて素晴らしい。04話アバンのTBみたいカメラワークは、マジでかっこ良すぎた。多分感想を前後編でまとめます。



今季すっごいアニメ見てるなあと思ったら、3個だけだった( ^ω^)テヘペロ。僕のキャパシティはこんなもんかなあ。あんまりやりたくないんだけど垂れ流しで見てみようかな、肩の力抜いて。 まあ本当にアニメの数を減らしてくれ、頼む。頼んでも仕方ないけど。後は、ギアスとか見直したい欲が高まってきている。

初見で見た時は、これCGなのかと目を疑った。
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カセットガール - アニメ(ーター)見本市第35話


CGの技巧が優れてるのは言うまでもないんだけど、特に流れるような金田アクションと、作画に引けをとらないエヘクト。この2点が特筆すべき点かなあ。金田系アニメーターの摩砂雪はコンテでも金田アクション随所に盛り込んでくるんですが、今回も自然に放り込んでて上手い。


爆風ふっとばされアクション
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爆風で吹き飛ばされた後、空中に放り出されて雪の上に着地までのアクションです。これの何処がスゴイかと言うと、CGでサバサバした金田アクションをやってるとこですね。しかも上手く決まっている。普通のCGIだったら、もっと女の子が空中にいる時間は長いです。こんなに短い上、破綻していないのは偉業と思う。カラーデジタル部はコマ落としを多用したんじゃないのかな、摩砂雪はアニメでも特撮でもよくやるし。


おっとっと
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観直した中で一番良かったアクションはこのシーン。
板がずれて後ろに動いたために重心も一緒に動いて、女の子は体が前のめりに。その後、真正面からの風に押されてしまい上半身は後ろへと傾く。この間、下半身は固定されたままなんで、殆ど動けないんですが、最初の方では抵抗しようと内股になってたり、後半の風に姿勢を持って行かれて、少し開いちゃってる。いやあ、細かいとこまでちゃんとコントロールしてやろうというのが伺えます。




レンタル屋爆発
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2回閃光した後の爆発。
一回目の煙はタイミングがいい、じんわりタメてます。その後は、ガヤも混じりながらの全面煙。ある程度勢いで押してるのと、2色という色数でセルルックにやってるのが良いです。ここはリアルと漫画が混ざった感じですね、一回目の煙は少しリアルなんだけど、2回目の煙はちょっと漫画っぽくド派手に。


どっかーん着地
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カメラに衝撃波が届く瞬間にショック表現として、ビデオのノイズを使っているのもまた良いですねえ。エフェクト本体は4色程度かな。煙自体の展開や、煙が冷えていく描写を色と透過光でコントロールしてますね。舞い上がって消える破片も綺麗だ。後は、前の方にニョキッと出てくる煙かな。この煙のタイミングがものっそい良いですね、煙全体のじんわり感を上手く演出してると思う。 



総括すると、アクションについては挑戦的な表現で、しかも金田アクションとの親和性が高い点に驚きました。なんとなく、「金田系」と「CG」は両極端に位置していると思っていたので。ある種到達点とも思う。エフェクトは破片、瓦礫も含めて、総合力が高い。2色の煙は下手なアニメーターが書くより断然素晴らしいです。タイミングもそうですけど、画面を何とかコントロールしようとしている工夫と試行錯誤が伝わってくる。面白かったです。

カセットガール - アニメ(ーター)見本市第35話

■Get Sportsの上原浩治特集の構成

1 結論|上原浩治は素晴らしいピッチャーだ(C)

2 現在の彼のポジション、役割
  →中継ぎ軽視の批判も交えて紹介
  →セットアッパーというポジションの説明(これから説明することの前提知識)

3 上原の成績
  →一見、普通
  →しかし、周囲の評価はものすごく高い⇒どうしてか?(W)  

4 K/BBという指標がヒントとなる(R)
  →指標の説明
  →一般的なデータ(3.50~で優秀)の提示
  →上原のK/BB(=14.33)という偉大な数字/補足としてメジャー史上3番目

5 K/BBの理由その1|どうして多くの三振を奪えるのか?(W2)
  → まっすぐは遅い方、しかしメジャーのバッターは面白いように空振る
  ⇒どうしてか(≒W2) 
  →フォークを警戒するため(∵上原の40%はフォーク)
  →加え、ストレートの伸びが良いため低めを警戒していると、バットが空振る
  ⇒(W2の結論)=ストレートとフォークのコンビネーションによるもの(R2)
 
6 K/BBの理由その2|どうしてフォアボールを出さないのか?(W3)
  →巨人時代から制球はいい、しかしメジャーに来てから成長している
  →「勝負しないともったいない」「楽しみたい」という上原の気持ち
  ⇒(W3の結論)=(たとえ打たれたとしても)真っ向勝負にこだわりたい(R3)

7 再結論|上原浩治はやはり素晴らしいピッチャーだ(C)
  →R2(投球術)+R3(上原の楽しみたい気持ち)=R(K/BB=14.33という数値) 
  →R(R2+R3)⇒C 

・COWBOY BEBOP(1998)「Tank!」
 
アニメでシルエットと言えば、まず「Tank!」を思い描く人が多いと思う。特に強調されるのは陰影で、最初タバコに火をつけるところやメカのシーンに顕著に現れている。今となっては、このように「シルエット=オシャレ」と言っても過言ではないくらいに、ポップカルチャーにおいてオシャレな演出手法になっている。


前回の記事のコメントでご指摘いただいた、ルパン三世、タッチなどはシルエット表現の前段階を指しているといえよう。照明がキャラに当たり、影ができる。そこから少し探っていこう。

・ルパン三世(TV第1シリーズ)(1971)「ルパン三世主題歌I」

初代ルパンは当初、「大人向け」に作りたいと予定されていたが、実際に流してみるとあまりに視聴率が悪く、「子供向けに作らんかこのドアホ!」という鶴の一声で宮崎・高畑コンビの台頭に繋がったのはまた別の話。この初代OPの時点では、大人向け・原作のハードボイルドさを十二分に出すことを意図していたのは明白である。

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(※左画像はパイロットフィルム版における1シーン)

このハードボイルドな表現は、おそらくフィルムノワール系の洋画からの影響だ。

フィルムノワールというのは、フランス語で「暗い映画」を意味し、代表作は「ビックコンボ(1941)」「過去を逃れて(1947)」等がある。ドイツ表現主義を背景とした、シニシズム・ニヒリズムな趣向の映画ジャンルである。フィルムノワールの画面は、一言で言えば、ハイコントラストな黒の世界。この極端な明暗描写は、ビックコンボなどの撮影監督である、ジョン・オルトンによって生み出された。


BigComboTrailer
ビックコンボ(1955)

画面は明暗のコントラストを強調する。(源流という意味合いで)アニメにおいてのシルエット表現は、フィルムノワール系洋画の影響があるように思う。また、恐怖・不安を感じさせる「陰鬱な画面」が、今ではオシャレな「明るい表現」として感じられる。これは不思議と言わざるを得ない。否定的な画面が、約50年あまりで肯定的な画面にそっくり転換しているのだから。


このシルエットのオシャレ化に起因するのは、一体何だろうか。
まずはシルエットの歴史から見て行きたい。

そもそも、シルエットとは18世紀における切り絵から始まったとされ、写真の登場まで人物の特徴を記録することに使われた。そして、19世紀前半にかけてアメリカで流行し始め、最初は肖像技法として用いられた。その後は、当分の間肖像技法として用いられたが、ここにポップ・アートの誕生が関係すると推論する。

アンディ-ウォーホル-マリリン・モンロー-1967-ホットピンク hair-ribbon    
☆ポップ・アートは、第一人者のアンディー・ウォーホールやロイ・リキテンシュタインによって、大衆文化に受け入れられた、大量消費社会を表現する芸術運動の一つだ。アンディー・ウォーホールは、ポップ・アートの先駆者であり、コントラストを効かせた「マリリン・モンロー」等が有名である。アンディー・ウォーホールは、アメリカ内で大量生産され流布したシンボル(スープの缶、)を作品化したことで知られている。「記号性」という観点で見ると、シルエットに通ずる部分は多い。この点については、少し引用する。
マリリン・モンローは、二〇世紀アメリカの巨大なマス・メディアがつくりあげたセクシーな「女」の記号です。(中略)
彼女は、本当の自分を見いだそうとさまざまな人生遍歴を歩みましたが、それがまたマスコミにスキャンダラスにとりあげられ、ますますその虚像をふくらませていきました。彼女の悲劇は現代の記号による疎外の象徴です。マリリンはその悲劇性にも高められ、私たちの情感を刺激する「女」の記号の典型となりました。
実在の人物であった彼女は、今や生死を超えた完全なイメージの記号です。ウォーホルのねらいは、完全なイメージの記号となったマリリンを使い、現代の記号性と私たちの情感の関係をあからさまにすることです。現代の社会のなかで、私たちはマス(大衆)としてあつかわれ、機械的に量産された記号によって人間的な情感をかきたてられ、充足を得るようにうながされています。ウォーホルは、同じ一つの記号がマス(大衆)としての私たちに一斉に同じ感情的な反応を呼び起こす事実を、驚きをもってとりあげています。

引用元:20世紀アメリカ現代美術作家論 「アメリカ現代美術は何を残したか」 河瀬 昇
マリリンのイメージは、セクシーな「女」という記号化であり、その単一の記号によって大衆が皆同じく感情的な反応を起こす。これは現代アニメにおいて、「シルエットをオシャレを感じる」のと同じ現象と言っても相違ないだろう。さて、ロイ・リキテンシュタインだが、彼の作品群の特徴は、「単純化された線」と力強い色使いにある。これも「単純化」という観点で、大いにシルエットに通じる。この点についても少し引用したいと思う。


リキテンシュタインは、現代のマス・メディアが私たちに差し出すヴィジュアルな記号の一つ、漫画を取りあげます。 漫画はその内容を一瞬のうちに伝える記号性をもっています。その一こまは雄弁かつ瞬時に、全体の筋書き、面白さ、対象とする読者の層までもを物語ります。 彼は劇的な漫画の一こまを選び取り、そのまま大画面にに引き伸ばしたように描きます。

リキテンシュタインは、漫画の記号性を題材にしたことについて次のように語っています。
「それは何かの絵のように見えるのでなく、物そのもののように見えるのです」 
ロイ・リキテンシュタインは、漫画の持つ、内容の単純化、すなわち「記号性」を全面に押し出した描写方法で、作品を作った。上記引用において語られているとおり、「絵ではなく、物そのもの」に見えるように、すなわち記号性の拡大によって、作品を現実に敷衍しようとしたことが分かる。

これらポップ・アートが今日のシルエット表現のイメージを決定づける要因となった、とまでは断定することができないが、少なくとも、「オシャレ化」への重要な部分的影響力はあったのは確実である。そういうわけで、今日のシルエットのオシャレ化の源流に、ポップ・アートが存在していることは明らかだ。



・「ドクター・ノオ(1962)」 オープニング・シークエンス

映像分野においての「オシャレ化」は、フィルムノワールの延長線上に位置する「007」の第一作「ドクター・ノオ(1962)」に大きく現出している。定番のオープニングシークエンスでは、シルエットでダンスする様が見受けられ、フィルムノワールからの発展表現が展開されている。フィルムノワールにおけるシルエットは、極端なコントラストにより恐怖・不安を表し「否定的な表現」であったが、「ドクター・ノオ」においては、ポップさを表しており、「肯定的な表現」へと劇的に変化を遂げている。

この変化に起因するものは、おそらく世相である。シルエットという表現がポップカルチャーに進出したのは、特に40年代から50年代にかけてである。第二次世界大戦からレッド・パージの当時の暗い世相は、不安を喚起させるフィルムノワールに反映されており、これがシルエット表現の根底となった。その後に生じた、アメリカ経済の急成長と繁栄を反映し、シルエットは「オシャレ」になっていった。前述の「ドクター・ノオ」はシルエットのオシャレ化の先駆である。また「ドクター・ノオ」は1962年の世界興行成績では第1位となっており、大衆文化に大きな影響を与えたであろう。

☆シルエットという表現は、1940年代のWW2からレッド・パージの暗い世相を反映し「フィルム・ノワール」となった後、50年代のポップカルチャーを牽引していたアメリカ経済の繁栄に引っ張られ、それらを反映した「明るい表現」、今ぼくらが持つ「シルエット=オシャレ」という表現になったと、推論する。




・ルパン三世(第二2期)(1978)「ルパン三世のテーマ」(第27話~51話)

さて、日本アニメーションにおいてだが、当時『宇宙戦艦ヤマト』によって日本では第一次アニメブームが起きていた。そのアニメブームの中、音楽:大野雄二などの体制が整い、ルパン三世の象徴となるテーマソングが誕生したのが、この「新ルパン三世(第2期)」である。

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このOPでは、狙いを付けているスコープを撃ち飛ばす「ドクター・ノオ」のオマージュが見られる(※動画では42秒あたり)。その他も艶めかしく、ポップ・アートらしさも取り入れた洒落たOPであることが分かる。特に、ポップ・アートの初期であるコミックスの画面があるのが特徴的だ。



・ルパン三世(第二期)(1978)「ルパン三世'80」(第104話〜155話)

青木悠三によるコンテ・作画のOP。シャキシャキとした独特なタイミングと色のセンスによって、「ルパン三世」に茶目っ気を含ませたオシャレなイメージをもたらした。前述したOPとともに、現在の「ルパン三世」のイメージを作り上げたと言ってもいいだろう。

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不二子のスカートに対しての光源を線で単純化したり、ビリヤードの状況をさほど見せずに登場人物同士が丸になることで記号的に表現している。「単純」と「記号」はシルエットにとって重要なのは前述したとおりで、それらの要素が効果的に出ているOPだ。


その他のアニメにおいては、「キャッツアイ(1983)」のEDなどにも散見される。ディスコブーム、バブル時代を反映するかの如くに、艶めかしく派手な映像となっており、シルエットのオシャレ化が進んでいることが分かる。映像表現に、世相はやはり強く影響する。この後の時代、2000年代以降のシルエット表現は大畑清隆によって発展させられていうことは既に述べた(※80年代後半、90年代については、正直何が大きな影響であったか分からない。機会があればまた調べていく)。


・ipod  commercial(2003)

その後、映画・アニメ以外で、「シルエット=オシャレ」という概念を普及させたのは、おそらくはiPodのCMだ。2003年に初出した後、数年間にわたって使用され続けた。シルエット化された人物が、iPodで音楽を聞きながら、楽しげに踊る。このCMが印象に残っている人も多いことだろう。ここにおいて、シルエットが持つ意味合いは確実なものとなった。




シルエットの根底にあるのは、フィルムノワール的、換言すればドイツ表現主義としての「不安」の表現である。その恐怖・不安といった表現から始まり、「ドクター・ノオ」に代表されるポップな表現となった。ポップ・アートにおいて、アンディー・ウォーホールらによってシルエット的表現が大衆文化に受け入れられていった。時を同じくして、日本ではアニメブームが生じており、その最中に「ルパン三世」は制作され大人気となった。とりわけ第二期のOPアニメーションにおいて、今のルパン三世の洒落たイメージとともに、シルエットのオシャレ化が促進された。その結果、シルエットはオシャレに僕らの目に映るようになったのだ。

30年ぶりのTVシリーズ「ルパン三世」OPにも、シルエットはとても大人しく、そしてひっそりと煌めいている。


<参考文献>
資料集 > 映像で見るiPod(CM集) 
007 ドクター・ノオ-Wikipedia  
フィルムノワール-Wikipedia 
007ジェームズ・ボンド「ドクター・ノオ」:James Bond – Dr. No 1962 
フィルム・ノワール傑作選PART 2  
20世紀アメリカ現代美術作家論 「アメリカ現代美術は何を残したか」 河瀬 昇

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