GOMIstation

2025-1

2019年02月

それはきわめて辛い作業だからだ。

なにが辛いのか。批評的になるということは、「良い」部分も「悪い」部分も、なるたけ客観的に見なければならない。自分の主観をなるべく押し潰して語らないといけない。良い要素は隠れた部分を除けば、だいたい分かることで。批評的になるときは、悪い要素がメインになってしまう場合が多い。つまり、「これはなぜクソに見えるのか?」ということを構造的に語るときには、悪い要素も取り上げなければ批評とならない。良い部分を取り上げても、それがクソな作品の原因ではないので意味がない。

なるたけ、本当になるたけ、中立性(主観性を少なくする)を保ちつつ、批評しようとする。それで、批評的な文章が出来上がる。読者からのツッコミが入る。これは良い、誰からかツッコミが入るのはむしろ喜ぶべきことで問題がない。なにが辛いのか。それは、クソな作品を見直すことだ。ツッコミが入った時点で、その部分をもしくは全体を見直す必要性が生じる。自分がクソと感じ、構造的な悪い要素に起因すると考えたことを、もう一度見直さないとならない。自分が好きでもない作品に対してだ。

重ねて言おう。仕事でもないのに(なんなら足が出ている)、自分がクソと考え論評したアニメ作品を見直す必要があるから、批評的な文章は体力と精神を大変に消耗する。だから辛い。

─そうであるならば、最初からやらなくていいのでは?─
こう思う人がたくさんいるだろう。


エセ批評家やその類の文筆家が批評をしていたら、べつに僕のような素人が批評することもない。大して必要がない。先日の記事通り、批評と体系化の努力を怠り、「”楽屋チックな裏話”こそが批評」という論評の土壌を作ってしまったことこそが、明確な失敗である。そして、「批評性のない批評」を生み出した最たる原因だ。なにがいいたいか。エセ批評家・研究家・編集者は、自分たちの仕事を放棄したくせに報酬をもらい称賛されているので、くたばってしまえ、ということだ。

「批判すると仕事がなくなってしまうから」というなんともジャーナリズムにあるまじき情けない理由で、批評活動は、今日において日本内アニメに対してほとんど行われていない。それでもなお、「なんちゃって批評家(実情はインタビュアーだろうな)」を褒め称えて、かれらの仕事を評価したために、アニメ・漫画映画からは批判性質が失われた。これは、しみったれた前世代的な「知識量を権威」とみるところに起因する。つまりは、たくさんの知識を所有しているから権力がある、という風潮は未だに根強く存在しているのだ。目の前の箱や板によって差異が少なくなったにもかかわらず、知識の所有の優位性(「あの作品にはこんな裏話があった!」という態度)にいまだ強引に縋り付いているのだ。知識優位的権威の姿勢は、批評から批評性を奪い映像評論を成り立たなくした。同時に、批評することによって得られる体系化もされてこなかった。

つまり、いま僕たちが見ているアニメは、どのような風に地続きになっているのか、だれもかれもさっぱり分からないのだ。体系化など微塵もしてこなかった。そして、一部のみが、その地続きを所有している風に見せかけており、あるときは隠したり、あるときはまるで全て把握しているかのごとく喋ることで権威を維持している。眉唾ゼロ年代批評もその一部である。「なにか賢そうなことを言っている」という、逆説的な知性のなさに、批評性はまったくとして必要とされなかった。そこに、「知性がありそう」と思わせるだけでアニメオタクを錯乱させるのには十分だった。

現状、地道に良いところ/悪いところを列挙しても、「悪いところ探しをするな」と言われる事態だ。比較分析すれば、「好きなアニメを持ち上げるために、別の作品を持ち出すな」と予想外の家から投石が届く。この国民に批評は早すぎたとしか思えない。ひとたび意見すれば、否定と勝手に誤った認識を起こし拒否を行う。否定と批判と、嗜好と分析、主観と客観の区別がつかない。そんな論理性が欠けた国民であるがゆえに、アニメ批評の土壌は育たなかったし、これからも作られることはないだろう。


さあ、「知識を捨てよう」といっても受け入れられない。なぜか。知識こそが彼らのアイデンティティであり、彼らの自尊心を支える石杖だからだ。それを捨ててしまっては何もできないのだ。なんと情けないことか。かれらは汚くなってしまった十二単を脱げない平安貴族である、さて脱ぎ捨てて楽になろうと言ってもなれない。なぜか。それが、彼らにとってはステイタスであり常識だからだ。腐り果てるまで、十二単を脱ぐことはないだろう。

知識は楽しむもので、知識ありきの態度を他人に押し付けるものではない。所有していないと駄目なものではない。クリエイターのインタビューなど、眉唾ものでその発言は信じるに値しない。いちばん大事なのは画面である、それだけ。そんなシンプルなことを5年続けても、ほとんど伝わっていないと思う。「画面を楽しむこと」はひっそりと忘れ去られている。副産物であるクリエイターの裏話などが主たる”批評”になっている。未だにあのようなエセ批評家どもの文章を読み、文章やコラムに金を払っているのがその証左であり僕の憎悪だ。はっきり言ってしまえば、ぼくはアニメを見る習慣などない。アニメを見ない理由にとくだんのものなどない。だからこそ、ほんとうに偶然別の角度から入ってこれたと考えているが、これだけ多くの人間に本当の意味での思考や寛容のなさを感じると辟易する。

いつまでも親鳥のエサを待つ小鳥のようだ。

知識満点のステーキコラムを読み─
それらしい要素が散りばめられたエッセイを読み─
汚いコネ知識に金を払い─
とんでも理屈に感銘を覚え─
いっけん賢そうな論壇を真似していく─


そうしていつまでも、本質たる画面を置き去りにするのだ。画面の技術やクリエイターを「わからない/知らない」と言えない社会は息苦しい。気軽に教えてもらえない雰囲気が漂う社会はつねに苦痛で嫌気が指す。「知っていて当然/知っているべきだ」という態度や前提がいかに多くの人を遠ざけているか、諸氏は自省されたい。

クリティックの存在しないアニメ言及は成長せず、フィードバックもないので、アニメそのもののクオリティも向上しない。脚本家は推敲を繰り返し、原画マンは不眠不休で働き、動画マンは貯金と命をすり減らし、制作進行は何人も過労で倒れる、そうやって作られた作品自体の批評をさして行わないのだ。異常ではないか。現場を考慮して同情的になることは、むしろ彼らにとって侮辱的ではないか。彼らの労力をただ称えたり、彼らの血反吐に前時代的な拍手をし感動ポルノ化させ咀嚼するのみが僕らの役目か。きわめて懐疑的にならざるを得ない。

本当に評価されるべきクリティックは評価されずに、ネットを漂っているばかりで見ていられない。アニメーションという素晴らしいものはあっても、この国にはそれは早すぎた。いち映画監督である山本寛が、前述した批評家たちなどとは比類しない批評的文章を開陳できる現状は正直に言って異常というほかない。


[追記]
わかりにくいのは僕の文責なんで、チラ裏はどっか他所でどうぞ。ゼロ年代批評のあの賢そうな文体は嫌いな人も多そうだから反発する気持ちは分からんでもない。ああいう感じを皮肉ったつもりだったんだけど、後出しじゃんと言われたらそれまでだねえ。そこはすまんごねえ。というか、表面はどうでもいいです、内容の批判なら受け付けますよ!議論しましょう!

かぐや様のチカダンス、すごく話題になってますね。藤原書紀の頭のおかしさを示すような、トリッキーなリリックとメロディに乗せて、チカが踊る。中山直哉さんという方がロトスコープを用いて描かれたそうで。特に良かったのは、「スカートの動き方」ですね。


・かぐや様は告らせたい:チカダンス(2019)#03ED
20190209100949

ロトスコといえど、このストンと落下する感じ。実写映像から画をうまく拾ったんだろうなあ、ギャザースカートの重力を感じる。




さて、スカート作画にはいろいろあるのだぜ。チカダンス並に、それ以上にスゴイのもあるのだぜ。


・CLANNAD 〜AFTER STORY〜(2008)#ED
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これはフレアスカートですね。スカートが波状にうねるとだいたいフレアスカート。とんとんとジャンピング気味なので、スカートがダイナミックに動く。そのダイナミックさに合わせて、影の入れ方も激しくなっている。



・電脳コイル(2007)#OP
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OPの1カット、本田雄による作画
走ってきてゆっくりと止まるシーケンス。ゆっくりになるに従って、スカートの跳ねがだんだんと小さくなるところがポイント。スカートの跳ねが大きいことで、けっこうな速度で走ってきたのを伝える。


#02
20190209100950

サッチーから逃げるところ。フレアスカートっぽい。必死に逃げる脚に合わせて、動くスカート。特にヤサコ(メガネ)のスカートの動きに注目。


同スロー
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動きを見ると、二人のスカートの素材・布地が異なっているのが明確にわかりますよね。ヤサコのはやわらかく、フミエのはやや硬め。なんかラーメンみてえだな。



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同じく02話から。本田雄による作画。重心の移動がスカートの動きによって示されている。


同スロー
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いったん右に寄ったため重心が傾き、スカートが右方向に跳ねる。ここが上手い。



・四月は君の嘘(2014)#20
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西井涼輔による作画
ややデフォルメ調に描かれている。スカート見事だなあ、揺れ+伸びが上手い


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左右にスカートが揺れて、ジャンピングに合わせてスカートも一緒に伸びて、着地したら横に膨らむ。



・進撃の巨人2ndseason(2017)#27
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村に帰る途中のサシャ。スカート長いのでロングフレアかな。それより大事なのは、巨人の間をすり抜け落下した後の動き。膝の形にスカートが変形し、立ち上がるときにスリムに変化。技巧光る。


#27 ★
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ローポジションから俯角への回り込みショット。サシャの鬼気迫った表情もそうですが、回り込みながらスカートが大きくなびくことで、画面全体に緊迫感をもたらし最大の山場を醸し出す。






ざっと見たけど、スカート作画のだいたいはこんな感じ。他にもたくさんあるでしょうけれど。ここで紹介したのは工夫されているのが分かる。けれど、これらを差し置いて、常軌を逸した「どうやって描いたんだ?悪魔とプリーツ契約でもしたか?」と思うくらいのスカート作画がある。




それは西井涼輔による「恋愛ラボ」のプリーツ作画です



・恋愛ラボ(2013)#1 ★★★
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プリーツスカートを書かせたら右に出る者はおるまい

スカートは最初だらっとしている。左足からダンボールに乗り、引っ張られる力の描写はさも当然のように着地した衝撃のリアクションまでスカートに反映させて揺らしている。精緻・繊細という言葉が似合うスカート


 
#12 ★★
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サヨは普通に走っているのでスカートはまとわり付くように動くくらいですが。キャピキャピしているリコのプリーツは左右に大きく跳ねる。体の動きは描ける人はいると思うけれど、リコの変な動きに合わせて装飾品であるプリーツを破綻なく描き切っている。最初のスライディングも含めて


チカダンスにハマっている人も、何気なしに覗いた人も覚えてもらう言葉は、板野サーカスならぬ「西井プリーツ」です。とんでもないよね西井涼輔のプリーツスカート作画。

<参考資料>
作画オタク2名との配信-ニコニコ動画

読者からの質問
読)ガーリー・エアフォース1話の冒頭CG戦闘シーンの板野サーカスは微妙というか、CGとしてはクソすぎてクソオブクソだと思います。作画サーカスに及ばねえクソさだと認識してますが、その辺イアキさんから見てどうですか?

ということで冒頭だけ見ました。なんかストパンみたいだな~



ガーリーエアフォース#1冒頭サーカス群


その1
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戦闘機の動きがちょっと速くて、ミサイルが追いつく感じがしないかな~
でも、全体を通してレイアウトは立体的で良い



その2
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CG戦闘機が背後を取るのがちょっと雑な気もする。こんなバシバシ動くか?みたいな。ミドルショットからロングショットの板野サーカスカットですが、軌道が惜しい部分がありつつもよくできている



その3
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これ惜しいなあ。途中まではキレキレでいちばん良いサーカスなんですけど
ラストの右回り旋回が少し良くない、画として欲張ってしまった感じがする




CGサーカスの参照例としていくつか

宝石の国#3(2017)
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オレンジCG。動く目標(戦闘機)がない代わりに、シンシャの毒液を2本出すことで板野サーカス風味に。先に出ていった方を後の毒液が追いかけている。




ヤマデロイド(2015)[アニメーター見本市#10]
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ロングショットの戦闘から、手前にヤマデロイドと悪役2人が寄ってくるサーカス。これはヤマデロイドが追われる側です。追いつきそうで追いつかない。



ガリエアのサーカスを見て最初に思ったのは、微妙なのもあるけれど良いショットもある。他のCGサーカスについてもそう。CGサーカスはクソって言うと、この記事はなんの意味も持たないので、良い画が持つものを考えることにします。良い画とそうでもない画、この差はいったいどこにあるのか。


──板野サーカスの生みの親、板野一郎はとかく「理屈」の人で、チャフやフレアの概念を持ち込み画に昇華した。リアルなものをアニメーションの世界に持ち込んだ。なぜ、このミサイルはこういう動きになるのかを説明でき、しかも実践してきたアニメーターだ。そんな板野一郎は以前から、「板野サーカスにおいては軌道が最重要」と述べている。結論から言えば、ガリエアやCGの板野サーカスの差はここにある。

次回はそういう所を探っていきたい

お久しぶり増尾作画

プロジェクトA子(186)の増尾原画作業は「宇宙戦のところ」だけだと思っていたんですが、見直してみると、他のところも普通にありました。そりゃメカニック作監だもんね、あるわな。まあ見直す機会も少ない作品なので、ここで取り上げておこう。





「戦闘機体、敵航空兵力と接触」から一連の戦闘シーンはおそらく全て増尾昭一によるもの
冷静に考えて見るといったい誰が得する情報なんだろうか…




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ショックコマ+白コマ乱れ打ち、これだけで増尾作画ですね
板野サーカスもありますね、キレイな軌道だ
画面手前から奥にスーッと行くのがいい、特にいちばん左のやつ




20190203035606

破壊破片描写が緻密ですねえ、ムーンラインは言わずもがな
クモ型メカの爆発は、この時期よくやる手法
着弾した後に白コマ乱れ打ちして、十分に溜めてから爆発させる
ザ・カタルシス


AKIRA前ぐらいまではこんな感じの作画が続く




★★
 20190203035607

ミサイルがスムーズに出ていき奥の戦闘機に命中
キレイなサーカスと爆発だなあ
あとここは増尾破片が分かりやすい




001004

「ハ」の字を描く感じ
こういうのを散らばらせる




次回から少し板野サーカスを集中して取り上げます
CGサーカスがメインになるのかなあ

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