■キャラクターの一面性化

これは「岡田斗司夫ゼミ」だったかな、とある人から聞いたんだけど、その内容が素晴らしく面白かった。岡田の言ってたことを簡潔に要約すると、「キャラクターの強い面も弱い面も描写する(※エヴァ的・富野的な)”立体的な”キャラクター造詣は今受け入れられにくい、それよりもキャラの一面性(※この子は、どんな要素をもってるか単一に言語化できる水準まで一面的)をペラペラに描いた方が受け入れられやすい」と。

ああ、なるほどなあと腑に落ちてしまって。その岡田がどうして「キャラの一面性」が支持されているかどうかという説明までは聞かなかったんだけど、僕は自分で非常に納得できてしまって。それは何で納得できたかというと、「ファンの二次創作(SS、同人誌)」がとても多いアニメは(※比較的)人気も高い、というのがあったから。「咲-Saki-」なんかが代表的だと思うんだけど。これはおそらく、「東方」と同じように、ありていの設定があれば自分たちで物語を無尽蔵に作れるということで。キャラに自分がしたい肉付け(もしくはストーリー)をしていっても、ある一定の閾値を超えない限りは、そのキャラの別な側面(※本編では描かれていない)として許容されるんだろうなあと。閾値を超える場合は、突き抜けるほどひどい場合に限って、異常性が増すので、結果として「別物」として、これまた許容ができるんだよね。これは東も「データベース消費社会(だっけ?)」 とか何とかで言ってたような気もする。 

「艦これ」も基本的に、キャラ設定みたいなものはあるけど、そこまで深く設定が組まれてるわけではないでしょ。だから、爆発的に受けて、同人ゴロは大陸移動したし、ファンアートやSSは大量に製造されているし、アニメ化にまで至ったと思う。これは別の側面も表していて、クリエイター予備軍が山ほどいるということなんだよね。モデリングがあって初めて動かせて、模倣から自己創作は始まるのだから、これは当然といえる。けど、おそらく、「クリエイター予備軍のままが楽で儲かるから、クリエイターになる必要もない」、と考えている人もまた山ほどいると思う。他人の設定を借りて、自分で展開するのはスゴイ楽だということは言うまでもなく。二次創作が悪いとは思わない。ただ、それで、ずっとクリエイター風に装ってるのはおかしいよねと。





■アニメ論評の態度について

「閾値を超えれば」というのはボクもそう思う。それは最低限の知識であって、論評するのに必要十分・必要最低限な閾値だと感じます。ただ、その最低限のラインをクリアした後、知識が増えていくに従って、論評のクオリティも上昇するとは思わないということです。こういう風に感じる理由は、個人として、知識が増加していっている最中なんだけど(※アニメを見出したのは2010ぐらい。ちゃんと見出したのはここ数年。)、論評が知識から出てくる感じは今のところ無いなあというのが実体験としてあるわけなので。到達していない可能性も十二分にありえますが。(閾値の意味合いが違うとは思います。)

知識の増加に関してはメリットだけではなく、当然デメリットもあって。前回も言ったとおり、例えば、「暴力ヒロイン(四月は君の嘘の椿、宮園)についての是非」を語る時に、「Working!!」の伊波まひるは例示するくせに、「うる星やつら」のラムちゃんは無視するという暴力的な論評があったんですね。自分の意見を通すために敢えて「ラムちゃん」という具体例を提示していないんです。「ラムちゃん」というのは、彼らにとっては反例であるから。これは、知識が下手にあるから、起こりうる事象だと思うんです。伊波まひるという存在を知ってるから、それに結びつけて自分の都合のいいように論を進める。

これは当然、知識がなくてもできることですが、知識が増えればそういった可能性が増えることは自明です。それだけ、ある種の思い込み材料が増えていくのですから。つまり、偏見やアサンプションを持ちながら論じる可能性と、知識の多寡とは相関性があると思うのです。アニメでなくても下手に知識を得て、思い込みを抱えることは少なくありません。例えば、野球とか。

知識と論評の態度、という観点からは少し脱線するかもしれませんが、もっと「純粋に」「真摯に」「真っ当に」映像を享受できてない人が多いよね、ということを言いたかったのです。だからこそ、知識と論評の巧技が比例するとは思えないし、論評の巧技と比例すべきは「映像享受の態度」ということです。