12話「トゥインクル・リトルスター」
絵コンテ:神戸守
演出:福島利規


アバン:クライスラーの「愛の悲しみ」について

A:イマイチ
・ピアノと母親
・今とこれから

B:良かった
・プールでの溺れかけ
・三池くんかわいそう



脚本・構成・演出・作画

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さて毎報コンクールの余韻も終わりに近づき、ガラ・コンサートへの練習が始まる。宮園が選んだのは、「愛の悲しみ」で有馬は何度も拒否をする。有馬にとっては、母親との思い出深すぎる曲であるため、露骨に嫌がる。毎報コンでは、宮園かをり1人のために弾いたが、小学生時代には母親のために弾いていたので、構造的には変わってないことが分かる。「誰かのため」という依存性がなければ、彼は今ピアノが弾けぬのだ。



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「この曲は母さんの匂いがしすぎるんだよ」というセリフに至るまでの描写。ここはあまり良くなかった。音声1つとっても映像に与える影響は大きく、(音声が)あまりにくどすぎるために、なかなか有馬に同情・同化できない。つまり、第三者の想像力が入り込む隙間を排除してしまっている。「お前なんか死んじゃえばいいんだ」という1シーンを無音声にすることで、想像は少しばかりでも広がるのになあと。



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日常における「祭り」と、ガラコンへ向けての「ピアノ」というのは、関連性が全くなく、それゆえに水と油のように、有馬の日常にピアノが強調される。これは舞台装置として非常に効果的で上手い。コンクールや学校を描くだけでは、彼らの日常、生活、世界観を読み取ることが難しいし、何よりもピアノ自体も印象的でなくなってしまう。しかし、全く関係のない場所でピアノというものを描くことにより、コンクールのときよりも格段にピアノの話に注目ができる。



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2枚目。ここは引きの画ではなく、寄りの画ではないのかと考えてしまった。寄れば当然、彼らだけの世界になるし、星空も輝くと思うのだけど。引いたのは、おそらく星空を見せるためなんだろうけど、それならばアングル自体はもっとアオリの方がいいような。



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このシーンでは、音楽とデフォルメどっちもカレカノ意識を感じた。が、BGMぶつ切りは何となくもったいない気がする。シーン全体にデフォルメをかければいいのではないかなあ。



さて一転。Bパートは非常に良かったので、追いかけて見ていく。

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そうそう、柏木さんはこのぐらいブスがちょうどいいです。もっとブスでもいい。説教っていうのはね、ブスがしないと意味ないんですよ。現実世界にいそうな女の子って大抵そうでしょ(ひどいこと言ってる)。少なくとも想像上の世界では、嫌な役回りの子っていうのは姿見も相対的に悪くならないと、何か筋が通らないんですよ。あいつイケメンなのに、偉そうに講釈たれてるぜみたいな。もちろんそれが魅力の場合もあるんだけど、基本的にはバランスを取るというか。



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このレイアウトはすごく興味がある。今から記すことは全て推測なんだけど、ここでの主役は宮園と渡、傍観者は有馬と柏木、そして椿の役割はおそらく、「逃避」だと思う。前述のとおり、柏木さんはすごく客観視するキャラクターであって、有馬も現実を素直に受け止める努力をしてる。だけど、椿だけは未だに有馬が宮園に惹かれていることを認めたくないという感じで、逃避してしまっているような印象を受けた。



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プールに飛び込んでからの、「音に束縛されない」シーンの描き方は見事の一言。水中に祭りでの描写をオーバラップさせることで、有馬の思考が重層している感じを出している。溺れていることから、ピアノの音が聞こえないことをショック的に想い出し、そこから祭りでの会話を想い出し、そして水中で演奏しようとする(音が鳴らないピアノを弾こうとする)。この一連の流れは素晴らしかった。


今回は以上です。