04、09話と続いて、13話すごい良かったです。今のところナンバーワン。

13話「愛の悲しみ」
絵コンテ、演出:倉田綾子



<主題の概要>
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一つ目の主題は、有馬親子の悲劇性です。まず、おさらいですが、これまでのエピソードで出てきていたモノクロの有馬母のイメージは、全て有馬公生がピアノを演奏しないための言い訳として作られた「亡霊」であります。本当の母親に関する記憶は、有馬が意図的に心の奥底で封印していました。映像では、この対比をある2点で差別化することにより演出しています。それは、「モノクロかカラーか」という点と、「有馬母の目元が映るかどうか」という点です。つまり、単純には「モノクロ」→「カラー(目無し)」→「カラー(目有り)」という対比構造があると考えています。そして、もう一つの主題は、有馬公正のピアニスト人生の残酷性です。母親の死というものは彼にとって、とても大きなマイナスもあったけど、それを補わんばかりのプラスがある。有馬が成長するためには、もしかしたら失って進む必要があるかもしれない。



<1、有馬の作り出した虚像と、母親の真の姿>

有馬の作り出した虚像は言うまでもなく、ピアノを弾くことから逃げるための口実・建前であり、この虚像によって身体的な「音が聞こえない」状態を発生させていました。これは、多大なストレスを抱えていた子供時代の有馬公生の無意識のうちの防衛反応(※これ以上ピアノでストレスを感じないように)であろうと思います。 

しかし、有馬は宮園と出会い、彼女の破天荒さに惹かれていきます。さらに、藤和音楽コンクールにおいて他のピアニスト、言えば凡人の感情や意識、考え方を認識していき、「舞台に立つのを恐れるのが、自分だけではない」 、「完全な準備など存在しない」ことに気が付きます。これらによって、有馬は自分への言い訳をやめていきます。つまり、ピアノを弾けない理由を「音が聞こえない」ことに転嫁するのをやめ、「音が聞こえないなら、どうしたらいいだろうか」という風にピアノに真っ向から向き合うとするのです。

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(01話、12話より)

物語の最初、有馬の母親に対する虚像(改ざんした記憶)は、このようにモノクロから始まります。前述した通り、有馬は自分の考え方を反芻することをやめ、宮園を筆頭に他人の価値観を知ります。そして、「音楽とはなにか」という根本的・本質的な問いに対して、つまづきながらも答えようとします。

そういった過程で、虚像と実像は有馬の心の中で葛藤を繰り返します。「ピアノを弾きたくない自分」と、「ピアノをもっと演奏したい自分」との間で悩み苦しむのです。こういった部分が顕著に現れていたのが、04話。

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(04話より)

モノクロによって示される無機質でストイックな人という記憶、もう一方ではカラーによって示される優しく温かみのある人という記憶。これは有馬母の両面であり、この2つの記憶によって有馬にとっての母親は完成されます。悲しい思い出を捨て去ることはできません、悲しい一面を捨てると有馬にとっての母親像は(※記憶を意図的に捏造するため)破綻してしまいます。また、「虚像」と「ストイックな母親」というのは同義ではない点に注意してもらいたい。虚像は有馬の作り出した、ピアノを演奏させないための「亡霊」であり、悲しい記憶から出来上がったニセモノです。虚像は存在しませんが、ストイックな母親というのは確かに存在していたのです。


これら3つの像が交錯し示されていたのが、13話(当話数)。

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(13話より)

このように、目元が明確に示されることで、有馬母がより具体的に形どられていきます。有馬に優しく接していた時期の記憶も、病気を発症し、有馬に厳しく接するしか方法が分からなかった時期の記憶も、有馬にとって、母親にとって捨てることなどできない大事な思い出です。自分が亡くなった後、息子は1人でちゃんとやっていけるだろうか、という不安や無力さから厳しく、そして時には度を超えた指導をしてまでも、ピアノの技術を身に染み込ませる。これこそが、タイトルに冠されている「愛の悲しみ」そのものであります。愛あるが故に生じてしまう、子供に対する優しさや温もりとは真反対の言葉や行為。これはまさしく、悲劇です。


また、実像と虚像の対比を「内」「外」で演出している部分も注目するべき点であると考えます。「内」とは、心の中、思い出、記憶の回想描写を指します。これは辛い記憶、楽しい記憶を問いません。どちらもあります。「外」とは、実際の物語世界にまで侵入している描写を指します。ピアノを弾こうとすると側に母親の虚像がつきまとう。いないはずの母親が特等席で鑑賞している。こういった演出は、特に04話、09話で顕著でした。

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(04話より)

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(09話より)

このように映像では、虚像は徹底的に「外」の存在として描かれ、真の姿である実像は(ストイックな部分も含め)「内」の存在として描かれました。これは非常にこだわりを持って演出していた印象です。「有馬の作り物である」ということを強調するために、虚像が有馬の周辺に描写されるのに対し、実像は必ず回想を通して示されました。


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(07話、13話より)

映像では、このように悲しい思い出も、楽しかった思い出もどちらも回想を通して描写されました。また、13話における有馬の「母さんは、いつも近くにいました」というセリフは、内在する母親の真の姿の存在をとてもよく表しています。自分を守るために作った虚像に惑わされ、母親の真の姿は灯台下暗しであったのです。これは、有馬自身がピアノを弾かない言い訳のために、心の中で楽しい思い出を押しつぶし、辛い思い出のみだったと自分自身に言い聞かせたためです。



<2、有馬早希の残したものと、「鬼の通る道」>

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(13話より)

有馬早希は、他界する前に「(息子に)何も残してやれない、ひどい母親」と自責しています。しかし実際には、有馬がそれは違うことを証明している。「出会えた感動がある。出会えた人たちがいる。出会えた想いがある。これは全部、ピアノを教えてくれた母さんが残してくれた思い出(13話)」。再び舞台に立ち、音楽で幸せになった人々による喝采に対する感動、昔のライバルたちとの新たな出会い、宮園を大切にしたいという感情、これら全て「音楽があったから」こそ出来たことであると、有馬は語っています。つまり、有馬早希は息子に「音楽」やピアノの技術以外、何も残してやれなかったと無念さを感じていたけれど、実際には「音楽」という周囲との共通項を持てたことで、有馬は今幸せを感じることができているのです。


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(13話より)

そして、三池くんの存在を考えてみたいと思います。三池くんは藤和音楽コンクールの優勝者であり、このガラ・コンサートのトリでもあります。物語の展開上、示す必要もないキャラクターかもしれない人物を何故トリに配置したのか。前話でもあったように、三池くんは自分のピアノに対し相当のプライドを持っています。そんな三池くんですら、有馬のピアノを聞いて、音が変わってしまう。三池くんもそうですが、井川は相座や多くの人間が、有馬のピアノから多大に影響を受けています。これは、今度は「有馬」自身が周囲の共通項になったということです。有馬という人物のピアノに魅了され、ピアノを始めたり、彼を憧れの存在とみなしたりされているのは今までの話数で示されています。三池くんの登場と彼の変化は、有馬が「音楽」という共通項によって幸せになれたように、今度は「有馬」が共通の存在となって、幸福な影響を与えていることの描写と感じます。


02]04]
(13話より)

13話ラストでは、瀬戸さんと落合先生(井川の師) が会話を交わします。そこで、瀬戸さんは表現者の道を歩み出すためには、有馬公正にとって、母親を失うことが必要だったのかもしれないということを推測として提起します。それに対し、落合先生は有馬のピアノに悲しさがつきまとうことから、母親の死が何か彼にもたらしたという可能性があると答えます。そうして、それは「鬼の通る道」と悲しげにつぶやく。


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(13話より)

瀬戸さんと落合先生の会話セリフは終わりの方になると、OFF(画面に発言しているキャラがいない状態)セリフになって、このシーンに繋がるんですが、これ残酷すぎる。この13話の〆方はタイミングが見事すぎて、本当に切ない。有馬公正という1人の演奏家が成長していくためには、彼にとって最大級の悲しみが必要という残酷性があります。この時点で物語の展開として、「宮園かをりの死」というのは避けられないわけです。回避してしまえば、有馬はピアニストとして成長ができない。成長を選ばないことは、母親を失って得たものが無駄になることを意味する。ああ、「宮園の病気の今後」についてはこれまではっきりしていなかったけど、13話を見た今はもはや不可避であるとしか思えない。矛盾しているようで、実は真理である。なんという逆説的な残酷さだろうか。これは有馬がというよりは、状況的に避けることができない上、それによって演奏家としての水準を上げるのだから、なおさら残酷という他ない。


<参考文献> 
・『四月は君の嘘』5話の演出を語る - OTACRITIC  
小倉陳利さんの演出について - highland's diary