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22話「春風」
絵コンテ:イシグロキョウヘイ 演出:イシグロキョウヘイ、黒木美幸

さて、昨年10月から見てきた、「四月は君の嘘」も最終話を迎えた。最終話と冠しているが、実質的には20話から21話も含んだ感想と思ってもらえればいい。この3話はとても連結していて、切り離すのも難しい。感動を言葉で分析するのは、やや無粋な気もするが、やはり感想は残しておきたい。



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集中治療室に宮園が運び込まれるのを見てから、有馬は練習を中断する。中断せざるをえない精神状態になり、ついには何もしなくなる。この構図は、小学生時代の有馬親子と重なる。ピアノを弾かなくなった根本は自分がピアノを弾けば弾くほど、母親の病態は悪くなり、結果死に至ってしまったからだ。ここに因果関係など当然ないが、この記憶から有馬の思考は、「自分がピアノを弾くと不幸を招いてしまう」という風に発展してしまう。これを1話から黒猫というモチーフを使い表している。


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黒猫は不幸の象徴であるが、迷信にしかすぎない。合理的な根拠などなく、人々が様々な厄災を押し付けるために意味づけられているだけである。黒猫は有馬の分身であり、彼の考えを鏡のように映し込む。例えば、宮園と話していて楽しい時は、黒猫が懐いてくる。宮園が死ぬかもしれないという疑心は、車に轢かれる黒猫という描写で具体化される。そうして、血で汚れた手は、自分が音楽をしたことによって、宮園を死に追いやってしまったのではないかと思う有馬の心情表現であると感じた。


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宮園との永遠の別れという危惧も、この手紙によって何とか回避され、有馬は病院へと向かう。ここでは綺麗なマッチカットでシーンが繋がれているのもまた見所であった。


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当然はあるが、一枚目のハトと、二枚目のハトは違う群れである。時間という大きな壁を乗り越え、同じような物体で画面をつなぐ。彼らには、病院に向かう時間すら惜しいのだ。そんな時間すらもったいないと思うからこそ、学校から病室への直接的なマッチカットになる。


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屋上での宮園との最後の会話。とても不安定で、くじけそうになり、「1人にしないで」とすがる宮園かをりこそが、本当の宮園かをりである。普段は、それに抗い破天荒さを演じる。憧れである有馬公正の前で素でいられたのは、おそらく藤和音楽コンクールへの出場を願った、02話とこのシーンだけであり、これまた屋上でのシーンであることは印象深い。天国に近くなると、死というものを思い出さずにはいられないのだろうか。そうして東日本ピアノコンクールが開始する。


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「弾かなきゃ」と何度も暗示し、最後には表現者なのだからと自分を説得する。そうして映される刺々しい血まみれの手。表現者たりうる自分のピアノは、それに出会った人を結果的に不幸にしてしまう。人々に影響を与える素晴らしい表現者であることによって、皮肉ながらも大切な人を殺してしまうという残酷な性質をここで描写していると感じられる。有馬は、ここでもまだ怖がっている。ピアノを弾けば、宮園は死んでしまうのでないのかと。自分が弾かなければ、助かるのではないのかと、そういう風に思っている。


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しかし、その迷いを断ち切る。それは、宮園以外にも自分を支えてくれている人の存在を思い出したから。渡も椿も、瀬戸さんも、井川も相座兄妹も、有馬を豊かにし音をくれたのだ。そうであるならば、演奏によって彼らに答えなければならない。それが演奏家の宿命であり、人生である。演奏家としてピアニストとして生きていくためには、仮にこれで宮園が死を迎えたとしても、決して厭わない。つまり、「ピアニスト有馬公正」とは血にまみれた鬼の道を通らねばならないのだ。ピアノを弾くことで、果ては自らが不幸になったとしても、ピアノによって自分を表現し続けるほかないのだ。有馬が自分のことを「口下手」と語るように、井川が「言いたいことは演奏に全て込めた」と独白したように、彼らには自分の気持ちを伝える手段が、言葉ではなくピアノにあるのだ。


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さんさんと輝く、舞台の上。撮影でキラキラにさせている。このように華やかな舞台に立てる、演奏家という人種の裏には、さきほど見た残酷性があり、それを浮き彫りにするかのようにとてもきらびやかな舞台を強調している。


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「届け…届け…」と宮園への想いとピアノへの没入が高まっていき、鏡面が美しい自分だけの世界へと沈み込んでいく。ここは有馬の心情風景。有馬の思いの場所。美しいドレスをまとった宮園がそこには存在して、協奏する。ここで宮園が登場するまでも、またマッチカットで繋がれている。


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屋上での最後の会話の後、階段を降りて「ありがとう」と宮園がつぶやくシーンから一転、耳を媒介として有馬の心情風景へとつなぐ。晴れているのに、雪がしんしんと降り注いでいる。これは「風花」という現象であり、これが終わりに宮園のイメージが崩壊していく描写の下地となっているかもしれない。


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協奏シーンでは、宮園のヴァイオリンの弦に対して入る透過光が画面にアクセントを加えている。きらびやかな宮園のイメージを象徴するかのように、踊る弦にきらきらが入る。80年代ではよく、「涙」の描写に透過光が多く使われた。そういった点では、有馬の心情を代弁しているかのようにも感じられる。


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音楽の高まりに合わせ、前期OPバンクが使われる。これは、良かった。そして、宮園の死を示唆するように、イメージは桜の花びらとなって散っていく。「四月は君の嘘」とは、とてもいいタイトルだ。そうして演奏は終焉。「宮園の死」や、「コンクールの結果」など分かりきったものはどうでもいい。結果ではなく、そこに至るまでの過程が重要であり、映すべきシーンなのだ。そんな結果は、『タッチ』で甲子園優勝するかどうかぐらいどうでもいい。



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Bパートではお墓参りから始まる。そうして、ここからが特に素晴らしかった。有馬は手紙を受け取り、まるで宮園の軌跡を辿るかのように、マッチカットやバンクでシーンを紡いでいく。


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同レイアウトによる演出。全く同じレイアウトでも、そこを過ごした人、過ごした時期によって全く異なる意味を持つ。季節は縦横無尽に移動し、時間も現在と宮園の過去を往復する。この「同じ事柄(風景、演奏、人間)から、違った解釈や想いを生む」ことこそが、「四月は君の嘘」という物語の本質であるように思う。有馬のピアノにしても同じピアニスト同士で感じ方や憧れとなる部分は違うし、椿という1人の人間に対する思いも、有馬と宮園の間では大きな差がある。


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同様の演出。上は、01話の宮園と同じ道を通っているのを映し、下では幼少期の頃の宮園との対比となっている。


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これも01話の宮園と同じ道を辿っている描写。ここでは、マッチカットでカットをつないでいるんだけど、これが素晴らしく滑らかで美しかった。


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同レイアウトによる演出。手紙における、宮園との対話。宮園は亡くなってしまったが、有馬の心の中にはずっと住んでいる。「君の中にいる」という、有馬と宮園が望んだものが最後に果たされている。人の心の中に、イメージとして残っているのだ。一番大切と思っていた、有馬の中に生きている。


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あともう一つ。以前、「宮園かをりの死」とは物語として決定されていると言ったが、これはナギに言わせれば陳腐だろう。物語の本質は、死という結果そのものではなく、そこに至る過程に存在している。つまり、彼女が「死ぬこと」ではなく、彼女が「どう生き、最期を迎えるか」が大事なのだ。「みっともなくあがく」という主旨の言葉を、作品序盤から宮園はよく使った。これは彼女を表す象徴的な言葉でもあり、抗いこそが彼女の全てであったと言っても過言ではない。抗うがために、つきまとう病気や死の不安はそのままに、怖かったコンタクトレンズを使い、ホールケーキを食べ、譜面に逆らう。おとなしい性格を隠し、嘘の恋人を作り、勝手気ままな女の子を演じる。「真摯に生きる」ということは、『風立ちぬ(劇場/2013)』でもあったように、何かしらに抵抗するということなのだ。 

「四月は君の嘘」というタイトルは色々な取り方がある。例えば、有馬が終盤まで引きずっていた「宮園は渡のことが好き」という嘘であるという見方。嘘をきっかけに、宮園が人生の最後を謳歌し、有馬はそれに呼応する形で人生を歩みだした、という解釈。個人的には、違った解釈を次に述べたい。宮園が四月に現れ、そうしてスッと消えていった、幻や夢のようだという解釈である。宮園と出会い、そうして別れていった記憶の全てこそが、宮園が見せた「嘘」であり、有馬にとってはかけがえのないものとなった。春がくるたびに、思い出がまるで幻に感じられるくらい、刹那的な出会いと別れであった、つまり「嘘」である、という事だ。「君と過ごした時間」という事実は確固としてあるのに、なぜか輪郭がぼやけていて、曖昧な感じがする、そんな印象を「四月は君の嘘」というタイトルに反映させているように思えた。


さて、これにて四月は君の嘘22話の感想をおしまいにしたいと思う。お疲れさまでした。全話を通して作画、撮影のクオリティは高過ぎるほどに高く、そして演出もビシッと決まっている回が多かった。特に04、09、13、17、18、20~22話は積極的な演出が数多く見られ、個人的にはとても満足だった。

強いて良くなかった点を挙げるとするならば、柏木さんがブスでなく、死んだ目をしていなかったことぐらいだ。