「ドラえもん のび太のスペースヒーローズ(宇宙英雄記)」
http://doraeiga.com/2015/
まあ、僕はそこそこなドラえもんファンなわけです。劇場長編は全部何回も見てるし(そのくせ細かいとこは忘れてる)、同時上映もそこそこ見てる。まあ全部VHSとDVDなんですけど。そんでもって、今の新ドラっていうのはオリジナルとリメイクを毎年交代交代にやるんですね。以前の日本GPの鈴鹿サーキットと富士スピードウェイみたいな関係で、まあ今回はオリジナルなわけです。35周年作品だし、ものっそい楽しみにしてた。本当に。爆発見直す為に3回見ようかなあウフフとかニヤニヤ考えながら、パンフ買ってたんですよ。映画が終わって劇場から出てきたら、それどころじゃないから困りましたよね、本当に。泣きそう。
(注:以下ネタバレを含みます。)
<あらすじ>
流行りのアニメに影響され、のび太たちはヒーロー映画の撮影を熱望する。そこでドラえもんは、「バーガー監督」という映画撮影道具を出し、バーチャル映像の中で映画を撮影する。そこに、偶然地球に不時着した「アロン」というポックル星からの住人が来るのだが、のび太たちはバーガー監督の演出と勘違いする。アロンはポックル星の危機を知らせ助けを求め、のび太たちはそれに演出だと思い応じる。そこから、のび太たちはポックル星に向かうのだが…
<寸評>
映像面はとても良かった。ところどころ、何でここでこのアングルなのだというのはあったけども、ほとんど違和感なくキレイな映像だった。作画に関しても、思い出せる限りでは、アクションシーンも芝居も高水準であったように思う。新ドラになってからは素晴らしいものが続くエフェクト作画も、爆発等は少なかったが良いものが多かった。それだけに、ストーリーの支離滅裂さ、ラストの解決方法が余計に悪く映る。「ひみつ道具ミュージアム」は、新ドラになってから最も良く楽しめる部分も多かっただけに、残念としか言いようがない。
<批評 - ストーリー>
前述した通り、今作の「スペースヒーローズ」はストーリーが良くない。アロンが不時着し出会う、そこまではすごく良かったのだけど、そこからは安易なギャグに走ってしまい、ドラえもん映画の持つ「子供映画の中のリアルな怖さ」を上手く出せていなかったように思う。
はっきりと言ってしまえば、『のび太の宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)』と『のび太の夢幻三剣士』、原作コミック第21巻収録の「行け、ノビタマン!」のストーリーを土台に据えたストーリーであり、目新しさはない。しかし、問題点はおそらくそこにはないだろう。 一番の問題点は、四次元ポケットの使用にある。
ドラえもん長編は、のび太たちがどう力をあわせるか、異世界人とどう交流するかに重点を置いていたため、ポケットや道具は序盤でなくなる、もしくは大事な曲面ではまともに使えないことが多い。そうして、普段使っている道具のありがたみを後半で感じつつも、それよりも大切な友情や勇気をのび太たちは感じる。わかりやすいのは、『のび太の魔界大冒険』における、「もしもボックス」の扱いだろう。世界を元に戻そうとするときに、ママがゴミ捨て場に捨ててしまった、そうして拾いに行くと、めちゃくちゃに壊されている。同様の展開は、『のび太と竜の騎士』における「どこでもホール」でも行われている。
さて、今回の作品において、その四次元ポケットと道具の使用がどうであったかというと、まずポケットはなくならない。そうして、道具であるバーガー監督は出ずっぱりで、ドラえもんがポケットにしまうことは一切なく、準主役のような格好で話は展開される。前述した通り、道具が制限されることにより危機感が生まれ、勇気や友情は発揮される。そうであるならば、道具を常に使えるようにしておくのは、危機感の意図的な欠如であり、結果的に友情や勇気に説得力は生まれない。アロンとのび太が友好を深めようとする描写は、いくつも見られるが、これが『宇宙開拓史』のロップルとの友情ほど力強くリアルに感じないのは、そこに起因する。
最初に宇宙海賊と戦闘した後、「のび太たちが本当のヒーローではない」ということがアロンに判明するシーンも同じである。アロンは、ここで「皆さんは僕にとってヒーローです」と語るが、その言葉には説得力がない。のび太たちは道具に頼りっぱなしで相手を倒すだけであり、道具に依らない彼らの魅力がそれまでに提示されていないからだ。画に暴力性はないが、この展開はすさまじく暴力的である。宇宙海賊との戦闘もどこか舞台やお芝居のように感じ、迫力にかける。
宇宙海賊の狙いは、ポックル星のエネルギーを使い、ポックル星にとっての太陽である惑星を壊し、その中にあるダイヤモンドとグラファイトの収集である。宇宙海賊の首領イカーロスは、その肉体の再生のためにグラファイトを求め、部下たちはダイヤモンドを求める。グラファイトに関しては、細かいことなので突っ込まないことにする。とにもかくにも、宇宙海賊がやり手の詐欺師であり、星をひとつ潰そうとしているのであるから、宇宙海賊の必死さや非道さをもう少し深刻に描かなければならない。
こんな宇宙海賊やグラファイトのことなど吹っ飛んでしまうのが、ラストの解決方法だ。終盤、宇宙海賊の目論見通りビームは発射され、太陽も破壊されてしまう。そこをドラえもんは、一旦カチンコチンライトで止める。百歩譲って、ここまではいい。ここからが問題。バーガー監督の巻き戻し機能によって、「発射されるビームと、破壊された太陽だけの時間を巻き戻す」というご都合主義的な解決方法なのだ。タイムパトロールさん、こっちですよ早く来いよ。過去を変えるっていうレベルじゃねえぞおい。自分たちの身を削らず、外から「間に合わない」と眺めるだけで、最後は道具の素晴らしい機能によって解決をする。地球上の誰がいったい、のび太たちに感情移入できるというのだろうか。約束された勝利の剣なんて、見ててもつまらんでしょ。
「魔界大冒険」では、ドラミちゃんが持ってきたもしもボックスによって一時解決したかのように思われるが、事態は平行世界(パラレルワールド)にまで発展しており、根本的な解決は親玉を倒すことしかないことが判明する。ここに、世界を作ったことに対する彼らの責任を感じることができ、自然と感情移入ができる。つまり、観客も一緒になって戦うわけだ。このおかげで、美夜子との別れも切ないものになっている。感情移入は、このように彼らが努力をする、身を削って戦う、嫌な事態から逃げないなどの、説得力ある描写がないと非常に難しい。努力の描写もなく何かすごい事ができるキャラクターに、僕らは感情を移入することは中々できない。彼には、そうなるだけの説得力がないのだ。
<批評 - のび太>
ドラ映画において言わずもがな大事なのは、のび太の存在である。「のび太と銀河超特急」においては、西部の星からその射撃の腕が描写され、最終局面でも活躍をみせる。このとき彼に与えられた武器は、ただの石鹸が出るだけのピストルであり、ここでも勇気が重視されている。
今回ののび太は、ただあやとりをしているだけに終わった。ラスト、イカーロスとの戦闘において彼がやったことは、あやとりで必死にもがくだけであり、そこから適当にビームを撃って終わりである。言葉にできない。あやとりというのは、のび太のもう一つの特技である。そこを取り上げたのはとてもいい。問題は、どうやってあやとりでポックル星を守るか、なのだ。その解決が「イカーロスに気分悪いこと言われたんで、ビーム出ました」なんてことであったら、納得などはできもしない。あやとりによって相手をがんじ絡めにしてもいいし、とにかくのび太が考える工夫を見せて欲しかった。何も分からないけども、紐を錬成できるのであるから、面白い工夫を描写するべきである。ここにも考えが見られない。 のび太がもう1つの特技である、射撃を思い出し、銃をあやとりで作るぐらいのひらめきはだれでも思いつくだろう。
あやとりは、アロンとの友好や友情においてその役割を果たしている。何万光年も離れた惑星同士で、あやとりを子供に教え平和に暮らしている。この点で、アロンとの繋がりが見える。しかし、これは今までの長編ドラとは似つかわしくない。映画序盤から中盤にかけては、なるたけドラえもんたちが戦闘を避けるのに対し、終盤においては身を削りながら戦闘によることが多い。「夢幻三剣士」において、一度死んでしまった後のボスとの戦い。「宇宙開拓史」における、一対一の撃ち合い。「海底鬼岩城」における、バギーの捨て身の特攻。これは、冒険活劇的な側面が大きいだろう。起因するところは何にせよ、とにかく身を削って戦うことが多い。
今回はのび太もボスも合理的でなく、戦闘は生ぬるい。ごっこ遊びのようだ。そこに従来の長編にあった真剣さはなく、生と死に直面しても目を背けない強さなど全くない。ただ、あやとりをしていたら、世界は平和になれる。という主題が僕にはうそ臭く感じて仕方ない。誰だって戦争は嫌だけれど、何かを救おうと思ったら死に直面しない平和などありえないと思う。
<批評 - キャラの特技>
さて、スペースヒーローズではグレードアップライトと呼ばれるひみつ道具によって、それぞれの得意分野が強くなる設定があり、のび太は前述のとおり「あやとり」が強化されている。 他のキャラというと、これまた納得いかない部分が多い。しずかちゃんと言えば、彼女が得意、好きであるのは「バイオリン」である。この演奏の下手くそさは、原作コミックでも幾度と無く描写されてきた。ジャイアンといえば、ホゲーに代表される、あの音痴な歌である。しかし実際には、しずかちゃんはお風呂好きということで、水を自由自在に使えるようになり、ジャイアンに至ってはただの暴力である。ドラえもん、スネ夫の特技が、それぞれ石頭と機械いじりというのを考えると、しずかちゃんとジャイアンについてはもったいない。
話を広げやすいように作った、という印象を受ける。バイオリンや音痴では汎用性がなく、物語において活用しにくい面は当然ながらあるが、そこに工夫を投じることこそがドラ映画における1つの魅力ではないだろうか。「魔界大冒険」では、人魚の歌声によって洗脳されそうになるも、ジャイアンの歌によって皆の目が覚める。普段は使えないガラクタのようなものも、使い方によっては危機を救う。これは、ドラえもん映画の根幹でもある。 普段はグズでのろまなのび太が、ありったけの知恵と勇気で冒険にみんなと挑むところに魅力を感じる。つまり、バイオリンや音痴といった要素を扱いにくいものとし否定することは、のび太という主人公を否定していることとほぼ同義であるのだ。せめてどちらかは使うべきである。エンドクレジットで流れた、子どもたちの絵の方がよっぽどドラえもん映画をわかっている。
<批評 - ドラえもん>
さて、最後にドラえもんについて。これはこの映画だけの話ではないかもしれないけども。新ドラになってから重視されていると感じる点は、ドラえもんとのび太の精神年齢が同じということである。確かに設定的には、ドラえもんの伸長は小学5年生の男の子の平均身長である。そういった点から、のび太と同じように遊び、同じようにアニメを楽しむなど、幼稚な面をやけに描写する。しかし、これはドラえもんの当初の目的を無視している。
ドラえもんは教育係として、未来から送られてきたロボットである。それゆえ旧ドラにおける、ドラえもんは保護者の感覚が強い。保護者たりうるように、精一杯自分の中で考え、教育しようとする。いわば、少し背伸びをしているのだ。その中にときおり垣間見える、童心がドラえもんというロボットに魅力を与え、人間さを生み出している。ただ、アホみたいにはしゃぐだけでドラえもんは形作られているわけではない。時に自分のことは棚に上げ、叱り、勉強をさせ、勉強できるように時間の流れをゆったりとする道具を出したりして支える。その上で、悪ふざけをのび太を一緒にするからこそ、ドラえもんらしさは作られるわけだ。今ある、ただ幼稚なことをするだけのロボットは、「藤子が描こうとしたドラえもん」ではないと強く言える。
余談ではあるが、予告の出来はこの上なくいい。本編を見た上でも、まだ面白そうに感じるのだから、予告は本当に上手すぎる。絵や動きは素晴らしいだけに、全くもってもったいない作品であった。
http://doraeiga.com/2015/
まあ、僕はそこそこなドラえもんファンなわけです。劇場長編は全部何回も見てるし(そのくせ細かいとこは忘れてる)、同時上映もそこそこ見てる。まあ全部VHSとDVDなんですけど。そんでもって、今の新ドラっていうのはオリジナルとリメイクを毎年交代交代にやるんですね。以前の日本GPの鈴鹿サーキットと富士スピードウェイみたいな関係で、まあ今回はオリジナルなわけです。35周年作品だし、ものっそい楽しみにしてた。本当に。爆発見直す為に3回見ようかなあウフフとかニヤニヤ考えながら、パンフ買ってたんですよ。映画が終わって劇場から出てきたら、それどころじゃないから困りましたよね、本当に。泣きそう。
(注:以下ネタバレを含みます。)
<あらすじ>
流行りのアニメに影響され、のび太たちはヒーロー映画の撮影を熱望する。そこでドラえもんは、「バーガー監督」という映画撮影道具を出し、バーチャル映像の中で映画を撮影する。そこに、偶然地球に不時着した「アロン」というポックル星からの住人が来るのだが、のび太たちはバーガー監督の演出と勘違いする。アロンはポックル星の危機を知らせ助けを求め、のび太たちはそれに演出だと思い応じる。そこから、のび太たちはポックル星に向かうのだが…
<寸評>
映像面はとても良かった。ところどころ、何でここでこのアングルなのだというのはあったけども、ほとんど違和感なくキレイな映像だった。作画に関しても、思い出せる限りでは、アクションシーンも芝居も高水準であったように思う。新ドラになってからは素晴らしいものが続くエフェクト作画も、爆発等は少なかったが良いものが多かった。それだけに、ストーリーの支離滅裂さ、ラストの解決方法が余計に悪く映る。「ひみつ道具ミュージアム」は、新ドラになってから最も良く楽しめる部分も多かっただけに、残念としか言いようがない。
<批評 - ストーリー>
前述した通り、今作の「スペースヒーローズ」はストーリーが良くない。アロンが不時着し出会う、そこまではすごく良かったのだけど、そこからは安易なギャグに走ってしまい、ドラえもん映画の持つ「子供映画の中のリアルな怖さ」を上手く出せていなかったように思う。
はっきりと言ってしまえば、『のび太の宇宙小戦争(リトルスターウォーズ)』と『のび太の夢幻三剣士』、原作コミック第21巻収録の「行け、ノビタマン!」のストーリーを土台に据えたストーリーであり、目新しさはない。しかし、問題点はおそらくそこにはないだろう。 一番の問題点は、四次元ポケットの使用にある。
ドラえもん長編は、のび太たちがどう力をあわせるか、異世界人とどう交流するかに重点を置いていたため、ポケットや道具は序盤でなくなる、もしくは大事な曲面ではまともに使えないことが多い。そうして、普段使っている道具のありがたみを後半で感じつつも、それよりも大切な友情や勇気をのび太たちは感じる。わかりやすいのは、『のび太の魔界大冒険』における、「もしもボックス」の扱いだろう。世界を元に戻そうとするときに、ママがゴミ捨て場に捨ててしまった、そうして拾いに行くと、めちゃくちゃに壊されている。同様の展開は、『のび太と竜の騎士』における「どこでもホール」でも行われている。
さて、今回の作品において、その四次元ポケットと道具の使用がどうであったかというと、まずポケットはなくならない。そうして、道具であるバーガー監督は出ずっぱりで、ドラえもんがポケットにしまうことは一切なく、準主役のような格好で話は展開される。前述した通り、道具が制限されることにより危機感が生まれ、勇気や友情は発揮される。そうであるならば、道具を常に使えるようにしておくのは、危機感の意図的な欠如であり、結果的に友情や勇気に説得力は生まれない。アロンとのび太が友好を深めようとする描写は、いくつも見られるが、これが『宇宙開拓史』のロップルとの友情ほど力強くリアルに感じないのは、そこに起因する。
最初に宇宙海賊と戦闘した後、「のび太たちが本当のヒーローではない」ということがアロンに判明するシーンも同じである。アロンは、ここで「皆さんは僕にとってヒーローです」と語るが、その言葉には説得力がない。のび太たちは道具に頼りっぱなしで相手を倒すだけであり、道具に依らない彼らの魅力がそれまでに提示されていないからだ。画に暴力性はないが、この展開はすさまじく暴力的である。宇宙海賊との戦闘もどこか舞台やお芝居のように感じ、迫力にかける。
宇宙海賊の狙いは、ポックル星のエネルギーを使い、ポックル星にとっての太陽である惑星を壊し、その中にあるダイヤモンドとグラファイトの収集である。宇宙海賊の首領イカーロスは、その肉体の再生のためにグラファイトを求め、部下たちはダイヤモンドを求める。グラファイトに関しては、細かいことなので突っ込まないことにする。とにもかくにも、宇宙海賊がやり手の詐欺師であり、星をひとつ潰そうとしているのであるから、宇宙海賊の必死さや非道さをもう少し深刻に描かなければならない。
こんな宇宙海賊やグラファイトのことなど吹っ飛んでしまうのが、ラストの解決方法だ。終盤、宇宙海賊の目論見通りビームは発射され、太陽も破壊されてしまう。そこをドラえもんは、一旦カチンコチンライトで止める。百歩譲って、ここまではいい。ここからが問題。バーガー監督の巻き戻し機能によって、「発射されるビームと、破壊された太陽だけの時間を巻き戻す」というご都合主義的な解決方法なのだ。タイムパトロールさん、こっちですよ早く来いよ。過去を変えるっていうレベルじゃねえぞおい。自分たちの身を削らず、外から「間に合わない」と眺めるだけで、最後は道具の素晴らしい機能によって解決をする。地球上の誰がいったい、のび太たちに感情移入できるというのだろうか。約束された勝利の剣なんて、見ててもつまらんでしょ。
「魔界大冒険」では、ドラミちゃんが持ってきたもしもボックスによって一時解決したかのように思われるが、事態は平行世界(パラレルワールド)にまで発展しており、根本的な解決は親玉を倒すことしかないことが判明する。ここに、世界を作ったことに対する彼らの責任を感じることができ、自然と感情移入ができる。つまり、観客も一緒になって戦うわけだ。このおかげで、美夜子との別れも切ないものになっている。感情移入は、このように彼らが努力をする、身を削って戦う、嫌な事態から逃げないなどの、説得力ある描写がないと非常に難しい。努力の描写もなく何かすごい事ができるキャラクターに、僕らは感情を移入することは中々できない。彼には、そうなるだけの説得力がないのだ。
<批評 - のび太>
ドラ映画において言わずもがな大事なのは、のび太の存在である。「のび太と銀河超特急」においては、西部の星からその射撃の腕が描写され、最終局面でも活躍をみせる。このとき彼に与えられた武器は、ただの石鹸が出るだけのピストルであり、ここでも勇気が重視されている。
今回ののび太は、ただあやとりをしているだけに終わった。ラスト、イカーロスとの戦闘において彼がやったことは、あやとりで必死にもがくだけであり、そこから適当にビームを撃って終わりである。言葉にできない。あやとりというのは、のび太のもう一つの特技である。そこを取り上げたのはとてもいい。問題は、どうやってあやとりでポックル星を守るか、なのだ。その解決が「イカーロスに気分悪いこと言われたんで、ビーム出ました」なんてことであったら、納得などはできもしない。あやとりによって相手をがんじ絡めにしてもいいし、とにかくのび太が考える工夫を見せて欲しかった。何も分からないけども、紐を錬成できるのであるから、面白い工夫を描写するべきである。ここにも考えが見られない。 のび太がもう1つの特技である、射撃を思い出し、銃をあやとりで作るぐらいのひらめきはだれでも思いつくだろう。
あやとりは、アロンとの友好や友情においてその役割を果たしている。何万光年も離れた惑星同士で、あやとりを子供に教え平和に暮らしている。この点で、アロンとの繋がりが見える。しかし、これは今までの長編ドラとは似つかわしくない。映画序盤から中盤にかけては、なるたけドラえもんたちが戦闘を避けるのに対し、終盤においては身を削りながら戦闘によることが多い。「夢幻三剣士」において、一度死んでしまった後のボスとの戦い。「宇宙開拓史」における、一対一の撃ち合い。「海底鬼岩城」における、バギーの捨て身の特攻。これは、冒険活劇的な側面が大きいだろう。起因するところは何にせよ、とにかく身を削って戦うことが多い。
今回はのび太もボスも合理的でなく、戦闘は生ぬるい。ごっこ遊びのようだ。そこに従来の長編にあった真剣さはなく、生と死に直面しても目を背けない強さなど全くない。ただ、あやとりをしていたら、世界は平和になれる。という主題が僕にはうそ臭く感じて仕方ない。誰だって戦争は嫌だけれど、何かを救おうと思ったら死に直面しない平和などありえないと思う。
<批評 - キャラの特技>
さて、スペースヒーローズではグレードアップライトと呼ばれるひみつ道具によって、それぞれの得意分野が強くなる設定があり、のび太は前述のとおり「あやとり」が強化されている。 他のキャラというと、これまた納得いかない部分が多い。しずかちゃんと言えば、彼女が得意、好きであるのは「バイオリン」である。この演奏の下手くそさは、原作コミックでも幾度と無く描写されてきた。ジャイアンといえば、ホゲーに代表される、あの音痴な歌である。しかし実際には、しずかちゃんはお風呂好きということで、水を自由自在に使えるようになり、ジャイアンに至ってはただの暴力である。ドラえもん、スネ夫の特技が、それぞれ石頭と機械いじりというのを考えると、しずかちゃんとジャイアンについてはもったいない。
話を広げやすいように作った、という印象を受ける。バイオリンや音痴では汎用性がなく、物語において活用しにくい面は当然ながらあるが、そこに工夫を投じることこそがドラ映画における1つの魅力ではないだろうか。「魔界大冒険」では、人魚の歌声によって洗脳されそうになるも、ジャイアンの歌によって皆の目が覚める。普段は使えないガラクタのようなものも、使い方によっては危機を救う。これは、ドラえもん映画の根幹でもある。 普段はグズでのろまなのび太が、ありったけの知恵と勇気で冒険にみんなと挑むところに魅力を感じる。つまり、バイオリンや音痴といった要素を扱いにくいものとし否定することは、のび太という主人公を否定していることとほぼ同義であるのだ。せめてどちらかは使うべきである。エンドクレジットで流れた、子どもたちの絵の方がよっぽどドラえもん映画をわかっている。
<批評 - ドラえもん>
さて、最後にドラえもんについて。これはこの映画だけの話ではないかもしれないけども。新ドラになってから重視されていると感じる点は、ドラえもんとのび太の精神年齢が同じということである。確かに設定的には、ドラえもんの伸長は小学5年生の男の子の平均身長である。そういった点から、のび太と同じように遊び、同じようにアニメを楽しむなど、幼稚な面をやけに描写する。しかし、これはドラえもんの当初の目的を無視している。
ドラえもんは教育係として、未来から送られてきたロボットである。それゆえ旧ドラにおける、ドラえもんは保護者の感覚が強い。保護者たりうるように、精一杯自分の中で考え、教育しようとする。いわば、少し背伸びをしているのだ。その中にときおり垣間見える、童心がドラえもんというロボットに魅力を与え、人間さを生み出している。ただ、アホみたいにはしゃぐだけでドラえもんは形作られているわけではない。時に自分のことは棚に上げ、叱り、勉強をさせ、勉強できるように時間の流れをゆったりとする道具を出したりして支える。その上で、悪ふざけをのび太を一緒にするからこそ、ドラえもんらしさは作られるわけだ。今ある、ただ幼稚なことをするだけのロボットは、「藤子が描こうとしたドラえもん」ではないと強く言える。
余談ではあるが、予告の出来はこの上なくいい。本編を見た上でも、まだ面白そうに感じるのだから、予告は本当に上手すぎる。絵や動きは素晴らしいだけに、全くもってもったいない作品であった。