もうナンバリング面倒なので、日付にしようかなと思い始めている

■重たい空気
この国のどうしようもない空気、村社会的構造(排他的)を風刺したアニメといえば、やはり真っ先に「東のエデン」が出てくる。「東のエデン」は、TV版ではニート2万人の力によって防衛し、滝沢朗が王子様になって終わる。劇場版では、滝沢朗が最後にみんなに1円ずつ配る。「東のエデン」の答えは、誰か一人が汚名や責任を被るか、みんなで責任を取るかの二択であり、現状は前者になってることの風刺だと俺は解釈してる。劇場版は、TV版へのアンサー(一人を悪者にしない以外の方法)であって、この国のこの雰囲気はみんなが作ったもので、1円ずつ振り込むことで国民全体に責任があるものと意識してもらうこと、と思う。

「ガッチャマンクラウズ インサイト」は、「ゲルサドラは地球に残ってもいいか」という命題を課し考える期間を設けることで、国民全体の意識に原因/責任があるとして終わる。現状への風刺は、劇中内で散々に映像的にも脚本的にも行われており、厳しい捉え方(すなわち、宇宙人でも来て洗脳一歩前までいかなきゃ変わんねえんじゃねえのかこの国民はという呆れ顔)をしている。ニュアンスとしてはエデン劇場版に近い。

エデンはある程度、個人の考え方の変化にかかっているというニュアンスが強かったと記憶しているんだけど、対してインサイトは個人の考え方というよりは、デバイス/SNSへの警鐘が強いように映った。すなわち、クラウズではSNSの可能性を信じ希望があるとしたんだけど、インサイトでは「ネット投票」という利便性と「他者が発信する情報に飲み込まれ(主体性を失う)る」という情報リテラシーの危険性を描いていて、しかも後者の方に重きを置いていた。便利なモン使う前にすることあるんちゃうんの自分ら、ちゃんと考えてから使おうやみたいな。

それで、コストコの話題にも現れている通り、おそらくこの国の雰囲気は外圧でしか変われないんだよね。女性の社会進出/権利/地位もそうだけど、外国から「日本はちょっとおかしい」と言われない(言われても中々難しいけども)と構造が変わっていかない。「他人から変な目で見られたくない」という意識が強すぎるがゆえに、主体性が弱く他者の評価軸で行動する。これが日本の今の雰囲気の原因であって、なおかつ(皮肉にも)外国や外部からの圧力によって変化が期待できる要因でもある。

そう考えていくと、この国の雰囲気に触れた/先を予見したアニメというのは「新世紀エヴァンゲリオン」ではないかと思っちゃう。ミサトが「他人のことなんてどうでもいいでしょ!」とシンジを叱責したのは象徴的である。シンジは他人の評価なしには存在意義を証明できず、その上主体性を発揮すれば(「逃げちゃだめだ」で軍令に背きイカ使徒を倒す、3号機は使徒だ倒せ→「アスカが乗ってるから倒さない」、「世界を救え」→「どうでもええわ、綾波を救う」)、出る杭は叩かれる(「はい、ダミーシステム」&追放、「あなたはもう何もしないで」)といった様相は素晴らしく村社会的である。

それでもQのシンジは最後まで自分のやりたいように積極的に行動したんだから、映像的にはああいう傷つきながらも生きていくのが、庵野監督の(社会や業界の閉塞感に対する)答えなのかもしれない。パヤオの「庵野は傷つきながら生きている現代では数少ない人間の一人(風立ちぬインタビュー内の言及)」という言葉の意図がよくわからなかったんだけど、それは正直に生きて他人から色々非難/中傷されながらも、自分の主体性を貫き通している(精神を病んでも変えない)という部分にあるのかもしれない。