なんかね、いろいろなことに疲れたねえ。疲れる世の中になった。

「モノは溢れ物質的には満ち満ちているけれど、精神は貧しい」と庵野が述べていたことを改めて痛感する。合理的な社会が素晴らしいかといえば、そんなわけもないのは、十全も承知のはずです。インプレッシブを優先する態度が社会的に求められ評価される。それはSNSだろうと、現実世界だろうと変わらんわけです。

それは分かるけれど、インプレッシブを優先する態度によって、なにも発言しない・触れない態度の評価が上がってしまう。つまり、タブーな事柄、民族だのレイシズムだの政治的な事柄については触れない方が評価されてしまう。おかしな話だ。


短期的な観点で見れば、これは戦略としては優れています。いつの時代も沈黙は金、人の噂も七十五日。ただ、10年20年という長期的には、大したプラスにはならないと僕は考えます。その人その人のオピニオンがこれから重要になっていく社会で、なぜか主張をずっとしない人がいる。「人狼」というゲームだと、ずっと黙っている村人がいるようなことで、その人の信頼や信用って相対的に薄れていってしまうんですよね。つまり、「なにも言わないとなにを考えているのかわからない」ので、怪しく見えてしまう。今は優秀な戦略ですが、高潔さの欠片もない。ノンポリならば、ノンポリのそれを述べて欲しいのですが、それを今はやってしまうと評価されないのです。前述の通り。だから、黙っているのが最善というおかしな構図になってしまった。

その延長線上にあるのが、「いいね」などのソーシャルアクションです。自分は主張しないけれど、この発言には賛成だということを示唆することができる。これ上手いことやってて、なおかつ制度的に良くない。なぜかというと、あくまで「示唆」の段階で止めることができるんです。自分の意見と似たものであるかどうか、それらをなにも言わないで、醸し出すように主張できるわけです。

で、こういったことが増えていくと、空中戦にならざるを得ず、意見や議論をダイレクトに交わすことはなくなります。議論を交わさないと、意見・主張の昇華はありません。意見の昇華、つまり、改善された意見や主張が存在しないことは、「だれかの発言」の代理戦争のオンパレードで、話す場所も成熟せず、人々はストレスフルになるのです。その結果、争いを好まない人々は争いが起きた段階ではまったく議論もできず、まあクソの役にも立たない。そういったことが積み重なっていくと、議論や論壇といったところからは遠いところになっていくのは目に見えますよね。だから、長期的に見て、大したプラスにはならないのです。