GOMISTATION

足が絡まっても、踊り続けて

カテゴリ: 感想・評・レビュー等


最近のアニメ映画を見て、瀬戸内海を、特に本州から見た風景を描く作品が多いように思う。

例えば、沖浦監督の「ももへの手紙(2014)」は広島県の大崎下島をモデルに小さな港町を描いている(ひろしま観光ナビ-映画のロケ地巡り)。大崎下島は、芸予諸島と呼ばれる諸島の一つである。地図で見ると、大体この辺。


495px-大崎下島位置図
(Wikipediaより引用)


沖浦監督の生まれは大阪だが、ルーツは広島県福山市の鞆の浦(とものうら)にあるらしい。
沖浦という苗字は瀬戸内の地名でもあって、うちの家系はもともと福山市(広島県)の鞆の浦の出身なんです。ひいおじいちゃんの代に大阪に出てきたので、僕自身は大阪出身なんですけどね。あと、学者のおじが以前自分のルーツである瀬戸内の調査を本にしていたこともあって、前作の『人狼 JIN-ROH』の制作が終わった後に瀬戸内に行ってみたんです。そのときは自分にゆかりのある場所を巡ってみようという理由だったんですが、今回の『ももへの手紙』を作り始めたとき、(自然と)舞台を瀬戸内にしたいと思ったんですよね。

引用元:ももへの手紙-沖浦監督インタビュー
まずは、家系にルーツがあったと。いざ瀬戸内へ赴いてみたのは、創作の目的ではなく、ただゆかりのある場所巡り。実際に描くとなった次第に、瀬戸内にしたいという風に至った。その芸予諸島の中でも、大崎下島を選んだのはどうしてなのか。

──瀬戸内海に数ある島の中、大崎下島を選んだ理由は?

沖浦:うちの叔父が学者なのですが、瀬戸内海に関する本も書いているんです。その叔父にも相談したところ「大崎下島が良いのではないか」という話を受け、自分の中でも大崎下島の印象がなんとなく良いなと思っていたこともあって大崎下島を選びました。また、島の大きさはそこそこあるんだけれどもこじんまりとまとまっていて、島の中で町が分かれているんです。その中で豊町という地域には主な産業がみかん農家で、生活感を表現するのにみかん農家だけに絞れるのが非常に魅力的でもありました。漁師の人を描いたり農家の人を描いたりと、様々な仕事をしている人を描いていると時間の割き方が難しくなるので……。後は景観というところでも、展望台から見た景色など良い場所がたくさんありまして、瀬戸内海を表現する上で色々な条件が整っていました。

引用元:Production I.Gがこの春送るアニメーション映画『ももへの手紙』の沖浦監督へインタビュー!
生活感の表現としては、主要産業が絞れてる方がいいと。なるほど。島がこじんまりとまとまっているのに加えて、いい景観・場所が揃っていた。瀬戸内海を表現するのに、適した条件が多くあったから選んだという感じですね。



神山監督の最新作「ひるね姫 〜知らないワタシの物語〜(2017年予定)」でも、瀬戸内海に面した岡山県児島市が舞台に選ばれている。

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(上記公式サイトより図版引用)

描かれているのは、児島の住宅密集地と、瀬戸大橋だ。瀬戸大橋は、本州と四国を結ぶ本州四国連絡橋の一つで、児島-坂出ルートとも呼ばれている。1988年に完成した(※ちなみに、「ももへの手紙」の舞台は、尾道-今治ルート線上にある)。電車も走っており、この背景図だと、道路の真下を走行している。当然、電車の下には瀬戸内海が広がっており、きれいな内海が堪能できる。率直に言うと、高所恐怖症にとっては足元がおぼつかないために、めっちゃ怖い。タマヒュン。

児島市のすぐ西には、水島コンビナートが広がっており、煙を上げている。さきの三菱自動車燃費不正問題で煽りを食らった工場もあったりする。岡山県の工業高校生はたいてい水島コンビナートの工場に就職するイメージ。


ひるね姫にかんしての神山監督のコメントを見てみよう。

重苦しい現実と対峙していかなければならない時代に、アニメーション映画がやるべきことは何か?自問自答していたある日、『自分の娘に観せたい映画を作ったらどうだ』と言われ、ふっと天真爛漫な女の子とお父さんの物語が浮かんできました。でもこれがなかなか一筋縄ではいかずどうしたら娘に観てもらえるかを考えながら奮闘する毎日でした。この物語は、あるミニマムな個人の想いに寄りそった『父と娘の物語』です。
ミニアムな想いを表現するならば、児島市の中でも離島を扱うのかもしれない。瀬戸大橋の同一線上に存在する離島は2、3島ある。まあフィクションなのだから、あくまで参考程度だと思うが。

また、児島の近くには鷲羽山という山があり、鷲羽山ハイランドという遊園地もある。岡山県民にとっては、チボリ公園と並んで有名な遊園地だ。その鷲羽山から四国側を眺めた画像がこちら(GoogleMapより)。

鷲羽山景色

瀬戸大橋の遠近感がいいですね。


「ひるね姫」で公開された背景にアングルを合わせてみると、次のようになる。

児島市からの景色

大迫力の瀬戸大橋が望める。
というか、こんな近くで橋が見れるとこあったのか。


先ほどから挙げている、本州四国連絡橋は3つあり、尾道-今治(広島-愛媛間)ルート(「ももへの手紙」)と児島-坂出(岡山-香川間)ルート(「ひるね姫」)を紹介した。となると、神戸-鳴門ルート(兵庫-徳島間)を題材としたアニメがあってもいいように感じる。淡路島もあるし。

少し探してみただけども、アニメは無さそうだった。
競女!!!」っていう漫画はありました。よくわかんなかったです。


他に瀬戸内を題材としたアニメといえば、「瀬戸の花嫁」ぐらいしか思いつかんですね。

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この記事において、これだけ四国側が舞台となっています。さぬき弁なのかな、あのしゃべり方は。広島、岡山弁はよく言われる通り任侠のイメージが強い方言で、正直あんまりキレイな言葉ではない。「じゃけん、~じゃ」「でーれー」「なんしょんなら」とか平気でみんな使ってたが、今思うとカオス。


オリーブチョコめっちゃ美味しくて好きなので、小豆島を舞台としたアニメがあるといいなあとか思ってます。「二十四の瞳」はあるけど小説だしと思って調べたら、アニメ化されており驚き。まあでもこれは除外かなあ。ホントいい場所なんで、いつ舞台になってもおかしくないと思う。



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あと、庵野監督の生まれは山口県宇部市、水島と同じく工業地帯になっている(※太平洋ベルト地帯なので、瀬戸内に面した地域は工業地帯が多いことも一つポイントかも)。工業地帯や港、離島が入り交じる瀬戸内は、意外とクリエイティブな地域なのかもしれない。


さて、新fateが始まった。僕はさして見る気は無かったのだけど、「DEEN」版との比較というのは面白そうだし、「ufotable」版に期待を持って見るべきだろうと思い、感想を残そうと思い立った。前期の終わりでの発言は、全て忘れてもらいたい。アニメに限らず、何事も始まってみないと分からない。(※今更気づいたことは、謝罪しかない。ごめんなさい。毎回やってるね、これ。)


まずこの#00は、「プロローグ」という体である。衛宮士郎がセイバーを召喚するまでの、凛主観(目線)の物語であり、当然ながら「DEEN」版とは違った印象を与えている。これは、視聴者に対する配慮ともとれる。いきなり本編からでは、「DEEN」版との比較に溺れてしまう人が多いと想定したのだろう。そこで、「これは、全く違うリメイク作なのだ」ということを印象付けるための、#00であると感じる。 

47分と約2話分あるが、殆どは凛による「fate」舞台の説明である。「fate/zero」との繋がりを意識しているようにも感じる。アバンでは、凛パパ(遠坂時臣)との回想を。Aパートでは、凛の基本的な説明と、人間関係、無人の学校と、ワカメと。Bではアーチャーの登場とイチャイチャを。Cでは転換としての、ランサーの登場。Dでは、セイバーの登場での引き。順を追って見ていく。



アバン+α

アバンは、「fate/zero」からの繋がりを持たした構成になっている。

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遠坂時臣と凛の回想をストロボのように演出することで、凛の夢でありながら、視聴者はスムーズに物語に入っていける。これはおそらく「fate/zero」視聴組を意識しての演出。というか大半は、そういった人だろうし。プラス、凛のお目覚めシーン。布団の動きが何か良かったです。けたたましいアラームは、物語の「起」。


Aパート

ロングショットを多用することで、#00は落ち着いた話数になっている。特にAパートでは顕著。同時に伏線としての、ロングショットでもあり、Bパートから活かされることになる。 

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ここからどのように展開されていくかは不明だが、おそらく衛宮士郎視点だろう。それが次の#01であり、#00との時間的重なり(時間軸の違い)を見せることで、「点」が繋がって「線」へとなっていく。まさにトレースオン。


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ワカメ他、登場人物の紹介と描写。シロウの顔(目)を隠すことで、他のキャラとは一線を画していることを描写する。凛主観ならではの描写。他には、桜の紹介や、モブの紹介等ありましたが、さして言うことなし。桜は、そういえば、学校では、「遠坂先輩」っていう呼び方でしたかね。「DEEN」版は、遥か彼方に記憶があるので、見直さなくては…



Bパート 

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綺礼からの留守電シーン。ちょっと面白いものになっている。当然、ここでは、凛の右横に固定電話がある。そして、凛が右に向き直し、留守電の再生を押す。そうして、留守電にポン寄りするが、これが面白い。ここまでのシーンはほぼ全て客観的な視点であったが、凛の目線で描くことにより、ここで初めて純粋な凛主観になる。 そうして、物語の「承」を告げる。

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ちなみに、その次のカットがこれ。上の留守電アップが無くても、一連のシーンとしておかしくはないだろうと思う。ただあそこに、強い凛主観のカットを入れることで、「変化」をもたらしている。今までのは前座にすぎない、という感じの変化をもたらす。


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そうして、アーチャーの召喚に至る。部屋をハチャメチャにする、登場というのは昔からあるやり方で、とても面白い。「異物が物語に入ってきた」というのがすんなり分かる。その他、イチャイチャは割愛。両者とも、性格が気難しいことの描写、だと思う。


Cパート

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そんで、違和を覚えたのがこのシーン。まあイマジナリーラインの問題なんでしょうか。凛とアーチャーの位置関係を示すのに、この一連のカットはちょっとダメな気がする。


ちょっと図解。
fate見取り図 

このシーンを俯瞰で見ると、多分こんな感じ。(※凛の左は階段)


で、イマジナリーラインは、こういう風に想定されるはず。
fate見取り図4



で、各カットごとに検討していくと。

fate見取り図147]
fate見取り図254]
fate見取り図302] 

というような感じ。だから、やっぱりイマジナリーラインを超えて、カット割りをしちゃってる。最初は、イマジナリーラインの奥側でカット割りをしているのだけれど、最後のカットで手前側に来ちゃってる。代案としては、①奥側の通路から、ラストのカットのようにやるか、②凛をなめてアーチャーを映すかの2つだと思う。


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きたねえ。まあ多分言いたいことは分かってもらえると思う。

綺礼の公式ネタ化は何だか、ちょっといただけない気がします。まあ「fate/zero」でも少しあったんですが、今回はモロですよね。綺礼は真面目にやってるだけで面白いので、安易にネタ要員にするまでもないと思ってます。それが綺礼のシリアス・ギャグだと思うし、作為的なキャラ作りはさほど必要じゃないと。まあでも、プロローグですから、そんなね、真剣にならなくてもということかもしれません。



Dパート


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ここから、前述した通り、Aパートでのロングショットが活きてきます。上手いですね。この背景描写は。「ケとハレ」的な対比構造が逆転してるのも面白い。普段は、生徒がたくさん登校している風景が当たり前(=ケ)なのに、この#00では、ハレになってる。それは先に、ハレ(=珍しい)であるはずの「無人の学校」を見せてるから。面白い。


まあ後は、ランサーと戦闘したり、セイバーに出会ったりで終わります。戦闘シーンは、ちょっと速かったかなあ。ああいうスピードでもいいんですけど、もっと決めコマ的なものが個人的には欲しいです。ああいうの見ると、動体視力はよくなると思いますけど。

ufotableは、夜のバチバチっとした火花が上手いですね。あれですごく画面の情報量が増すので、一挙にリアルに近づく。後は、どうでもいいんですが、ランサーってあんなゲス顔するサーヴァントだったんですかね。


という感じで、「fate stay/night #00」の感想終わり。次回からは、シロウ目線だと思いますが、詳細を調べてないので、凛目線かもしれません。まあ、どちらにしろ少し楽しみです。 


前も一回、「夢と狂気の王国」についてはレビューを書いているんですが、庵野秀明の話と全体に引っ張られて、これには「狂気」がないため凡作だということや、その理由を説明してなかったことに気付きました。


なぜ「狂気がない」のか?

とある映画評論家は、「吾郎とカワンゴのシーンには、狂気が感じられるよね」なんて甘っちょろいことを言っているが、そんなことは全くない。ジブリという舞台における「夢」とは、理想とする素晴らしいアニメを作ること、それを大義名分として楽しく働く職場ということ。これは多分その通りだと思う。制作スタッフは楽しそうに仕事をしていて、劇中でも描写されているように感じます。 

では、「狂気」とはなんだろうか。少しの意見の食い違い、揉め事、制作の裏側にありがちな衝突。こんな甘っちょろいもんだろうか。僕は違うと思うんですよ。「夢」の対義語・反意語は、「現」です。つまりは、現実。現実の中に潜んで、その闇の中に隠れているものこそが表現すべき、「狂気」なんです。「狂気」の意味は、正気ではないさま。要するに「気が狂っている」、「普通の感覚ではおかしいこと」です。吾郎とカワンゴのシーンは確かに現実ではあります。しかし、そこに気が狂った様子はないし、ごく普通の衝突。だから、砂田麻美の表現したものは「狂気」ではない。

理想主義的なアニメ制作を「夢」とするならば、「狂気」はその中に潜むどす黒く、常軌を逸したものでなくてはならないといけないんです。受け手側が少し心臓をドキドキさせるとかそういうレベルではない、アニメファン・ジブリファンが「もうジブリを普通の目では見れなくなる」レベルの「狂気」が必要なんですよ。



理想と現実と、矛盾

僕の求める狂気は一点。「アニメ制作現場の異常な過労」です。何も近年亡くなった制作進行だとか、アニメーターの低賃金を取り上げろとかそういうことではない。「アニメージュ文庫発刊記念公園(S57/12/21)」の宮﨑駿の講演文章を要約します。

その仕上げのための一室にある長イスで、毛布を被って寝ていたのが仕上げ検査の女性なのです。朝9時に寝て、朝11時ごろに目が充血したまま起きる。少しお茶を飲んでおしゃべりをすると、すぐに仕上げ検査(色彩設計に基いて塗られたセルに間違い、汚れが無いか確認する作業)をする。その時期、彼女が手がけていた作品で使われいたセルが1週間で6000~7000枚。いくらなんでもムチャだと言うと、スタジオの責任者は「信頼して任せられる人が、ほかにいない」と答えが帰ってくる。そして、「ハイジ」に参加。最初は、本数的な余裕もあったけど、すぐになくなる。制作のしわ寄せは最終工程の仕上げ、つまり彼女へと行き、36時間ぶっ続けで見るハメになる。最後には、経理も巻き込んで、みんなで色を必死に塗る。やっと終わったと思ったら、すぐに別のアニメの仕上げ検査に取り掛かる。そうして、やはり体をこわして、救急車で運ばれて、入院することになってしまいました。

これは、小山明子さんという仕上げ検査・色彩設計の人の話なんですが、これこそが「狂気」です。宮﨑駿、いや制作プロダクションの理想とするアニメを作るためには(※本人も働きたいというのがあるにせよ)、その人しかいなく、その人に働いてもらう他ないんです。体を壊し、最悪の結果を迎えたとしても、理想のアニメという「夢」を勝ち取るためには、やむを得ない。これが、「狂気」なんですよ。 また、制作現場の疲弊はこれに限った話ではないです。それこそゴマンとあるでしょう。

宮崎・高畑が理想とするアニメを作るためには、ゴマンと人がいります。そのゴマンといる人達にとてつもない苦労を強いながらも、あるときは一見楽しい制作現場になる。ジブリの制作社員だろうが、フリーランスだろうが、ぶっ倒れても関係なしに、みんな理想に向かって働く。宮﨑駿自身も体を壊してでも、理想とするアニメを作ろうとします。「疲れたら、休んだらいい」なんてことは、みんな分かってる。分かってるけど、理想的(そうでなくても)アニメの制作には時間がかかり、デッドラインは決まっています。この誰にも解決できない矛盾こそが、「夢」と「狂気」なんですよ。

素晴らしいものを作ろうとするという理想のカゲに、ドス黒い暴力性の高い何かが潜んでいる。これを出してもらいたかった。「夢」の部分は過剰に表現されていました。しかし、吾郎とカワンゴのいざこざになんて、人の命には絡んでこない。そんな甘っちょろいものは、「狂気」ではないんです。これを見て、ジブリ映画の見方なんてものは一切変わらない。「ああ、宮﨑駿ってすごいんだな」で終わりなんです。宮さんってやっぱすげーな、庵野面白いなとか、単なるワイドショーですよ。身勝手な要望かもしれないが、この「狂気」という部分を大人が見てもゾッとするように表現してもらいたかった。これならね、NHKがやった「ふたり」の方がまだトゲトゲした感じが出てて良かったです。

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