GOMISTATION

足が絡まっても、踊り続けて

カテゴリ: 感想・評・レビュー等


さて、新fateが始まった。僕はさして見る気は無かったのだけど、「DEEN」版との比較というのは面白そうだし、「ufotable」版に期待を持って見るべきだろうと思い、感想を残そうと思い立った。前期の終わりでの発言は、全て忘れてもらいたい。アニメに限らず、何事も始まってみないと分からない。(※今更気づいたことは、謝罪しかない。ごめんなさい。毎回やってるね、これ。)


まずこの#00は、「プロローグ」という体である。衛宮士郎がセイバーを召喚するまでの、凛主観(目線)の物語であり、当然ながら「DEEN」版とは違った印象を与えている。これは、視聴者に対する配慮ともとれる。いきなり本編からでは、「DEEN」版との比較に溺れてしまう人が多いと想定したのだろう。そこで、「これは、全く違うリメイク作なのだ」ということを印象付けるための、#00であると感じる。 

47分と約2話分あるが、殆どは凛による「fate」舞台の説明である。「fate/zero」との繋がりを意識しているようにも感じる。アバンでは、凛パパ(遠坂時臣)との回想を。Aパートでは、凛の基本的な説明と、人間関係、無人の学校と、ワカメと。Bではアーチャーの登場とイチャイチャを。Cでは転換としての、ランサーの登場。Dでは、セイバーの登場での引き。順を追って見ていく。



アバン+α

アバンは、「fate/zero」からの繋がりを持たした構成になっている。

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遠坂時臣と凛の回想をストロボのように演出することで、凛の夢でありながら、視聴者はスムーズに物語に入っていける。これはおそらく「fate/zero」視聴組を意識しての演出。というか大半は、そういった人だろうし。プラス、凛のお目覚めシーン。布団の動きが何か良かったです。けたたましいアラームは、物語の「起」。


Aパート

ロングショットを多用することで、#00は落ち着いた話数になっている。特にAパートでは顕著。同時に伏線としての、ロングショットでもあり、Bパートから活かされることになる。 

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ここからどのように展開されていくかは不明だが、おそらく衛宮士郎視点だろう。それが次の#01であり、#00との時間的重なり(時間軸の違い)を見せることで、「点」が繋がって「線」へとなっていく。まさにトレースオン。


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ワカメ他、登場人物の紹介と描写。シロウの顔(目)を隠すことで、他のキャラとは一線を画していることを描写する。凛主観ならではの描写。他には、桜の紹介や、モブの紹介等ありましたが、さして言うことなし。桜は、そういえば、学校では、「遠坂先輩」っていう呼び方でしたかね。「DEEN」版は、遥か彼方に記憶があるので、見直さなくては…



Bパート 

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綺礼からの留守電シーン。ちょっと面白いものになっている。当然、ここでは、凛の右横に固定電話がある。そして、凛が右に向き直し、留守電の再生を押す。そうして、留守電にポン寄りするが、これが面白い。ここまでのシーンはほぼ全て客観的な視点であったが、凛の目線で描くことにより、ここで初めて純粋な凛主観になる。 そうして、物語の「承」を告げる。

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ちなみに、その次のカットがこれ。上の留守電アップが無くても、一連のシーンとしておかしくはないだろうと思う。ただあそこに、強い凛主観のカットを入れることで、「変化」をもたらしている。今までのは前座にすぎない、という感じの変化をもたらす。


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そうして、アーチャーの召喚に至る。部屋をハチャメチャにする、登場というのは昔からあるやり方で、とても面白い。「異物が物語に入ってきた」というのがすんなり分かる。その他、イチャイチャは割愛。両者とも、性格が気難しいことの描写、だと思う。


Cパート

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そんで、違和を覚えたのがこのシーン。まあイマジナリーラインの問題なんでしょうか。凛とアーチャーの位置関係を示すのに、この一連のカットはちょっとダメな気がする。


ちょっと図解。
fate見取り図 

このシーンを俯瞰で見ると、多分こんな感じ。(※凛の左は階段)


で、イマジナリーラインは、こういう風に想定されるはず。
fate見取り図4



で、各カットごとに検討していくと。

fate見取り図147]
fate見取り図254]
fate見取り図302] 

というような感じ。だから、やっぱりイマジナリーラインを超えて、カット割りをしちゃってる。最初は、イマジナリーラインの奥側でカット割りをしているのだけれど、最後のカットで手前側に来ちゃってる。代案としては、①奥側の通路から、ラストのカットのようにやるか、②凛をなめてアーチャーを映すかの2つだと思う。


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きたねえ。まあ多分言いたいことは分かってもらえると思う。

綺礼の公式ネタ化は何だか、ちょっといただけない気がします。まあ「fate/zero」でも少しあったんですが、今回はモロですよね。綺礼は真面目にやってるだけで面白いので、安易にネタ要員にするまでもないと思ってます。それが綺礼のシリアス・ギャグだと思うし、作為的なキャラ作りはさほど必要じゃないと。まあでも、プロローグですから、そんなね、真剣にならなくてもということかもしれません。



Dパート


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ここから、前述した通り、Aパートでのロングショットが活きてきます。上手いですね。この背景描写は。「ケとハレ」的な対比構造が逆転してるのも面白い。普段は、生徒がたくさん登校している風景が当たり前(=ケ)なのに、この#00では、ハレになってる。それは先に、ハレ(=珍しい)であるはずの「無人の学校」を見せてるから。面白い。


まあ後は、ランサーと戦闘したり、セイバーに出会ったりで終わります。戦闘シーンは、ちょっと速かったかなあ。ああいうスピードでもいいんですけど、もっと決めコマ的なものが個人的には欲しいです。ああいうの見ると、動体視力はよくなると思いますけど。

ufotableは、夜のバチバチっとした火花が上手いですね。あれですごく画面の情報量が増すので、一挙にリアルに近づく。後は、どうでもいいんですが、ランサーってあんなゲス顔するサーヴァントだったんですかね。


という感じで、「fate stay/night #00」の感想終わり。次回からは、シロウ目線だと思いますが、詳細を調べてないので、凛目線かもしれません。まあ、どちらにしろ少し楽しみです。 


前も一回、「夢と狂気の王国」についてはレビューを書いているんですが、庵野秀明の話と全体に引っ張られて、これには「狂気」がないため凡作だということや、その理由を説明してなかったことに気付きました。


なぜ「狂気がない」のか?

とある映画評論家は、「吾郎とカワンゴのシーンには、狂気が感じられるよね」なんて甘っちょろいことを言っているが、そんなことは全くない。ジブリという舞台における「夢」とは、理想とする素晴らしいアニメを作ること、それを大義名分として楽しく働く職場ということ。これは多分その通りだと思う。制作スタッフは楽しそうに仕事をしていて、劇中でも描写されているように感じます。 

では、「狂気」とはなんだろうか。少しの意見の食い違い、揉め事、制作の裏側にありがちな衝突。こんな甘っちょろいもんだろうか。僕は違うと思うんですよ。「夢」の対義語・反意語は、「現」です。つまりは、現実。現実の中に潜んで、その闇の中に隠れているものこそが表現すべき、「狂気」なんです。「狂気」の意味は、正気ではないさま。要するに「気が狂っている」、「普通の感覚ではおかしいこと」です。吾郎とカワンゴのシーンは確かに現実ではあります。しかし、そこに気が狂った様子はないし、ごく普通の衝突。だから、砂田麻美の表現したものは「狂気」ではない。

理想主義的なアニメ制作を「夢」とするならば、「狂気」はその中に潜むどす黒く、常軌を逸したものでなくてはならないといけないんです。受け手側が少し心臓をドキドキさせるとかそういうレベルではない、アニメファン・ジブリファンが「もうジブリを普通の目では見れなくなる」レベルの「狂気」が必要なんですよ。



理想と現実と、矛盾

僕の求める狂気は一点。「アニメ制作現場の異常な過労」です。何も近年亡くなった制作進行だとか、アニメーターの低賃金を取り上げろとかそういうことではない。「アニメージュ文庫発刊記念公園(S57/12/21)」の宮﨑駿の講演文章を要約します。

その仕上げのための一室にある長イスで、毛布を被って寝ていたのが仕上げ検査の女性なのです。朝9時に寝て、朝11時ごろに目が充血したまま起きる。少しお茶を飲んでおしゃべりをすると、すぐに仕上げ検査(色彩設計に基いて塗られたセルに間違い、汚れが無いか確認する作業)をする。その時期、彼女が手がけていた作品で使われいたセルが1週間で6000~7000枚。いくらなんでもムチャだと言うと、スタジオの責任者は「信頼して任せられる人が、ほかにいない」と答えが帰ってくる。そして、「ハイジ」に参加。最初は、本数的な余裕もあったけど、すぐになくなる。制作のしわ寄せは最終工程の仕上げ、つまり彼女へと行き、36時間ぶっ続けで見るハメになる。最後には、経理も巻き込んで、みんなで色を必死に塗る。やっと終わったと思ったら、すぐに別のアニメの仕上げ検査に取り掛かる。そうして、やはり体をこわして、救急車で運ばれて、入院することになってしまいました。

これは、小山明子さんという仕上げ検査・色彩設計の人の話なんですが、これこそが「狂気」です。宮﨑駿、いや制作プロダクションの理想とするアニメを作るためには(※本人も働きたいというのがあるにせよ)、その人しかいなく、その人に働いてもらう他ないんです。体を壊し、最悪の結果を迎えたとしても、理想のアニメという「夢」を勝ち取るためには、やむを得ない。これが、「狂気」なんですよ。 また、制作現場の疲弊はこれに限った話ではないです。それこそゴマンとあるでしょう。

宮崎・高畑が理想とするアニメを作るためには、ゴマンと人がいります。そのゴマンといる人達にとてつもない苦労を強いながらも、あるときは一見楽しい制作現場になる。ジブリの制作社員だろうが、フリーランスだろうが、ぶっ倒れても関係なしに、みんな理想に向かって働く。宮﨑駿自身も体を壊してでも、理想とするアニメを作ろうとします。「疲れたら、休んだらいい」なんてことは、みんな分かってる。分かってるけど、理想的(そうでなくても)アニメの制作には時間がかかり、デッドラインは決まっています。この誰にも解決できない矛盾こそが、「夢」と「狂気」なんですよ。

素晴らしいものを作ろうとするという理想のカゲに、ドス黒い暴力性の高い何かが潜んでいる。これを出してもらいたかった。「夢」の部分は過剰に表現されていました。しかし、吾郎とカワンゴのいざこざになんて、人の命には絡んでこない。そんな甘っちょろいものは、「狂気」ではないんです。これを見て、ジブリ映画の見方なんてものは一切変わらない。「ああ、宮﨑駿ってすごいんだな」で終わりなんです。宮さんってやっぱすげーな、庵野面白いなとか、単なるワイドショーですよ。身勝手な要望かもしれないが、この「狂気」という部分を大人が見てもゾッとするように表現してもらいたかった。これならね、NHKがやった「ふたり」の方がまだトゲトゲした感じが出てて良かったです。


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恥を忍んで告白致しますと、「アナ雪」見ておりません。「見てねぇくせに批評すんのかよ、死ねよクソバカ。」仰るとおりで、何の反論もありません。申し訳ない。別の方で少し進行してるものもありまして、まあ観に行く時間もないし、ここで観に行くと何だか負けた気分になってしまうので見ておりません。結局、天邪鬼なだけですね、本当にごめんなさい。

で、何とか、内容をつかもうとwikiなり感想なりを読みまくり、レリゴーを聴きまくり、普通に見るより時間がかかったような気もしています。まあどうでもいいです。

ちょっと自分なりに、「アナと雪の女王」の内容をまとめました。概要的な感じですね。
アナとレリゴーがいて、お互い姉妹だけど、何かレリゴーの魔法が暴走して、アナはお姉ちゃん子だったから寂しいけど会えなくなる。最後には、愛が魔法を制御する手段であることに気付いてハッピーなエンド。

この両者を比べる時に、脚本より前に一番最初に出てこなきゃいけないのは、「フル3DCGアニメーション」と「とんでもなく労力のかかる手書きアニメーション」という構図です。 つまりは、まず映像について。これは、別に「手書きだから偉い」とかそういうことを言いたいわけではありません。

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アナ雪はフル3DCGということで、とんでもなく完成されたものになっています。キャラの表情、カメラワーク、エフェクト、何処をとっても曖昧さやゆらぎは感じられず、アメリカ人の好きそうな不変的で、完璧なアニメーションになっています。 対してかぐや姫は、手書きアニメーション。この上に、水墨画のような淡い感じや、線画のあいまいさなアニメーションでやる。つまり、非完成的なものとなってます。ここには、日本人の一瞬の儚さを好む「わびさび」であるとか、「刹那性」を感じることができます。なのに、なぜ日本人にウケなかったか。


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アナ雪は、前述した通り、完璧な作品という風に感じています。ディズニーらしい演出(ロングで引いていって、いきなりポンと寄るとか)とミュージカルテンポなアニメーション、これはよくよく考えればディズニーの王道を少し誇張した感じのもので、ウケないはずがない。特に、映画を見に来るとなったら、女の子やカップルは楽しいポジティブな作品の方が当然いいに決まってる。愛が最終的な決め手となっている点も大きいです。「アナ雪感動したね~」「大事なことを感じられたね」なんて優等生な感想を残しながら、夜の街ではズッコンバッコンです。


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対して、かぐや姫。日本最古の物語で、中高生で誰しもが触れているような作品です。だから、みんな内容知ってるし。しかも、内容はネガティブ。かぐや姫は、自分の存在意義に疑問を持ち、叫んだりもします。夢の中で逃走を図るが、現実は逃げ切れない。絵はどことなく古びたもので、とっつきづらいし、綺麗な感じも多分そういう人たちには行かない。映画もどうせならキレイでオシャレな方がいいだろうし、コミュニケーションツールとしては、かぐや姫は駄目なわけです。だからウケなかった。こんなもん女子会の話しネタにもならないし、ズッコンバッコンのきっかけにはならない。


こういうわけで、日本人にアナ雪がウケて、かぐや姫はウケなかったと僕は思いました。


もう一つ大きな違いとして、アナ雪はストーリーの上に絵が乗っかっているのに対し、かぐや姫は逆です。ちゃんと子供でも理解できるストーリーに、綺麗な絵を乗っける。これだけできちんとお客さんは入ってくると、ディズニーはもう確立しちゃってるわけです。かぐや姫は、高畑勲の50年来ですかね?東映動画入ってすぐにあった企画を今回どうしてもやりたかった。その面では、アニメ黎明期の「絵」というモノが高畑さんの中で悶々としたものがあったと思うんです。鳥獣戯画的な、淡いタッチで、素朴に自然にやりたかった。だから、絵が先行してしまったんです。絵にストーリーが乗っかっちゃっている。絵がストーリーを作っていくという感じですね。そういう点では、非常に特殊な作品で、幹たる物語の展開はわかっているはずなのに、何故かなかなか見えてこない。逆にアナ雪は、単純明快で綺麗な展開の王道ストーリー。 だから、アメリカのみならず、答えは一つの日本教育のおかげで日本でも大いにウケたわけです。


そういう感じです。
こんな感じに、僕はアナ雪とかぐや姫を見比べて思いました。

ちょっと急ぎ足で申し訳ない。僕の妄想や、勝手な推測も大きく含んでいる部分が今回はすごく多いです。そういう点は本当にも申し訳ない。

コメントでいただいた、児童文学、古典文学としての比較もちょっとできてないので。まあもうホントすいません…そういう点は、やはり見ないとできないと思うので…

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