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2025-1

カテゴリ: 2013年アニメ

たとえば、ゲームをやるとき。一心不乱にパラメータを上げていく、とにかく早く倒す、面白い遊び方をする、ということしか頭になかった。ストーリーがいいね、このセリフがいいね、みたいなことは、ほとんど考えつかなかった。音とグラフィックが好みならば、それで満足だった。

それはゲームに限った話ではない。映像においてもそうだった。ドラえもんとジブリとディズニーを繰り返し見ていくだけだったので、飽き飽きしていたのかもしれない。「夢幻三剣士」が大好きなのは、現実と夢を行ったりきたりする──というところではなく、劇伴がとても良く、面白い画面が続き、作中のアイデアにわくわくしたからだ。



大人になってもその傾向は変わらないけれど、さいきんはやや変化が訪れたような気もする。昔なら笑って済んだ展開に泣きそうになってしまう。

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たとえば、恋愛ラボ3話の保健室のシーン。嫌がらせにマキは悩み過労で倒れ、それに気付いてあげられなかった(マキの能力に甘えていた)と自責するリコ。ぼくは最後の委員会よりも、ここが好きなんですよ。あーお互いに無理してんなー、でもそれが相手に伝わって良かったなあとか思って泣きそうになる。マキにとっては、生徒会の仕事は大したことないんだけど。リコにとっては大問題なわけ。「気付けなかった、見て見ぬふりをしていた」という点で。



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9話も同じ。サヨとエノの関係のことなんだけれど、小学生時代のエノの友達アンケートとかきっとサヨにとってはどうでもいいことじゃん。でも、エノはすげえ気にするわけ。気にするってことは、やっぱ心のどこかで「こいつ変だけど仲良くしたいな」みたいな願望がある。図書館で「こうやって話すのは榎本さんだけ」って言われたのがエノにとっては、相手を裏切った感覚になった。だから、職員室に行ってわざわざ訂正までした。エノは、自分の心に嘘を吐きたくないわけよ。友達アンケートの結果なんてサヨにバレるわけでもない、でも相手が自分を友達と思って書いてくれたんだったら、たとえただのアンケートとはいえ、紙切れとはいえ、裏切ったとなってしまう。だから、先生に訂正を求めた。

つまるところ、相手が大変か・重要かどうか、なんてのは関係ないんですよ。自分が相手をどう思って、大変かどうか判断するのが彼女たちにとっては大事なんです。それが、おそらく良心と呼ばれるものなんだろうけれど。そういった繊細さにさいきんは泣きそうになることが多い。

「進撃の巨人」は、2010年代どころか、21世紀を代表する漫画になるだろうなと半ば確信している。




同系統、未知なる力・強大な力へと挑む「亜人」「モンキーピーク」「自殺島」なども十分に面白い作品である。しかし、これらは、ある種、キャラクターの行動が完璧すぎる。きちんとキャラクターがそつなく動き、そつなく失敗する。別にこれらの作品を貶める意図はないが、どこかしら、完璧さが際立つ。そこが、進撃との最も大きな違いである。

進撃の巨人は、どこか不安定さを含んでいる。エレンを想いすぎ、間接的にリヴァイを傷つけてしまうミカサ。アルミンを助けたいがばかりに、上官に刃を向けるエレン。不完全で不安定な感情や雰囲気を背負った、この作品は、そのおかげで、リアルなものとなっている。

感情によって揺り動かされ、時には成功し時には痛手を得る。こういったものは説得力を増す。ついぞ、エルヴィンは、自分の仮説を検証したがっていた。地下室への渇望があった。一度こそ揺らいだものの、リヴァイの説得により、戦場で死ぬ。

このような葛藤こそが、リアリティあふれる描写であり胸踊る要因ではないか。また、これが正しいと思われる選択がないのがいい。寄生獣も、正しい選択などない中で、選択を迫られ決断をする。失敗したり、後悔したり、嬉々と喜んだり、成功したり、人生そのものの本質が選択であると突きつけられているようだ。

不安定さ、未熟さ、不完全さ、こういったものを含んだ等身大のキャラクターの動きは、身近なものだ。身近なものはリアルさを醸し出し、そのリアルさが説得力を生み、説得力が没入のきっかけとなる。ああ、よく考えてみれば、エヴァなんて、その典型ではないだろうか。1ページで心踊る作品など、今しばらく見ていなかった。

のんのんびより公式サイト

さて、「のんのんびりぴーと」は好評のまま無事終了した。継続して見ていたが、2期において感じたのは、その時間感覚のリアルさである。「のんのんびより」の劇中内に流れる時間感覚は、現実の時間の流れと非常に似ていた。他の日常系アニメには無い、「(現実世界に敷衍しても違和のない)時間のリアルさ」を感じたのだ。今回は、他の日常系アニメを通じて、「のんのんびより」の時間感覚、「劇中における時間の流れ」というものを見ていきたい。

キャラクターの日常風景を楽しむ雰囲気を日常系アニメにおいて、「時間の流れ方」は肝心要の部分である。そして、「のんのんびより」の時間感覚は、現実の時間に非常に近い。何故、のんのんびよりの時間感覚は現実の時の流れに近いのか。


まずは、他の日常系での時間感覚を整理したいと思う。

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例えば、「ゆゆ式」における時間の流れを見ていこう。ゆずこ、唯、縁たち3人の時間だけを切り取り、その周辺環境(パソコン室)を補足しながら、時間は彼女たちのペースで緩やかに流れていく。お互いの家に行ったりもするが、基本的に彼女たちの関係性は、3人だけの「小さな関係」だ。小道具や部屋には彼女たちの性格は反映されるが、それが外の世界と関係性を持つことは殆ど無い。


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「キルミーベイベー」では、基本的にやすなとソーニャ、あぎり、没キャラの4人以外は描かれず、背景もイメージBGが多用される。ここでは、彼女たちキャラクターオンリーで物語は描かれてゆき、彼女たちの関係性は、「小さな関係」の中で発展していく。

彼女たちのキャラクターを誇張し、その関係を示すには、凝った背景美術や他の学生の描写などは端から必要ないのだ。それらは全て、彼女たちの関係性において妨害物となり、「小さな関係」を築けない。キルミーベイベーの物語は「小さな関係」の中で、構築され発展していく。それがコメディアニメとしてのキルミーベイベーの本質であると思う。彼女たちの中の小さな繋がりだけで進行していく物語を、視聴者は傍から見るのだ。



近年の日常系アニメの筆頭ともいえる、「ご注文はうさぎですか?」においても主要キャラ以外の情報はほとんど示されず、5人の中でリレーするように話は展開していく。これも「キルミーベイベー」の類型と思われる。チノからココアへ、ココアからチノへ、鬼畜和菓子からシャロへと、エピソードはそれぞれの関係を重視して描かれる。つまりは、彼女たちと明確な接点がない要素(学校、土地、店)とはあまり関係を持たず、彼女たちの「小さな関係」の中でしか物語は殆ど発展しない。日常系アニメは社会性を失い、キャラクターの関係する範囲はどんどんと狭まっていく。

「社会性の喪失」、これこそが日常系アニメの基本であり、心がぴょんぴょんする一因である。非日常系アニメにおいて、外部環境との関係がキーになる以上、社会性(外部との交流)が喪失することは少ない。外部と交流する状況を映さない日常系アニメは、ユートピアそのものである。外部から横槍が入ってしまうと、その理想郷は破壊されてしまう。だからこそ、関係性は「彼女たちの中で」脈々と育っていくのだ。


ここまで見た3作品の日常系アニメに共通することは、画面に示される彼女たちの関係性がいずれも、その舞台世界において個別の「小さな関係」であるということだ。もう一つの共通点として、外部の環境は彼女たちに影響をさほど及ぼさないというのがある。彼女たちは駄菓子屋に寄ったり、公園で戯れたり、帰り道でお店を訪ねたりするが、それらが彼女たちの関係性に対し、何らかの影響を与え変化を促す、といったことは殆どないのだ。それら外部の環境は、彼女たちの関係にとっては、小道具のようなものであり、「クレープを一緒においしく食べた」「公園で遊んだ」というアクセサリー的装置にしかすぎない。外部の環境は、付属品にはなりうるが、本体には成り得ない。つまり、物語の本題にはなれないのだ。それが、非日常系アニメと最も異なっている点である。

非日常系アニメにおいては、外部の環境は重要な伏線となり、物語に影響を与える。「シュタインズゲート」を例にすると、未来ガジェット研究所にしろ、ブラウン管工房にしろ、フェイリスのメイド喫茶にしろ、ルカ子の神社にしろ、それぞれ物語の本題に密接な繋がりを持つ。世界線が変わることで、その存在意義や立ち位置は瞬く間に変貌する。端から存在が無くなってしまう場所まである。「新世紀エヴァンゲリオン」にしてもそうであろう。碇シンジの心情は、彼が部屋にいる時と、コクピットに搭乗している時では全く違う。ゼーレの集会や、第一発令所におけるブリーフィング、使徒との戦闘後のデブリーフィング、セントラルドグマの構造やその破壊、それらが物語に影響を及ぼすのは言うまでもない。

日常系アニメは、これらの外部環境の効果がほぼ無きに等しいと言っても過言であろう。彼女たちにとって、外部の環境は物語自体に影響力を持つものではなく、付属品として彼女たちの魅力を拡大するものである。だからこそ、「プール回」という俗語も存在する。日常系アニメにおいて、外部の環境はあくまで気まぐれな存在なのだ。


対して、「のんのんびより」はどうなのか。

「のんのんびより」は、その「小さな関係」を描写する日常系アニメという体裁を保ちながら、「世界」と「彼女たちの関係性」を同値に描くことで、現実の時間感覚をあたかも見事に取り入れている。日常系アニメで、付属品であった外部環境を物語の背景(時には彼女たちと同等に)として描いているのだ。

描かれるのは過疎地域の平凡な日々、過ぎていく穏やかな時間。蛍、れんちょん、なっつん、こまちゃんら、「彼女たちの関係性」は、舞台世界の大きさとほぼ同値に描かれる。「のんのんびより」における舞台世界とは、例えば田んぼや森、虫、分校、さびれたバス停など描かれる世界全てであり、視聴者に示されない情報も含まれる。ここには、例えば、「蛍がやってくる1年前の旭丘分校の入学式以降の様子」といった劇中で示されていない要素も含まれている。

そこに彼女たちのキャラクターが配置されていく。「ゆゆ式」や「キルミーベイベー」などの日常系が、世界における「小さな関係(キャラクター内で発展する関係)」を優先したのに対し、「のんのんびより」では、彼女たちの関係性を「小さな関係」とせずに、舞台世界と同等の大きさ(「大きな関係」)で描いている。

これもうわかんねえなあ(混乱)
簡易的なベン図を用意した。大体こういうことだ。

小さな関係について大きな関係について

通常の日常系アニメは、「世界」が「彼女たちの関係性」を包括する。「世界」を必要条件として、彼女たちが存在する。「彼女たちの関係性」は「世界」にとって、十分条件にすぎないわけである。対して「のんのんびより」では、「世界」と「彼女たちの関係性」がほとんど同値に近い。


時間感覚の流れがリアルなのは、この「世界と彼女たちの関係性の大きさが同値」な点に起因する。「(のんのんびよりが成立している)舞台世界」と「彼女たちの関係性」が同値であるならば、この状態は現実世界のものと相似的であり、時間の流れは現実と近似する。つまり、「舞台世界で流れる時間」と、「彼女たちの関係性の中で流れる時間」がほぼ同じということだ。


この時間についての証左たる描写は2期2話で示されている。

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2期2話では、忌避される描写があった。自動販売機の虫がうじゃうじゃいるシーン。このシーンにおいて、(写実性という点では意味があるが)展開として虫を描く必要性はさほどない。誰だって虫の大群なんて見たくないし、ましてや萌え・日常系アニメでは悪手とも言える。虫の大群を見るなら、ナウシカで十分なわけであって、安らぎを求める日常系アニメにおいてあえて登場させる必要性は皆無に等しい。スト―リー展開として、明かりや目印が伏線であるならば、代用品はいくらでもあり、それこそ電灯でも、特徴的なランプでも何でもいいわけだ。

それならば、なぜこのようなシーンを描こうとしたのか。都会の自販機であったら、一応の管理があるために虫はさほど寄って来ない。しかし、ここはドが付く田舎の中の田舎。周囲にあるのは森と田んぼや用水路である。この外部環境において虫が生息していないわけはなく、むしろ山ほどいるのが現実的でリアルだ。前述のとおり、典型的な日常系アニメでキャラクター本位で描こうとすれば、虫を回避する方法はいくらでも方法はある。しかし、その選択をしなかった。それは、決して彼女たちの関係が「小さな関係」に留まるものではなく、「世界」と同等の関係性であることを描こうと突き通した故の演出ではなかろうか。


だからこそ、このような画面になったと思う。キャラクター本位であれば、女の子と自販機というだけで画面に違和はない。田舎という点を考慮しても、虫の描写はちょろっと端っこに書くだけでも物語の整合性は満たされる。作画や仕上げの負担も増えるのにもかかわらず、うじゃうじゃと虫を描いたのは、前述の「彼女たちの関係性」に起因すると思われる。「彼女たちの関係性」、ここではコマちゃんと蛍の関係を、「世界」と同等に扱おうとしたからこそ、この画面となったのだ。虫も田んぼも用水路も、コマちゃんと蛍の関係性の中に同居しているのだ。そうすることにより、受け手側もその関係性の中に自然に溶け込むことができる。


ここに「のんのんびより」の凄みを感じる。日常系アニメという体面を保ちながら、非日常系アニメ以上に外部環境を積極的に取り入れ、結果的には舞台世界と彼女たちの関係性を同等に描こうと試み成功した。この点において、「のんのんびより」は大成功を収め、たくさんのファンを生み出したのだと思う。

のんのんびより is God


<参考文献>
とりとめもないけれど、それでも時間は過ぎていくから。という話 - 不定形爆発 Ver.2.0 
2013秋アニメ のんのんびより - 大匙屋@セミリタイア   

さて、オカタイ文体で書いた(脚本面)とは打って変わって、こちらでは比較的ラフでいきたい。
というより、超ラフでいく。あーここいいやん!いいやん!みたいな。
それでいて、内容がある文章を書いていきたい。
もっとわかりやすく、やさしく書けたら、良いなと思ってる。

最終話は、流石に作画も気合が入る。すさまじい熱気を感じた。



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いおりん口もごもご。「ナウシカ」のクシャナ殿下を思い出す。


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全セル煙。線は少なめ、動きはゆっくり。


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ラ行の後ろの目がバッと張り付く感じがいいです。レイアウトもいい。
壊れた建物によって、よりラ行の神々しさが強調される。


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タイトルカット。鋭い音楽とともに緊張感が高まる。


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DTRの合体カット。
ここタイミングバッチシで上手い。
今石か雨宮か。


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すごく大変だったと感じる、生命繊維の波シークエンス。
最後は背動みたいになってて、さらにスゴい。
ここ描いた人相当上手いですよ。


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ここのキャラの顔が印象的。気迫がスゴい。
特に、流子、猿投山の目の芝居がいい。


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鮮血を着てからのシーン。
パンツふわ~のカットです。何気にタメてて空気感が出てる。


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レイアウト、もう少し右に流子を配置しても良さげ。
なんでかというと、変身するときに流子の右手は左に向かうから。
右手に配置することで、画面に空間の広がりを感じられる。


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ここは、素晴らしいです。
若干強調されたパースに、ハキハキとしたタイミング。
戦闘と熱さの山場でした。


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ここは半田さん修正かな。
光が正面下から当たってるので、影がこうなる。
影も合わさって、ガマかっこいいです。


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ここも半田さんっぽい。
「リトル」での花火シーンしかお仕事知らないですが、エフェクト上手そうな人です。


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一連のカットは珍しく、スローモーションっぽく。
二人の動きがゆっくりで、重量感がある攻撃。


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「破」ボツコンテを思い出したのは、置いといて…
ラ行と縫の目があって、一瞬間を置くんですけど、その間の取り方が絶妙。


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怒涛の6枚スクショ。
そりゃこんだけいいエフェクト見せられたら、テンションも上がるというもの。
ぱっと見、吉成エフェクトっぽいですけど、どうですかね。
ここはフォルムといい、吉成だと思うなあ。
地味に前の方の煙がいい味出してるんですよ…!


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全セル煙2。影付きでブワッと。


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キャラ全セル。大変でしょ、これ…
DAICON4じゃないんだからさ。
でも、オマージュ的な要素もあるのかな。


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鮮血が開眼したのに、バンクで閉じる痛恨のミス。
まあ、制作厳しかったみたいなので、しょうがないですね。 


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こんな煙を描ける人がトリガーにもいるんだ(※失礼)
いや、これまで煙でいいカットが、ほとんどなかったんですよ。
煙もbookで流したりとか、そんなんばっかだったし。


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完全に永井豪。変身で赤くなるのはカッコイイけど、もう一工夫欲しかった。
肩が尖ったりとか、それこそガンバスターでも良かった。
右のカットは、誰だろう。宇宙の中でビームになっての戦闘は、とてもいいです。


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セルですらない感じ。荒っぽいタッチが印象的。
ここがマヒローだったりしますかね。

 
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ここのエフェクトも素晴らしく。
タタキみたいなのは、CGかなあ。
右下カット一瞬ですけど、カットの秒数、タイミングともに良い。
「寄生獣」における、ミギーとの別れのシーン並に泣きそうになりました。
 

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ここは正直前のカットがいいだけに、少し良くない。
「鮮血ー!」と叫ぶのはいいんだけど、無音にすべき。
ここでのセリフは、「鮮血」以外はあり得ないわけで。
視聴者の想像力にお任せする方が、感じるカタルシスは大きいと思う。


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全力疾走する皐月と、全セル煙3。


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ギャートルズ並みの全裸率。
NBの二人だけが服着てる状況が、おかしくてずっと笑ってました。 


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パーンと、絵が切り替わって戦い終わり。

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クレジット。
劇場版かな、と勘違いしてもおかしくない面子。
師匠は参加して欲しかったけど、忙しいんですかね。
最後の流子バンクは描いて欲しかった…


さてここからは、平松さんの一人原画。

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この右手にあるバイクは「フリクリ」のハル子のと同じだったり。
べスペですね。

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地味に字になっていたり。(左)


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本当に女の子上手い方だなあと改めて実感しました。
特に流子の安定感がすごい。
ショートカット皐月もいいですよね、可愛い。でも凛々しいイメージは崩さず。 

25話は完全に蛇足だと思いますが、まあドラマCDみたいなもんだと思いますよ。
だからこそ、購入者特典で付けるんだろうし。



「キルラキル」の作画言及も今回で終わりということで。
20話ぐらいからやり出したんですけど、まあ色々とお疲れ様でした。
これ全話やろうとしたら大変だろうなあ。
各話感想は大変なので、やっぱ作画中心で見ていきます。
感想はオマケぐらいに思ってください。
ストーリーの感想は、キリの良いトコで、また書いたりすると思いますので。


「役員共」は一週遅れなので、まだまだやっていくと思うよ。
「ズヴィズダー」は、全話感想でやるつもり。
「スペースダンディ」は、作画Pickupするかも。

春アニメの方は、「キャプテンアース」と「悪魔のリドル」「シドニアの騎士」「監督不行届」は追っかけていく予定。「ブラック・ブレット」「極黒のブリュンヒルデ」や「ピンポン」も気になってますが、優先順位は低いです。まあ、増尾さんの方にも時間を割きたいので、他サイトみたいな複数の各話感想は期待しないでね。

さて、とうとう最終回である。

正直に言って、22話で自分にとっての「キルラキル」は終わっていた。
流子が”自分は人でも服でもない曖昧な存在”を乗り越え克服すれば、もうお話としてはおしまいだと思っていた。
僕にとっては、「一人の女の子の成長物語」であったからだ。
しかし思いの外、密度の濃い、それでいて真っ当な最終回であった。
率直に言って、納得出来ない最終回であったのも確かだ。少し拍子抜けした。
面白かったのも確か。
だけど、二度観ようとは思えない。

皐月、流子の攻撃によって一度はラ行が倒れそうになる。しかし、縫の体を原初生命繊維に取り込ませ、そのパワーでラ行が原初生命繊維を服として着る。これで、わざわざ原初生命繊維を信号を発信する機械に取り付ける必要もなくなり、ラ行は直接衛星へと向かう。そこへ極制服をもらった流子も向かい、ラ行との一対一の対決となる。よくわからない感じで勝利をし、地球へ帰還する。これで終わり。

ご都合主義のハッピーエンドは好きな方ではない。だから、伊坂幸太郎みたいな作品は大ッキライだ。どちらかと言えば、苦労を重ねても、結局うまく行かない、そんなリアリティのあるエンドの方が好きだ。二度観たくなるような作品は、四苦八苦があり、最後の最後までどうなるか分からない。そして、自分の思い通りにはならない悲しさと避けては通れない儚さがある。野球で例えれば、超接戦の試合みたいなものである。「日本文理の夏はまだ終わらない」の名実況でお馴染みの、「日本文理VS中京大中京(2009/夏)」がいい例だろう。それが、これには無かった。22話の時点で、勝利は確定し、絶望や諦めなど一切無かった。6回裏で、10点差が付いてるような試合だ。接戦という状況が何度も見たいと思わせるのは、何も野球に限った話ではないのだ。だから、二度観ようとは思えない。これは、あくまで僕の好みの問題だから、一概には言えないが。

制作がひっ迫していたというのはあながち嘘でも無かった。コンテ担当の今石、吉成は相当な実力者である。その中で、最低限必要なコンテだけを残し、要らないコンテはオミットしまくっただろう。それほど、最終話の映像はつぎはぎに見えた。やりたいストーリーをこれでもかというぐらいに詰め込み、やらねばならないストーリーは相当数捨て去った。この脚本ならば、2話分の尺がいる。これは間違いない。それを1話分に圧縮するのは、さぞかし苦労しただろう。僕はやはり、アニメに関しては、脚本と映像は同じ人がトップで担当しなければならないと改めて思った。自分の脳内にある物語と、実際にできる物語との誤差が少なくなるからだ。


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(最終回直前 ニコ生より)

しかし、トリガーのTVアニメ第一回作品として始まったこの作品は、彼らにとってはいい船出となったのではなかろうか。 ガイナックス出身の今石、大塚、舛本の三名を中心に、2011年に作られたアニメ制作会社「TRIGGER」は、吉成曜監督の「リトルウイッチアカデミア(2013アニメミライ)」から本格的にアニメーション制作をスタートし、今回の「キルラキル(2013/TV)」に漕ぎ着けた。ここに、舛本、大塚他、制作デスクの多大なる営業活動の賜物があることは間違いなかろう。また新規スタジオとして、コネクションが無い中、TVアニメ制作に至ったのは、制作デスクの尽力とともに、今石を中心とした実績があるスタッフだから出来たことでもある。
 
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(左から、クリエイティブ・オフィサー:若林、監督:今石、総作監:すしお)

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(若手アニメーター、米山、坂本、岩崎、半田ら。右手には大先輩たちが並ぶ)

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(前には、岩浪(音響監督)、中島かずき(脚本)が並び、後ろには主要声優陣)

今作では、特に元ガイナックスの「グレンラガン組」(※ヤングガイナと言ってもいいのかな)が中心となって制作に取り組んだ。そこに、新しい作画メンバーも加わり、まさに「新鮮な血液」が流れているのが手にとって分かるような作品となった。一部では、”手抜き”に見えるほどのデフォルメ、そして出崎を筆頭に70年代~80年代のパロディ・オマージュが相次いで映像として出てきた。 しかし、終盤になるにつれ、過度なデフォルメ、オマージュは鳴りを潜め、徐々に写実性が増していく。「キルラキル」というオリジナル作品へと変貌を遂げていったのだ。 デビルマンが終わりに来るとは思っていなかったけど。

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トリガーの目線からも見てみよう。「リトルウイッチアカデミア2」の制作も多額のクラウドファンディングによって決まっており、セールスが多少他とは見劣りしようとも、「キルラキル」を作ったことその事で、国内外に「TRIGGER」というやべえスタジオがあることは、大分認識されたと感じる。目先のセールスよりも、制作会社の名前の方を売るのが先である。そして、「キルラキル」という代表作も出来た。

何も市場は日本で無くてもよい。そう感じているプロデューサー、経営者は多いはずだ。前述の「リトルウイッチアカデミア2」のクラウドファンディングを見ても分かるように、従来の高価なDVDを売って制作費を回収するのは、労使ともにウンザリなはずだ。そして、日本人の根底には、「アニメはテレビを付ければ流れるもの」という意識がある。しかし、海外ではそうもいかない。ディズニーやピクサーといった”上品なアニメ”に飽きた海外アニメファンは多いが、自国内で刺激あるアニメが作られるわけでもなく、外国動画サイトでは日々違法アップロードが進んでいる状況である。 そこに、ビジネスを見出すのはさほど困難でもないだろう。事実、バンダイチャンネルなど、配信事業は年々拡大を続けている。当然今は、高価なDVDを売ったり、無理やり声優に歌わせた曲を売ったりとアコギな商売は続くのは間違いない。しかし、カラーやトリガー(後は京アニ)といった「実力のある若い制作会社」が、アニメ業界の在り方を大きく変える可能性もある。どんな風に変わるかは展望ができないし、「製作委員会方式」の利権にすがる出資会社は改革を拒むかもしれない。それでも、カラーやトリガーの存在はアニメ業界に大きく横たわり、もう誰も無視できない存在である。そう思う。

オールドガイナな「カラー」とは対照的に、若い面々が多い「トリガー」のスタジオは若者らしく、自分たちのやりたいことをダイレクトにやっているように見える。若き日のガイナックスが、「王立宇宙軍」 を作ったまではいかないが、それでも同じような商品ばかり並ぶ今日の深夜アニメの中に、「キルラキル」が突き刺さるような作品であったことに間違いはない。

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