GOMISTATION2

結果はすべて、世界によって決定される

カテゴリ: 2014年アニメ


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22話「春風」
絵コンテ:イシグロキョウヘイ 演出:イシグロキョウヘイ、黒木美幸

さて、昨年10月から見てきた、「四月は君の嘘」も最終話を迎えた。最終話と冠しているが、実質的には20話から21話も含んだ感想と思ってもらえればいい。この3話はとても連結していて、切り離すのも難しい。感動を言葉で分析するのは、やや無粋な気もするが、やはり感想は残しておきたい。



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集中治療室に宮園が運び込まれるのを見てから、有馬は練習を中断する。中断せざるをえない精神状態になり、ついには何もしなくなる。この構図は、小学生時代の有馬親子と重なる。ピアノを弾かなくなった根本は自分がピアノを弾けば弾くほど、母親の病態は悪くなり、結果死に至ってしまったからだ。ここに因果関係など当然ないが、この記憶から有馬の思考は、「自分がピアノを弾くと不幸を招いてしまう」という風に発展してしまう。これを1話から黒猫というモチーフを使い表している。


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黒猫は不幸の象徴であるが、迷信にしかすぎない。合理的な根拠などなく、人々が様々な厄災を押し付けるために意味づけられているだけである。黒猫は有馬の分身であり、彼の考えを鏡のように映し込む。例えば、宮園と話していて楽しい時は、黒猫が懐いてくる。宮園が死ぬかもしれないという疑心は、車に轢かれる黒猫という描写で具体化される。そうして、血で汚れた手は、自分が音楽をしたことによって、宮園を死に追いやってしまったのではないかと思う有馬の心情表現であると感じた。


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宮園との永遠の別れという危惧も、この手紙によって何とか回避され、有馬は病院へと向かう。ここでは綺麗なマッチカットでシーンが繋がれているのもまた見所であった。


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当然はあるが、一枚目のハトと、二枚目のハトは違う群れである。時間という大きな壁を乗り越え、同じような物体で画面をつなぐ。彼らには、病院に向かう時間すら惜しいのだ。そんな時間すらもったいないと思うからこそ、学校から病室への直接的なマッチカットになる。


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屋上での宮園との最後の会話。とても不安定で、くじけそうになり、「1人にしないで」とすがる宮園かをりこそが、本当の宮園かをりである。普段は、それに抗い破天荒さを演じる。憧れである有馬公正の前で素でいられたのは、おそらく藤和音楽コンクールへの出場を願った、02話とこのシーンだけであり、これまた屋上でのシーンであることは印象深い。天国に近くなると、死というものを思い出さずにはいられないのだろうか。そうして東日本ピアノコンクールが開始する。


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「弾かなきゃ」と何度も暗示し、最後には表現者なのだからと自分を説得する。そうして映される刺々しい血まみれの手。表現者たりうる自分のピアノは、それに出会った人を結果的に不幸にしてしまう。人々に影響を与える素晴らしい表現者であることによって、皮肉ながらも大切な人を殺してしまうという残酷な性質をここで描写していると感じられる。有馬は、ここでもまだ怖がっている。ピアノを弾けば、宮園は死んでしまうのでないのかと。自分が弾かなければ、助かるのではないのかと、そういう風に思っている。


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しかし、その迷いを断ち切る。それは、宮園以外にも自分を支えてくれている人の存在を思い出したから。渡も椿も、瀬戸さんも、井川も相座兄妹も、有馬を豊かにし音をくれたのだ。そうであるならば、演奏によって彼らに答えなければならない。それが演奏家の宿命であり、人生である。演奏家としてピアニストとして生きていくためには、仮にこれで宮園が死を迎えたとしても、決して厭わない。つまり、「ピアニスト有馬公正」とは血にまみれた鬼の道を通らねばならないのだ。ピアノを弾くことで、果ては自らが不幸になったとしても、ピアノによって自分を表現し続けるほかないのだ。有馬が自分のことを「口下手」と語るように、井川が「言いたいことは演奏に全て込めた」と独白したように、彼らには自分の気持ちを伝える手段が、言葉ではなくピアノにあるのだ。


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さんさんと輝く、舞台の上。撮影でキラキラにさせている。このように華やかな舞台に立てる、演奏家という人種の裏には、さきほど見た残酷性があり、それを浮き彫りにするかのようにとてもきらびやかな舞台を強調している。


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「届け…届け…」と宮園への想いとピアノへの没入が高まっていき、鏡面が美しい自分だけの世界へと沈み込んでいく。ここは有馬の心情風景。有馬の思いの場所。美しいドレスをまとった宮園がそこには存在して、協奏する。ここで宮園が登場するまでも、またマッチカットで繋がれている。


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屋上での最後の会話の後、階段を降りて「ありがとう」と宮園がつぶやくシーンから一転、耳を媒介として有馬の心情風景へとつなぐ。晴れているのに、雪がしんしんと降り注いでいる。これは「風花」という現象であり、これが終わりに宮園のイメージが崩壊していく描写の下地となっているかもしれない。


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協奏シーンでは、宮園のヴァイオリンの弦に対して入る透過光が画面にアクセントを加えている。きらびやかな宮園のイメージを象徴するかのように、踊る弦にきらきらが入る。80年代ではよく、「涙」の描写に透過光が多く使われた。そういった点では、有馬の心情を代弁しているかのようにも感じられる。


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音楽の高まりに合わせ、前期OPバンクが使われる。これは、良かった。そして、宮園の死を示唆するように、イメージは桜の花びらとなって散っていく。「四月は君の嘘」とは、とてもいいタイトルだ。そうして演奏は終焉。「宮園の死」や、「コンクールの結果」など分かりきったものはどうでもいい。結果ではなく、そこに至るまでの過程が重要であり、映すべきシーンなのだ。そんな結果は、『タッチ』で甲子園優勝するかどうかぐらいどうでもいい。



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Bパートではお墓参りから始まる。そうして、ここからが特に素晴らしかった。有馬は手紙を受け取り、まるで宮園の軌跡を辿るかのように、マッチカットやバンクでシーンを紡いでいく。


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同レイアウトによる演出。全く同じレイアウトでも、そこを過ごした人、過ごした時期によって全く異なる意味を持つ。季節は縦横無尽に移動し、時間も現在と宮園の過去を往復する。この「同じ事柄(風景、演奏、人間)から、違った解釈や想いを生む」ことこそが、「四月は君の嘘」という物語の本質であるように思う。有馬のピアノにしても同じピアニスト同士で感じ方や憧れとなる部分は違うし、椿という1人の人間に対する思いも、有馬と宮園の間では大きな差がある。


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同様の演出。上は、01話の宮園と同じ道を通っているのを映し、下では幼少期の頃の宮園との対比となっている。


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これも01話の宮園と同じ道を辿っている描写。ここでは、マッチカットでカットをつないでいるんだけど、これが素晴らしく滑らかで美しかった。


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同レイアウトによる演出。手紙における、宮園との対話。宮園は亡くなってしまったが、有馬の心の中にはずっと住んでいる。「君の中にいる」という、有馬と宮園が望んだものが最後に果たされている。人の心の中に、イメージとして残っているのだ。一番大切と思っていた、有馬の中に生きている。


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あともう一つ。以前、「宮園かをりの死」とは物語として決定されていると言ったが、これはナギに言わせれば陳腐だろう。物語の本質は、死という結果そのものではなく、そこに至る過程に存在している。つまり、彼女が「死ぬこと」ではなく、彼女が「どう生き、最期を迎えるか」が大事なのだ。「みっともなくあがく」という主旨の言葉を、作品序盤から宮園はよく使った。これは彼女を表す象徴的な言葉でもあり、抗いこそが彼女の全てであったと言っても過言ではない。抗うがために、つきまとう病気や死の不安はそのままに、怖かったコンタクトレンズを使い、ホールケーキを食べ、譜面に逆らう。おとなしい性格を隠し、嘘の恋人を作り、勝手気ままな女の子を演じる。「真摯に生きる」ということは、『風立ちぬ(劇場/2013)』でもあったように、何かしらに抵抗するということなのだ。 

「四月は君の嘘」というタイトルは色々な取り方がある。例えば、有馬が終盤まで引きずっていた「宮園は渡のことが好き」という嘘であるという見方。嘘をきっかけに、宮園が人生の最後を謳歌し、有馬はそれに呼応する形で人生を歩みだした、という解釈。個人的には、違った解釈を次に述べたい。宮園が四月に現れ、そうしてスッと消えていった、幻や夢のようだという解釈である。宮園と出会い、そうして別れていった記憶の全てこそが、宮園が見せた「嘘」であり、有馬にとってはかけがえのないものとなった。春がくるたびに、思い出がまるで幻に感じられるくらい、刹那的な出会いと別れであった、つまり「嘘」である、という事だ。「君と過ごした時間」という事実は確固としてあるのに、なぜか輪郭がぼやけていて、曖昧な感じがする、そんな印象を「四月は君の嘘」というタイトルに反映させているように思えた。


さて、これにて四月は君の嘘22話の感想をおしまいにしたいと思う。お疲れさまでした。全話を通して作画、撮影のクオリティは高過ぎるほどに高く、そして演出もビシッと決まっている回が多かった。特に04、09、13、17、18、20~22話は積極的な演出が数多く見られ、個人的にはとても満足だった。

強いて良くなかった点を挙げるとするならば、柏木さんがブスでなく、死んだ目をしていなかったことぐらいだ。
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俺にも時間がない。すんごい簡素にまとめる。


14話「足跡」
絵コンテ・演出:柴山智隆

逃避を続けてきた、椿が向き合う話数。ちょっとダイレクトな演出、モノローグの処理があって、中々没入できなかった。もうちょっとざっくばらんでいい。この話数の有馬は、やけに色っぽい作画なんだけど、これは多分、椿から見た有馬の感じを出しているんだろうな、そう思う。有馬の着てるベストもいい味出してる。



15話「うそつき」
絵コンテ:神戸守 演出:矢嶋武

椿の引きずりと宮園の病気描写回。椿はやっとこさ前の話数で気づいたわけだけど、なかなか素直になれない。でも逃避することは辞めたので、彼女は同じ土俵に立てた。サンキュー柏木。宮園の病気、自分の足が動かない部分の直接的な絶望・自棄の描写、これは素晴らしかった。もっと踏み込んでも演出してもいいと思う(例えば、エゴな部分を画面で出す)けど、大分出していたので良かったと思う。それから、バンクが増えてきてええ感じです。



16話「似たもの同士」
絵コンテ・演出:黒木美幸

相座妹、ナギとの出会い。なぜ弟子を認めたかについては、瀬戸さん曰く、「悲しさではないものを公正にもたらしてくれると思ったから」と。正直ナギは何を有馬にもたらしたか分かってない。有馬が教えるところに意味があるのだろうか。後、Bパートのギャグ演出はキレッキレだった。これ素晴らしい。伊藤智仁のスライダー並。



17話「トワイライト」
絵コンテ:神戸守 演出:河野亜矢子

「あたしと心中しない?」の話数。[有馬母-公正]という構図が、[宮園-有馬]という形に置き換わっている。有馬は、母親の「何も残してあげられない」を踏襲するかのように、「君に何も与えられてない」と宮園に話す。そうして絶望に至る。有馬は一旦再び逃避しようとするんだけど、渡や13話で到達したリフレーミング(考え方の変化)によって、「何かを与えよう」と考え始める。



18話「心重ねる」
絵コンテ・演出:石井俊匡

ナギとの連弾と、宮園へのメッセージ。演奏家、有馬公正の人生はとても残酷と13話で言及したけど、有馬自身もとても一見非情に見える行動をしてる。けど、残酷とか非情だから間違ってるというわけではなくて、自分のピアノを聞かせて、未練をもたらすことこそ宮園にとっては必要なことであり、有馬にとっては与えたいもの。有馬母との記憶が楽しいものだけでは構築されないように、辛いことも多分必要なんだと思う。



19話「さよならヒーロー」
絵コンテ:井端義秀 演出:こさや

相座兄と井川、有馬の三人のライバル回。メインは相座兄。これまで自分が信じてきた、超合金で正確無比の有馬公正は存在していないけど、自分の理想を上回って、より魅力的になった有馬の存在に気付く。そうして、今まで自分を突き動かしてきた、蜃気楼のような超合金有馬に感謝を伝え、別れを告げ、また新たな道を歩み出す。ピアノ演奏を画面に映す際に、真俯瞰からグルーッと周るようなカメラワークが印象的でとてもよかった。(※これはこれまでもあったけど)。ショパンの革命もハマってたね。



以上ざっと14-19話までの感想を。スクショとか画像は後で追加しまう多分 
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04、09話と続いて、13話すごい良かったです。今のところナンバーワン。

13話「愛の悲しみ」
絵コンテ、演出:倉田綾子



<主題の概要>
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一つ目の主題は、有馬親子の悲劇性です。まず、おさらいですが、これまでのエピソードで出てきていたモノクロの有馬母のイメージは、全て有馬公生がピアノを演奏しないための言い訳として作られた「亡霊」であります。本当の母親に関する記憶は、有馬が意図的に心の奥底で封印していました。映像では、この対比をある2点で差別化することにより演出しています。それは、「モノクロかカラーか」という点と、「有馬母の目元が映るかどうか」という点です。つまり、単純には「モノクロ」→「カラー(目無し)」→「カラー(目有り)」という対比構造があると考えています。そして、もう一つの主題は、有馬公正のピアニスト人生の残酷性です。母親の死というものは彼にとって、とても大きなマイナスもあったけど、それを補わんばかりのプラスがある。有馬が成長するためには、もしかしたら失って進む必要があるかもしれない。



<1、有馬の作り出した虚像と、母親の真の姿>

有馬の作り出した虚像は言うまでもなく、ピアノを弾くことから逃げるための口実・建前であり、この虚像によって身体的な「音が聞こえない」状態を発生させていました。これは、多大なストレスを抱えていた子供時代の有馬公生の無意識のうちの防衛反応(※これ以上ピアノでストレスを感じないように)であろうと思います。 

しかし、有馬は宮園と出会い、彼女の破天荒さに惹かれていきます。さらに、藤和音楽コンクールにおいて他のピアニスト、言えば凡人の感情や意識、考え方を認識していき、「舞台に立つのを恐れるのが、自分だけではない」 、「完全な準備など存在しない」ことに気が付きます。これらによって、有馬は自分への言い訳をやめていきます。つまり、ピアノを弾けない理由を「音が聞こえない」ことに転嫁するのをやめ、「音が聞こえないなら、どうしたらいいだろうか」という風にピアノに真っ向から向き合うとするのです。

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(01話、12話より)

物語の最初、有馬の母親に対する虚像(改ざんした記憶)は、このようにモノクロから始まります。前述した通り、有馬は自分の考え方を反芻することをやめ、宮園を筆頭に他人の価値観を知ります。そして、「音楽とはなにか」という根本的・本質的な問いに対して、つまづきながらも答えようとします。

そういった過程で、虚像と実像は有馬の心の中で葛藤を繰り返します。「ピアノを弾きたくない自分」と、「ピアノをもっと演奏したい自分」との間で悩み苦しむのです。こういった部分が顕著に現れていたのが、04話。

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(04話より)

モノクロによって示される無機質でストイックな人という記憶、もう一方ではカラーによって示される優しく温かみのある人という記憶。これは有馬母の両面であり、この2つの記憶によって有馬にとっての母親は完成されます。悲しい思い出を捨て去ることはできません、悲しい一面を捨てると有馬にとっての母親像は(※記憶を意図的に捏造するため)破綻してしまいます。また、「虚像」と「ストイックな母親」というのは同義ではない点に注意してもらいたい。虚像は有馬の作り出した、ピアノを演奏させないための「亡霊」であり、悲しい記憶から出来上がったニセモノです。虚像は存在しませんが、ストイックな母親というのは確かに存在していたのです。


これら3つの像が交錯し示されていたのが、13話(当話数)。

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(13話より)

このように、目元が明確に示されることで、有馬母がより具体的に形どられていきます。有馬に優しく接していた時期の記憶も、病気を発症し、有馬に厳しく接するしか方法が分からなかった時期の記憶も、有馬にとって、母親にとって捨てることなどできない大事な思い出です。自分が亡くなった後、息子は1人でちゃんとやっていけるだろうか、という不安や無力さから厳しく、そして時には度を超えた指導をしてまでも、ピアノの技術を身に染み込ませる。これこそが、タイトルに冠されている「愛の悲しみ」そのものであります。愛あるが故に生じてしまう、子供に対する優しさや温もりとは真反対の言葉や行為。これはまさしく、悲劇です。


また、実像と虚像の対比を「内」「外」で演出している部分も注目するべき点であると考えます。「内」とは、心の中、思い出、記憶の回想描写を指します。これは辛い記憶、楽しい記憶を問いません。どちらもあります。「外」とは、実際の物語世界にまで侵入している描写を指します。ピアノを弾こうとすると側に母親の虚像がつきまとう。いないはずの母親が特等席で鑑賞している。こういった演出は、特に04話、09話で顕著でした。

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(04話より)

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(09話より)

このように映像では、虚像は徹底的に「外」の存在として描かれ、真の姿である実像は(ストイックな部分も含め)「内」の存在として描かれました。これは非常にこだわりを持って演出していた印象です。「有馬の作り物である」ということを強調するために、虚像が有馬の周辺に描写されるのに対し、実像は必ず回想を通して示されました。


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(07話、13話より)

映像では、このように悲しい思い出も、楽しかった思い出もどちらも回想を通して描写されました。また、13話における有馬の「母さんは、いつも近くにいました」というセリフは、内在する母親の真の姿の存在をとてもよく表しています。自分を守るために作った虚像に惑わされ、母親の真の姿は灯台下暗しであったのです。これは、有馬自身がピアノを弾かない言い訳のために、心の中で楽しい思い出を押しつぶし、辛い思い出のみだったと自分自身に言い聞かせたためです。



<2、有馬早希の残したものと、「鬼の通る道」>

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(13話より)

有馬早希は、他界する前に「(息子に)何も残してやれない、ひどい母親」と自責しています。しかし実際には、有馬がそれは違うことを証明している。「出会えた感動がある。出会えた人たちがいる。出会えた想いがある。これは全部、ピアノを教えてくれた母さんが残してくれた思い出(13話)」。再び舞台に立ち、音楽で幸せになった人々による喝采に対する感動、昔のライバルたちとの新たな出会い、宮園を大切にしたいという感情、これら全て「音楽があったから」こそ出来たことであると、有馬は語っています。つまり、有馬早希は息子に「音楽」やピアノの技術以外、何も残してやれなかったと無念さを感じていたけれど、実際には「音楽」という周囲との共通項を持てたことで、有馬は今幸せを感じることができているのです。


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(13話より)

そして、三池くんの存在を考えてみたいと思います。三池くんは藤和音楽コンクールの優勝者であり、このガラ・コンサートのトリでもあります。物語の展開上、示す必要もないキャラクターかもしれない人物を何故トリに配置したのか。前話でもあったように、三池くんは自分のピアノに対し相当のプライドを持っています。そんな三池くんですら、有馬のピアノを聞いて、音が変わってしまう。三池くんもそうですが、井川は相座や多くの人間が、有馬のピアノから多大に影響を受けています。これは、今度は「有馬」自身が周囲の共通項になったということです。有馬という人物のピアノに魅了され、ピアノを始めたり、彼を憧れの存在とみなしたりされているのは今までの話数で示されています。三池くんの登場と彼の変化は、有馬が「音楽」という共通項によって幸せになれたように、今度は「有馬」が共通の存在となって、幸福な影響を与えていることの描写と感じます。


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(13話より)

13話ラストでは、瀬戸さんと落合先生(井川の師) が会話を交わします。そこで、瀬戸さんは表現者の道を歩み出すためには、有馬公正にとって、母親を失うことが必要だったのかもしれないということを推測として提起します。それに対し、落合先生は有馬のピアノに悲しさがつきまとうことから、母親の死が何か彼にもたらしたという可能性があると答えます。そうして、それは「鬼の通る道」と悲しげにつぶやく。


23]09]
(13話より)

瀬戸さんと落合先生の会話セリフは終わりの方になると、OFF(画面に発言しているキャラがいない状態)セリフになって、このシーンに繋がるんですが、これ残酷すぎる。この13話の〆方はタイミングが見事すぎて、本当に切ない。有馬公正という1人の演奏家が成長していくためには、彼にとって最大級の悲しみが必要という残酷性があります。この時点で物語の展開として、「宮園かをりの死」というのは避けられないわけです。回避してしまえば、有馬はピアニストとして成長ができない。成長を選ばないことは、母親を失って得たものが無駄になることを意味する。ああ、「宮園の病気の今後」についてはこれまではっきりしていなかったけど、13話を見た今はもはや不可避であるとしか思えない。矛盾しているようで、実は真理である。なんという逆説的な残酷さだろうか。これは有馬がというよりは、状況的に避けることができない上、それによって演奏家としての水準を上げるのだから、なおさら残酷という他ない。


<参考文献> 
・『四月は君の嘘』5話の演出を語る - OTACRITIC  
小倉陳利さんの演出について - highland's diary
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