カテゴリ: 邦画


ちょいちょい他人のレビューとか感想とか見たので再考するぞよ。旬が過ぎて興味ない人が多いとは思うけど、おれは止まんねえからよ…止まるんじゃねえぞ…まま、たまには珍しいジャンルも語ろうぜ。

というか、語りたくなる時点でなにかがあるのは間違いないんだ。ブログや日記でなにか自分の意見を発信したくなる時点で、程度の差こそあれ、その映像に揺さぶられている。いくら捻くれ逆張り人間ワインディングロードであっても、これは受け止めたほうがいい。そう思い直した。



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<疑問1:劇中劇って最初から、そんなに怖くなかったか?>

1カットで回すのはすぐわかったけれど、最初の方は怖かった。病的なまでの映像への拘泥を見た後に、劇中劇のロケ地である廃墟のうわさ話をナオさんがする。んで、微妙な空気になりますよね。そこに、ドンとドアにぶつかる音が響く。驚く一同。ここはよくあるホラーな展開ではあれど、出来の悪いホラーではなかったはず。間の取り方も含めて。ネットで多く見られたのが、「劇中劇ってすごく出来が悪いホラーよねw」みたいな感じのレビューだったんですが、いやそれは全編見たからそう言えるんやろ?って、それって結果論的じゃね?と思う。


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劇中劇のキモだと僕が思ったのは、これ最後に残るカメラマンどうなるんや…?ってことでした。タイトルからそこに注目してたんで、「血の呪文でオチ」の前に「残ったカメラマンが高いところへと逃げて留まらずを得ない」っていう感じだった。映画内で「ワンカットオブザデッド」を見ている人を逃さねえぞって感じの演出だったと思うんですよ。カメラマン殺されるでもなく、ずっと見つめたままっていうのが、「カメラを止めるな!(止まらなかった)」っていう意味だと思った。




<疑問2:ラストの台本変更いざこざのシーンで、画面に説得力はなかったのか?>


これまた、気取ったバカが評論記事を上げてたんですけど、こんなのは後出しジャンケン。
「番組として無事終わらせて」という要求をしていたライン・プロデューサーが、監督の激昂には応えずに、娘になんで従ったのか、そういう説得力は今ひとつない。だからその辺はばっさり画面にしていない。

まあこれはヒューマン・ドラマなんですよ。親子の確執が出てきた時点でそうなる。だから、画面の説得力よりも、娘が弱気な父親を助ける、という筋にした方がまとまりやすいのかもしれない。

自分が考えた筋を出しても、それは後からどうとでも言えることですよね。いや、言いたいことは分かるんだけどさ、その前に「どうして娘(とPのいざこざ)のカットをいっさい画面にしていないのか?」と考えることが重要だと思います。


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それで、結論から言うと、「娘の場面をいっさい画面にしていない」のではなく、「娘の場面を画面にする必要がない」んです。なぜなら、お父さんがそれらの役割をすべてを担っているから

軽いノリで「(オチを)捨てましょう!」と言っちゃうPに、お父さんは激昂しました。見ている人がいる!と、カメラワークの変更なんてありえないと叫んだ。でも、いつも頼まれてきたのは、「そこそこで、安くて、速いもの」だった。これからの仕事の関係も考えると逆らえないし、自分は本当に良い映像を作ってこなかった。



本当に納得できる良い映像を作ることはできない。奴隷の鎖のような、映像への諦念がそこにはあった。お父さんは頑張ろうとしたけれど、最後の最後で、これまでの安っぽい映像作品を作ってきた自分に諦めろと言われてしまった。理想と現実は違い、また安っぽい映像を妥協して作るしかない。娘にいいところを見せてやろうと張り切ってきたお父さんは、完全に諦めます。叩きつけた台本だけがむなしく残る。



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ここで台本にカメラがいきます。娘はお父さんのことをこれっぽっちも尊敬していなかったはず。軽蔑すらしていただろう、映画人として。こんな安っぽい映像なんか作り、理想を追求しない、情熱が欠けた親父、と思っていた。でも、本当は違った。めちゃくちゃ考えて、なにより、この画が必要だと言い切って台本を叩きつける情熱がお父さんにあった。ここで、娘はお父さんへの認識を改め、おもむろに台本を拾うわけです。「なんとかして助けてあげたい、その画を取る方法はないか」と考える。で、そこには、自分とお父さんの肩車の写真があり、あの発想に至った。


長くなりました。つまりは、「映像に対する理想と妥協」の流れはお父さんがすでにやっていて、むしろ省略した方がテンポは良くなる。娘がPといざこざしても、それは既にお父さんとPでやってるシーンであり、同じシーンの繰り返しになってしまう。そのため、省略しちゃった方がスムーズでテンポはよくなる。これはいつもしているテンポの話と関係しますね。

娘がPを説得できるかとか、ぶっちゃけどうでもいいし重要でもないんですわ。重要なのは、お父さんを救えるかという一点だけなので。娘がいざこざしても意味ないんですよ。同じことの繰り返しで冗長になっちゃう。だから、あの台本変更シーンの娘の場面はいっさいいらない。お父さんを映すだけで十分に、あのあとの娘に説得力を与えるわけです。


これだけのことが分からねえとは、変な論客気取りゴミブログもあったもんだな!!!


ちゃんとした再考記事↓




ようやく見ました。絶賛されているものはハードルを上げてしまう癖があり、けっ大したことはねえじゃねえか。となるんですが、まあこれは割と面白かったです。各所でいろいろな感想やら論評やら書かれていると思うので、ぼくは絶賛された要因と、さほど取り上げられていないであろう部分に絞って取り上げたい。


好評の要因は、「ホラー映画にマッチしている部分が、実はこういう偶然の連続でした」というところに集約されるかと思います。違和感がある部分がほぼすべて伏線として回収された、そこが受けたんだろうなあ。あっ!これ進研ゼミでやったところだ!みたいな。

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廃墟にまつわる噂話をしていると、いきなり奇妙な音が響く。重苦しい雰囲気を打開しようと、助監督役がマオさんに趣味を聞く展開へ。雰囲気を変えようとして失敗しているのが、ホラー映画としては効果的に働いた。カメラが地面に落ちたときもそう。ダッチアングルも相まって、カメラ役が倒れてしまったのか?と身構える。


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要するに、(ホラー映画に)マッチしていた部分の裏側はこんなに苦労していた、こんな偶然があった、というピタゴラスイッチみたいな演出が好評を博したんだろうなあ。受け手側はパズルがはまっていく感覚だと思う。


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親子の確執、ベテランと若手の意見の相違。このへんはちょっとくどかった。中だるみ感は否めず。そんなにやらなくても伝わる伝わる。


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アル中おじさん好きですよ。本番でも失敗しているのがさらに良い。理想どおりに現実はうまくいかないっていうのが全体のテーマなんで、こっちを深掘りしたのはすごく良かった。


ただ、大絶賛されるほどの内容かと言われれば懐疑的にならざるを得ず。現場側と企画側で勧善懲悪の対立構造を作ったのはいいけれど、ラスト以外さほど活かされていないような。「番組として無事終わらせて」という要求をしていたライン・プロデューサーが、監督の激昂には応えずに、娘になんで従ったのか、そういう説得力は今ひとつない。だからその辺はばっさり画面にしていない。


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まあこれはヒューマン・ドラマなんですよ。親子の確執が出てきた時点でそうなる。だから、画面の説得力よりも、娘が弱気な父親を助ける、という筋にした方がまとまりやすいのかもしれない。ただ、このシーンはライン・プロデューサー役と監督役の人の演技が際立っていたので、もったいない。


個人的には、劇中劇のカメラリレーに注目していました。だから、ラストのカメラって誰なんだろうとか考えてたけど、そこは上手くやられたなあと。コメディですから、腰痛おじさんのリタイアは早すぎた。いや、リタイアするのは当然だけど、腰痛で倒れたまんまのおじさんをまったく映さないというのは前半のやり取りが活きない。でも、ラストを踏まえると仕方ないのかな。微妙なところ。


特に気になったとこを箇条書き


・ACつなぎの多さ
>尾藤が書類をバサッと机に置くとことか、必須でもないところで細かく割る
>人を挟んで画面転換していた
・ACつなぎしかり、細かくカットを割るのは性急さや焦りを出すためか
(ブコメでCGの粗を誤魔化すためかもとあったけど確かに)
・この慌ただしいカット割りで思い出したのは、堤のジャンプカット多用 
・ただ庵野の場合ジャンプはさせてない
>ショットとショットの間で省略する時間はほとんどない
>時間を省略するのではなくて、1つで済むカットを何個ものショットに分けているイメージ
>これが気持ちええんじゃ


・レイアウトはほぼ庵野・樋口コンビ、時々摩砂雪 
・庵野は会議室がメインか
>庵野は極端に長い机や不完全なシンメトリー(≠アシンメトリー)の構図を多用する

33]
(エヴァ01話 奥の柱を見るとわかるが完全なシンメトリーではない)

28]31]
(ナディア37話) 

>自衛隊の作戦会議室や原子力監視室はそんな感じの構図が見られた
>閣僚会議でも、両端の人物を変えることで完全なシンメトリーにはしていなかった
>観葉植物を挟んだ構図、冒頭の電話を受けとる時の極端な煽りアングル、この辺は実相寺アングルのリスペクトと言って差し支えないとおもう
(参考:実相寺昭雄のアングル


・樋口は、遠方からのロングショット広角が上手いイメージ 
>今回で言うと、ゴジラを俯瞰から眺めるシーンとか
>ラストでゴジラに相対するヘリPOV(俯瞰)
>代表的なのは、「序」でのラミエル戦や「破」の疾走初号機

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(「エヴァ序」)

27]29]
(「エヴァ破」)


・摩砂雪は、広角の(一点透視)レイアウト
>エヴァで印象的なカットは摩砂雪というイメージ
>例えば「序」のこれとか

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(「エヴァ序」宣伝用ポスター)

・これは庵野ラフだったかも(全集で摩砂雪ラフ・L/Oあったら教えてくれたのむ)
・ラストの新幹線爆弾や、電車のホーム外観は摩砂雪の仕事だとおもう
>新幹線のカットは歪めるほど広角で寄ってた



<エフェクト>
・建物が倒れたり、破片が良かった
・煙は終始薄くダブラシっぽく
・破片は特にガラス!ガラスが割れるシーンは、相当CGに気を使ったとおもう
・ゴジラが初めて炎を噴射した後の、東京を覆う爆発や炎も凄かった
・あれってやっぱCGなんかな


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映画『シン・ゴジラ』公式サイト http://www.shin-godzilla.jp/index.html

以下、ネタバレを含みますので未見の方は注意(※スマホではトップに記事の文章が出てしまうので、この辺で少しネタバレ防止用の文章を作っときます。読まないで大丈夫です、スルーしてください。後、レイアウトやカット割り、映像方面については、別記事で言及します)







-ゴジラの恐怖は「進化」にあり-

ゴジラは最初小さい姿で上陸します。小さいヤツだったから、なんだこいつ弱そうってなったんですが、これがそもそもの罠。小さいヤツって「ジュラシックパーク」とかもそうですけど、どうしても観客は舐めてしまう。何だ弱そうだなと思っていたら、一瞬の内に何匹も現れるとか、でっかいティラノサウルスが現れるとか、そういう心の隙を付く。ハッと理解をした時には、目の前にデカイやつがいて恐怖でいっぱいになっている。

「シン・ゴジラ」では、まさしく「進化」がそれだった。油断をつくる最初のチビ。そもそも、予告編に出てたゴジラなんて全部デカイから、もう予告の時点から脳みそは操られていて、僕らの脳みそは勝手に、「最初から全長118.5Mのデカイやつが現れる」と決め込んでしまっていた。それが、実際はチビなんだから、油断してしまったわけです。



-愚かだったのは政治家だけか?-

前半部分は、主に縦割り行政に混乱する官僚や政治家を風刺します。それは、主人公が情報収集を依頼した後に、口を揃えて「どこの役所に言ったんだ?」と言ったセリフにも現れている通りです。「巨大不明生物などあり得ない」「生き物なら倒せるだろう」などと政治家は表面で判断してしまいます。ここで、観客は彼らの愚かさを滑稽に感じ嘲笑するわけですが、人間というのは馬鹿な生き物で、まるで自分のこととは思いません。

僕ら観客もこの滑稽な日本人の一員です。なぜ観客も滑稽なのか。それは、観客も「表面で」判断してしまった部分があるからです。そう、平泉成演じる里見臨時首相が就任した時に、観客の多くはこの男を「無能」と判断したはずです。前例がない危機的状況にもかかわらず、のんきにラーメンを食べる。官僚や政治家の早口とは対照的に、ゆったりとのんびり喋る。このような部分を見て、この男には誰一人期待をしていなかったはず。

しかし、核兵器が使用されるのを引き伸ばすよう外交努力をしてくれたのは、里見首相でした。結果的に、核兵器は使用されず、「ヤシオリ作戦」成功の一因となりました。さらに、ゴジラ対処後の国家構造の改革も視野に入れており、首相を引責辞任をします。彼は優秀な人間だったのです。

その姿見と表面的な行動から、観客は、里見首相に「無能」という判を押しました。それは、ゴジラのおどろおどろしい姿を見ても、「しょせん生き物だから武器で倒せる」と息巻いた政治家と何ら変わりません。「表面で」判断する愚かな人間という意味で、同じなのです。ですから、縦割りに戸惑う政治家だけが滑稽なのではなく、里見首相への浅はかな判断を下した観客も含めて、表面で判断してしまう日本への姿勢、その愚かさが滑稽であり、現代日本への風刺になっている。



-科学的な厳密さは必要ではない-

さて、ラストのゴジラを倒すシーンを中心に、科学的な厳密さに対する批判を散見しました。しかし、それは明らかな間違いです。まず、ヤシオリ作戦のシーンでは「血液凝固剤」の中身がどうのこうの、ゴジラとの反応がどうのこうのは、まったく重要ではありません。重要なのは、「血液凝固剤を使って」戦うことです。

ゴジラを倒すための血液凝固剤を作るには、牧元教授が残した複雑なデータを解析する必要がありました。巨災対のメンバーは寝る間を惜しんで、矢口プランを完成させようとします。綿密な情報収集を行い、ついに牧元教授の残したデータを解読し、血液凝固剤を完成させます。

彼らは、しぶとく熟慮し答えを導き出しました。正解を出せるかどうか分からない中、諦めずに考えました。これが重要。すなわち、矢口プランは「不退転」を示しています。対して、国連決議が下った核爆弾投下は、思考のかけらも、諦めない心もありません。自分たちが持つ最大火力、「核爆弾を使えば解決するだろう」というのは、第二次世界大戦の歴史を見ても分かるとおり人間の愚かな選択です。欧州米は早々に対処を諦め、人間の最終兵器に頼ってしまった。すなわち、シンゴジラにおける核爆弾は「諦念」を表しています。

名前を変えたヤシオリ作戦においても、矢口プランの持つ意味は変わりません。綿密に立てた作戦を信じ全員で取り組むことで、「(どんな災害や化物がきても)決して諦めないぞ」という意思表示をしています。これは、今作において、最も大きく、最も大切なテーマです。科学的な厳密さに対する批判は、手塚治虫に「ブラックジャックの内容は医学的に間違っている」という手紙を送った医大生と同じと思います。



-リアルな死の描き方-

ヤシオリ作戦では、リアルな死が描かれました。自分はここで一番ショックを受けました。第一小隊は、ゴジラに血液凝固剤を投与している中、目覚めたゴジラの熱線によって一瞬で消滅します。

消滅するときの描写は、遠方から映すのみです。叫び声を入れることもなければ、カメラが現場に寄りもしない。にも関わらず、これがめっぽうリアルです。リアルになっているのは、音も描写もなく、想像力にお任せしているからです。具体的な一つ画面を描いてしまえば、それ以上の感情は湧きませんが、想像力は無限です。この手法を庵野監督はよく使うのですが、そのおかげで今回はより静かで生々しい死が描写されていました。



-完全生物と不完全生物の構図-

ゴジラは完全生物、究極の生命体として描かれます。人間の8倍の遺伝子情報をもち、アメーバみたいに自己分裂も可能な、死をも乗り越えた究極の存在です。対して、人間は前述のとおり愚かな判断や選択、行動を繰り返す、不完全な生命体です。このような「完全-不完全」の対比構造は度々見られました。

この対比構造は、「核兵器」と「ヤシオリ作戦」の構図と同じです。核兵器は反応さえ起これば、後は自動的に爆発します。つまり、人為的なミスが起こる可能性が極めて低い。一方、ヤシオリ作戦は一人一人の行動によって、成功するかどうかが大きく変わってくる作戦内容です。実際、第一小隊は目覚めたゴジラによって消滅してしまいました。控えていた第二・第三小隊がやられていたらと考えるとキリがなく、リスクは高すぎると言わざるを得ない。

そんなリスクも高く不完全なヤシオリ作戦を実行した矢口は、日本人の可能性、ひいては不完全な生命体が持つ可能性を信じたかったからです。そういう観点から、人間の可能性は完全生物をも倒しうるということを庵野は表現したかった。繰り返しになりますが、「巨大不明生物なんてありえない」と決め付けたが故に初動が遅れ、ギリギリまで外交努力に尽力した臨時首相を国民はその姿見で嘲笑い、無能な人物とレッテルを貼った。

そんな長年続いていたであろう、行き詰った国に牧元教授は絶望して、ゴジラへと姿を変えました。愚かな選択を繰り返すぐらいなら、誤りのない完璧な生物へと進化をした方がいい。牧の「私は好きにした。君らも好きにしろ」というのは、人間の可能性に対する選択と自分は解釈しました。牧元教授が不完全な生命体への希望を捨てたのと対象的に、矢口以下巨災対は最後まで人間の可能性を信じて作戦を指揮します。完全なものへ抵抗することにより「不完全なものに対する希望」、そういったものを庵野監督は描こうとしているのではないか、そう思いました。以上です。


レイトで見てきたぞ
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感想(ネタバレ避けつつ)

[レイアウト]
レイアウトだけで語れるっていうのは嘘じゃないくらいバシバシ決まってた。素晴らしい。レイアウトに関しては、最初からクライマックス。タイヤなめてのとことか好き。あと、カット割りのテンポめっちゃいい。ジェットコースターみたい。

[CG]
ちょっとアレだな~と思ったビークルは何個かあったけど、気にならない。ゴジラと自衛隊関係はすごい良かった。破片・エフェクトは、ずば抜けてよく出来てた。

[お話]
(中略)は2回だろ!おい庵野!
ノンフィクション以上にリアルに感じた。恐ろしい。二度と見たくないと思うくらいヤバイ。

[音楽]
あの音楽があそこで流れて、当時の記憶を思い出しました。庵野ファンは大喜びすると思う。


なんか語彙力ないから抽象的になってるけど、大体こんな感じ。すごい面白かったし楽しめた。ただ、精神はごっそり削れたなあ。あれで心抉られない人は精神強いわ。個人的には、2回も3回も何度も見て楽しむ映画ではないと思う。1回見て、心が締め付けられて終わる感じ。(ゴジラ映画ってそういうものかもしれないけれど)。二度は見れないかなあ後半は特に。



パンフ買えなかったから、もう一度見に行くと思います。 

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