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さむくてエモい時期です

カテゴリ:2014年 アニメ > 四月は君の嘘

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22話「春風」
絵コンテ:イシグロキョウヘイ 演出:イシグロキョウヘイ、黒木美幸

さて、昨年10月から見てきた、「四月は君の嘘」も最終話を迎えた。最終話と冠しているが、実質的には20話から21話も含んだ感想と思ってもらえればいい。この3話はとても連結していて、切り離すのも難しい。感動を言葉で分析するのは、やや無粋な気もするが、やはり感想は残しておきたい。



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集中治療室に宮園が運び込まれるのを見てから、有馬は練習を中断する。中断せざるをえない精神状態になり、ついには何もしなくなる。この構図は、小学生時代の有馬親子と重なる。ピアノを弾かなくなった根本は自分がピアノを弾けば弾くほど、母親の病態は悪くなり、結果死に至ってしまったからだ。ここに因果関係など当然ないが、この記憶から有馬の思考は、「自分がピアノを弾くと不幸を招いてしまう」という風に発展してしまう。これを1話から黒猫というモチーフを使い表している。


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黒猫は不幸の象徴であるが、迷信にしかすぎない。合理的な根拠などなく、人々が様々な厄災を押し付けるために意味づけられているだけである。黒猫は有馬の分身であり、彼の考えを鏡のように映し込む。例えば、宮園と話していて楽しい時は、黒猫が懐いてくる。宮園が死ぬかもしれないという疑心は、車に轢かれる黒猫という描写で具体化される。そうして、血で汚れた手は、自分が音楽をしたことによって、宮園を死に追いやってしまったのではないかと思う有馬の心情表現であると感じた。


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宮園との永遠の別れという危惧も、この手紙によって何とか回避され、有馬は病院へと向かう。ここでは綺麗なマッチカットでシーンが繋がれているのもまた見所であった。


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当然はあるが、一枚目のハトと、二枚目のハトは違う群れである。時間という大きな壁を乗り越え、同じような物体で画面をつなぐ。彼らには、病院に向かう時間すら惜しいのだ。そんな時間すらもったいないと思うからこそ、学校から病室への直接的なマッチカットになる。


52]01]
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屋上での宮園との最後の会話。とても不安定で、くじけそうになり、「1人にしないで」とすがる宮園かをりこそが、本当の宮園かをりである。普段は、それに抗い破天荒さを演じる。憧れである有馬公正の前で素でいられたのは、おそらく藤和音楽コンクールへの出場を願った、02話とこのシーンだけであり、これまた屋上でのシーンであることは印象深い。天国に近くなると、死というものを思い出さずにはいられないのだろうか。そうして東日本ピアノコンクールが開始する。


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「弾かなきゃ」と何度も暗示し、最後には表現者なのだからと自分を説得する。そうして映される刺々しい血まみれの手。表現者たりうる自分のピアノは、それに出会った人を結果的に不幸にしてしまう。人々に影響を与える素晴らしい表現者であることによって、皮肉ながらも大切な人を殺してしまうという残酷な性質をここで描写していると感じられる。有馬は、ここでもまだ怖がっている。ピアノを弾けば、宮園は死んでしまうのでないのかと。自分が弾かなければ、助かるのではないのかと、そういう風に思っている。


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しかし、その迷いを断ち切る。それは、宮園以外にも自分を支えてくれている人の存在を思い出したから。渡も椿も、瀬戸さんも、井川も相座兄妹も、有馬を豊かにし音をくれたのだ。そうであるならば、演奏によって彼らに答えなければならない。それが演奏家の宿命であり、人生である。演奏家としてピアニストとして生きていくためには、仮にこれで宮園が死を迎えたとしても、決して厭わない。つまり、「ピアニスト有馬公正」とは血にまみれた鬼の道を通らねばならないのだ。ピアノを弾くことで、果ては自らが不幸になったとしても、ピアノによって自分を表現し続けるほかないのだ。有馬が自分のことを「口下手」と語るように、井川が「言いたいことは演奏に全て込めた」と独白したように、彼らには自分の気持ちを伝える手段が、言葉ではなくピアノにあるのだ。


37]43]

さんさんと輝く、舞台の上。撮影でキラキラにさせている。このように華やかな舞台に立てる、演奏家という人種の裏には、さきほど見た残酷性があり、それを浮き彫りにするかのようにとてもきらびやかな舞台を強調している。


22]28]

「届け…届け…」と宮園への想いとピアノへの没入が高まっていき、鏡面が美しい自分だけの世界へと沈み込んでいく。ここは有馬の心情風景。有馬の思いの場所。美しいドレスをまとった宮園がそこには存在して、協奏する。ここで宮園が登場するまでも、またマッチカットで繋がれている。


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屋上での最後の会話の後、階段を降りて「ありがとう」と宮園がつぶやくシーンから一転、耳を媒介として有馬の心情風景へとつなぐ。晴れているのに、雪がしんしんと降り注いでいる。これは「風花」という現象であり、これが終わりに宮園のイメージが崩壊していく描写の下地となっているかもしれない。


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協奏シーンでは、宮園のヴァイオリンの弦に対して入る透過光が画面にアクセントを加えている。きらびやかな宮園のイメージを象徴するかのように、踊る弦にきらきらが入る。80年代ではよく、「涙」の描写に透過光が多く使われた。そういった点では、有馬の心情を代弁しているかのようにも感じられる。


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音楽の高まりに合わせ、前期OPバンクが使われる。これは、良かった。そして、宮園の死を示唆するように、イメージは桜の花びらとなって散っていく。「四月は君の嘘」とは、とてもいいタイトルだ。そうして演奏は終焉。「宮園の死」や、「コンクールの結果」など分かりきったものはどうでもいい。結果ではなく、そこに至るまでの過程が重要であり、映すべきシーンなのだ。そんな結果は、『タッチ』で甲子園優勝するかどうかぐらいどうでもいい。



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Bパートではお墓参りから始まる。そうして、ここからが特に素晴らしかった。有馬は手紙を受け取り、まるで宮園の軌跡を辿るかのように、マッチカットやバンクでシーンを紡いでいく。


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同レイアウトによる演出。全く同じレイアウトでも、そこを過ごした人、過ごした時期によって全く異なる意味を持つ。季節は縦横無尽に移動し、時間も現在と宮園の過去を往復する。この「同じ事柄(風景、演奏、人間)から、違った解釈や想いを生む」ことこそが、「四月は君の嘘」という物語の本質であるように思う。有馬のピアノにしても同じピアニスト同士で感じ方や憧れとなる部分は違うし、椿という1人の人間に対する思いも、有馬と宮園の間では大きな差がある。


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00]07]

同様の演出。上は、01話の宮園と同じ道を通っているのを映し、下では幼少期の頃の宮園との対比となっている。


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これも01話の宮園と同じ道を辿っている描写。ここでは、マッチカットでカットをつないでいるんだけど、これが素晴らしく滑らかで美しかった。


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同レイアウトによる演出。手紙における、宮園との対話。宮園は亡くなってしまったが、有馬の心の中にはずっと住んでいる。「君の中にいる」という、有馬と宮園が望んだものが最後に果たされている。人の心の中に、イメージとして残っているのだ。一番大切と思っていた、有馬の中に生きている。


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あともう一つ。以前、「宮園かをりの死」とは物語として決定されていると言ったが、これはナギに言わせれば陳腐だろう。物語の本質は、死という結果そのものではなく、そこに至る過程に存在している。つまり、彼女が「死ぬこと」ではなく、彼女が「どう生き、最期を迎えるか」が大事なのだ。「みっともなくあがく」という主旨の言葉を、作品序盤から宮園はよく使った。これは彼女を表す象徴的な言葉でもあり、抗いこそが彼女の全てであったと言っても過言ではない。抗うがために、つきまとう病気や死の不安はそのままに、怖かったコンタクトレンズを使い、ホールケーキを食べ、譜面に逆らう。おとなしい性格を隠し、嘘の恋人を作り、勝手気ままな女の子を演じる。「真摯に生きる」ということは、『風立ちぬ(劇場/2013)』でもあったように、何かしらに抵抗するということなのだ。 

「四月は君の嘘」というタイトルは色々な取り方がある。例えば、有馬が終盤まで引きずっていた「宮園は渡のことが好き」という嘘であるという見方。嘘をきっかけに、宮園が人生の最後を謳歌し、有馬はそれに呼応する形で人生を歩みだした、という解釈。個人的には、違った解釈を次に述べたい。宮園が四月に現れ、そうしてスッと消えていった、幻や夢のようだという解釈である。宮園と出会い、そうして別れていった記憶の全てこそが、宮園が見せた「嘘」であり、有馬にとってはかけがえのないものとなった。春がくるたびに、思い出がまるで幻に感じられるくらい、刹那的な出会いと別れであった、つまり「嘘」である、という事だ。「君と過ごした時間」という事実は確固としてあるのに、なぜか輪郭がぼやけていて、曖昧な感じがする、そんな印象を「四月は君の嘘」というタイトルに反映させているように思えた。


さて、これにて四月は君の嘘22話の感想をおしまいにしたいと思う。お疲れさまでした。全話を通して作画、撮影のクオリティは高過ぎるほどに高く、そして演出もビシッと決まっている回が多かった。特に04、09、13、17、18、20~22話は積極的な演出が数多く見られ、個人的にはとても満足だった。

強いて良くなかった点を挙げるとするならば、柏木さんがブスでなく、死んだ目をしていなかったことぐらいだ。

俺にも時間がない。すんごい簡素にまとめる。


14話「足跡」
絵コンテ・演出:柴山智隆

逃避を続けてきた、椿が向き合う話数。ちょっとダイレクトな演出、モノローグの処理があって、中々没入できなかった。もうちょっとざっくばらんでいい。この話数の有馬は、やけに色っぽい作画なんだけど、これは多分、椿から見た有馬の感じを出しているんだろうな、そう思う。有馬の着てるベストもいい味出してる。



15話「うそつき」
絵コンテ:神戸守 演出:矢嶋武

椿の引きずりと宮園の病気描写回。椿はやっとこさ前の話数で気づいたわけだけど、なかなか素直になれない。でも逃避することは辞めたので、彼女は同じ土俵に立てた。サンキュー柏木。宮園の病気、自分の足が動かない部分の直接的な絶望・自棄の描写、これは素晴らしかった。もっと踏み込んでも演出してもいいと思う(例えば、エゴな部分を画面で出す)けど、大分出していたので良かったと思う。それから、バンクが増えてきてええ感じです。



16話「似たもの同士」
絵コンテ・演出:黒木美幸

相座妹、ナギとの出会い。なぜ弟子を認めたかについては、瀬戸さん曰く、「悲しさではないものを公正にもたらしてくれると思ったから」と。正直ナギは何を有馬にもたらしたか分かってない。有馬が教えるところに意味があるのだろうか。後、Bパートのギャグ演出はキレッキレだった。これ素晴らしい。伊藤智仁のスライダー並。



17話「トワイライト」
絵コンテ:神戸守 演出:河野亜矢子

「あたしと心中しない?」の話数。[有馬母-公正]という構図が、[宮園-有馬]という形に置き換わっている。有馬は、母親の「何も残してあげられない」を踏襲するかのように、「君に何も与えられてない」と宮園に話す。そうして絶望に至る。有馬は一旦再び逃避しようとするんだけど、渡や13話で到達したリフレーミング(考え方の変化)によって、「何かを与えよう」と考え始める。



18話「心重ねる」
絵コンテ・演出:石井俊匡

ナギとの連弾と、宮園へのメッセージ。演奏家、有馬公正の人生はとても残酷と13話で言及したけど、有馬自身もとても一見非情に見える行動をしてる。けど、残酷とか非情だから間違ってるというわけではなくて、自分のピアノを聞かせて、未練をもたらすことこそ宮園にとっては必要なことであり、有馬にとっては与えたいもの。有馬母との記憶が楽しいものだけでは構築されないように、辛いことも多分必要なんだと思う。



19話「さよならヒーロー」
絵コンテ:井端義秀 演出:こさや

相座兄と井川、有馬の三人のライバル回。メインは相座兄。これまで自分が信じてきた、超合金で正確無比の有馬公正は存在していないけど、自分の理想を上回って、より魅力的になった有馬の存在に気付く。そうして、今まで自分を突き動かしてきた、蜃気楼のような超合金有馬に感謝を伝え、別れを告げ、また新たな道を歩み出す。ピアノ演奏を画面に映す際に、真俯瞰からグルーッと周るようなカメラワークが印象的でとてもよかった。(※これはこれまでもあったけど)。ショパンの革命もハマってたね。



以上ざっと14-19話までの感想を。スクショとか画像は後で追加しまう多分 

04、09話と続いて、13話すごい良かったです。今のところナンバーワン。

13話「愛の悲しみ」
絵コンテ、演出:倉田綾子



<主題の概要>
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一つ目の主題は、有馬親子の悲劇性です。まず、おさらいですが、これまでのエピソードで出てきていたモノクロの有馬母のイメージは、全て有馬公生がピアノを演奏しないための言い訳として作られた「亡霊」であります。本当の母親に関する記憶は、有馬が意図的に心の奥底で封印していました。映像では、この対比をある2点で差別化することにより演出しています。それは、「モノクロかカラーか」という点と、「有馬母の目元が映るかどうか」という点です。つまり、単純には「モノクロ」→「カラー(目無し)」→「カラー(目有り)」という対比構造があると考えています。そして、もう一つの主題は、有馬公正のピアニスト人生の残酷性です。母親の死というものは彼にとって、とても大きなマイナスもあったけど、それを補わんばかりのプラスがある。有馬が成長するためには、もしかしたら失って進む必要があるかもしれない。



<1、有馬の作り出した虚像と、母親の真の姿>

有馬の作り出した虚像は言うまでもなく、ピアノを弾くことから逃げるための口実・建前であり、この虚像によって身体的な「音が聞こえない」状態を発生させていました。これは、多大なストレスを抱えていた子供時代の有馬公生の無意識のうちの防衛反応(※これ以上ピアノでストレスを感じないように)であろうと思います。 

しかし、有馬は宮園と出会い、彼女の破天荒さに惹かれていきます。さらに、藤和音楽コンクールにおいて他のピアニスト、言えば凡人の感情や意識、考え方を認識していき、「舞台に立つのを恐れるのが、自分だけではない」 、「完全な準備など存在しない」ことに気が付きます。これらによって、有馬は自分への言い訳をやめていきます。つまり、ピアノを弾けない理由を「音が聞こえない」ことに転嫁するのをやめ、「音が聞こえないなら、どうしたらいいだろうか」という風にピアノに真っ向から向き合うとするのです。

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(01話、12話より)

物語の最初、有馬の母親に対する虚像(改ざんした記憶)は、このようにモノクロから始まります。前述した通り、有馬は自分の考え方を反芻することをやめ、宮園を筆頭に他人の価値観を知ります。そして、「音楽とはなにか」という根本的・本質的な問いに対して、つまづきながらも答えようとします。

そういった過程で、虚像と実像は有馬の心の中で葛藤を繰り返します。「ピアノを弾きたくない自分」と、「ピアノをもっと演奏したい自分」との間で悩み苦しむのです。こういった部分が顕著に現れていたのが、04話。

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(04話より)

モノクロによって示される無機質でストイックな人という記憶、もう一方ではカラーによって示される優しく温かみのある人という記憶。これは有馬母の両面であり、この2つの記憶によって有馬にとっての母親は完成されます。悲しい思い出を捨て去ることはできません、悲しい一面を捨てると有馬にとっての母親像は(※記憶を意図的に捏造するため)破綻してしまいます。また、「虚像」と「ストイックな母親」というのは同義ではない点に注意してもらいたい。虚像は有馬の作り出した、ピアノを演奏させないための「亡霊」であり、悲しい記憶から出来上がったニセモノです。虚像は存在しませんが、ストイックな母親というのは確かに存在していたのです。


これら3つの像が交錯し示されていたのが、13話(当話数)。

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(13話より)

このように、目元が明確に示されることで、有馬母がより具体的に形どられていきます。有馬に優しく接していた時期の記憶も、病気を発症し、有馬に厳しく接するしか方法が分からなかった時期の記憶も、有馬にとって、母親にとって捨てることなどできない大事な思い出です。自分が亡くなった後、息子は1人でちゃんとやっていけるだろうか、という不安や無力さから厳しく、そして時には度を超えた指導をしてまでも、ピアノの技術を身に染み込ませる。これこそが、タイトルに冠されている「愛の悲しみ」そのものであります。愛あるが故に生じてしまう、子供に対する優しさや温もりとは真反対の言葉や行為。これはまさしく、悲劇です。


また、実像と虚像の対比を「内」「外」で演出している部分も注目するべき点であると考えます。「内」とは、心の中、思い出、記憶の回想描写を指します。これは辛い記憶、楽しい記憶を問いません。どちらもあります。「外」とは、実際の物語世界にまで侵入している描写を指します。ピアノを弾こうとすると側に母親の虚像がつきまとう。いないはずの母親が特等席で鑑賞している。こういった演出は、特に04話、09話で顕著でした。

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(04話より)

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(09話より)

このように映像では、虚像は徹底的に「外」の存在として描かれ、真の姿である実像は(ストイックな部分も含め)「内」の存在として描かれました。これは非常にこだわりを持って演出していた印象です。「有馬の作り物である」ということを強調するために、虚像が有馬の周辺に描写されるのに対し、実像は必ず回想を通して示されました。


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(07話、13話より)

映像では、このように悲しい思い出も、楽しかった思い出もどちらも回想を通して描写されました。また、13話における有馬の「母さんは、いつも近くにいました」というセリフは、内在する母親の真の姿の存在をとてもよく表しています。自分を守るために作った虚像に惑わされ、母親の真の姿は灯台下暗しであったのです。これは、有馬自身がピアノを弾かない言い訳のために、心の中で楽しい思い出を押しつぶし、辛い思い出のみだったと自分自身に言い聞かせたためです。



<2、有馬早希の残したものと、「鬼の通る道」>

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25]02]
(13話より)

有馬早希は、他界する前に「(息子に)何も残してやれない、ひどい母親」と自責しています。しかし実際には、有馬がそれは違うことを証明している。「出会えた感動がある。出会えた人たちがいる。出会えた想いがある。これは全部、ピアノを教えてくれた母さんが残してくれた思い出(13話)」。再び舞台に立ち、音楽で幸せになった人々による喝采に対する感動、昔のライバルたちとの新たな出会い、宮園を大切にしたいという感情、これら全て「音楽があったから」こそ出来たことであると、有馬は語っています。つまり、有馬早希は息子に「音楽」やピアノの技術以外、何も残してやれなかったと無念さを感じていたけれど、実際には「音楽」という周囲との共通項を持てたことで、有馬は今幸せを感じることができているのです。


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(13話より)

そして、三池くんの存在を考えてみたいと思います。三池くんは藤和音楽コンクールの優勝者であり、このガラ・コンサートのトリでもあります。物語の展開上、示す必要もないキャラクターかもしれない人物を何故トリに配置したのか。前話でもあったように、三池くんは自分のピアノに対し相当のプライドを持っています。そんな三池くんですら、有馬のピアノを聞いて、音が変わってしまう。三池くんもそうですが、井川は相座や多くの人間が、有馬のピアノから多大に影響を受けています。これは、今度は「有馬」自身が周囲の共通項になったということです。有馬という人物のピアノに魅了され、ピアノを始めたり、彼を憧れの存在とみなしたりされているのは今までの話数で示されています。三池くんの登場と彼の変化は、有馬が「音楽」という共通項によって幸せになれたように、今度は「有馬」が共通の存在となって、幸福な影響を与えていることの描写と感じます。


02]04]
(13話より)

13話ラストでは、瀬戸さんと落合先生(井川の師) が会話を交わします。そこで、瀬戸さんは表現者の道を歩み出すためには、有馬公正にとって、母親を失うことが必要だったのかもしれないということを推測として提起します。それに対し、落合先生は有馬のピアノに悲しさがつきまとうことから、母親の死が何か彼にもたらしたという可能性があると答えます。そうして、それは「鬼の通る道」と悲しげにつぶやく。


23]09]
(13話より)

瀬戸さんと落合先生の会話セリフは終わりの方になると、OFF(画面に発言しているキャラがいない状態)セリフになって、このシーンに繋がるんですが、これ残酷すぎる。この13話の〆方はタイミングが見事すぎて、本当に切ない。有馬公正という1人の演奏家が成長していくためには、彼にとって最大級の悲しみが必要という残酷性があります。この時点で物語の展開として、「宮園かをりの死」というのは避けられないわけです。回避してしまえば、有馬はピアニストとして成長ができない。成長を選ばないことは、母親を失って得たものが無駄になることを意味する。ああ、「宮園の病気の今後」についてはこれまではっきりしていなかったけど、13話を見た今はもはや不可避であるとしか思えない。矛盾しているようで、実は真理である。なんという逆説的な残酷さだろうか。これは有馬がというよりは、状況的に避けることができない上、それによって演奏家としての水準を上げるのだから、なおさら残酷という他ない。


<参考文献> 
・『四月は君の嘘』5話の演出を語る - OTACRITIC  
小倉陳利さんの演出について - highland's diary

12話「トゥインクル・リトルスター」
絵コンテ:神戸守
演出:福島利規


アバン:クライスラーの「愛の悲しみ」について

A:イマイチ
・ピアノと母親
・今とこれから

B:良かった
・プールでの溺れかけ
・三池くんかわいそう



脚本・構成・演出・作画

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さて毎報コンクールの余韻も終わりに近づき、ガラ・コンサートへの練習が始まる。宮園が選んだのは、「愛の悲しみ」で有馬は何度も拒否をする。有馬にとっては、母親との思い出深すぎる曲であるため、露骨に嫌がる。毎報コンでは、宮園かをり1人のために弾いたが、小学生時代には母親のために弾いていたので、構造的には変わってないことが分かる。「誰かのため」という依存性がなければ、彼は今ピアノが弾けぬのだ。



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38]41]

「この曲は母さんの匂いがしすぎるんだよ」というセリフに至るまでの描写。ここはあまり良くなかった。音声1つとっても映像に与える影響は大きく、(音声が)あまりにくどすぎるために、なかなか有馬に同情・同化できない。つまり、第三者の想像力が入り込む隙間を排除してしまっている。「お前なんか死んじゃえばいいんだ」という1シーンを無音声にすることで、想像は少しばかりでも広がるのになあと。



53]56]
59]01]

日常における「祭り」と、ガラコンへ向けての「ピアノ」というのは、関連性が全くなく、それゆえに水と油のように、有馬の日常にピアノが強調される。これは舞台装置として非常に効果的で上手い。コンクールや学校を描くだけでは、彼らの日常、生活、世界観を読み取ることが難しいし、何よりもピアノ自体も印象的でなくなってしまう。しかし、全く関係のない場所でピアノというものを描くことにより、コンクールのときよりも格段にピアノの話に注目ができる。



10]12]

2枚目。ここは引きの画ではなく、寄りの画ではないのかと考えてしまった。寄れば当然、彼らだけの世界になるし、星空も輝くと思うのだけど。引いたのは、おそらく星空を見せるためなんだろうけど、それならばアングル自体はもっとアオリの方がいいような。



17]

このシーンでは、音楽とデフォルメどっちもカレカノ意識を感じた。が、BGMぶつ切りは何となくもったいない気がする。シーン全体にデフォルメをかければいいのではないかなあ。



さて一転。Bパートは非常に良かったので、追いかけて見ていく。

28]

そうそう、柏木さんはこのぐらいブスがちょうどいいです。もっとブスでもいい。説教っていうのはね、ブスがしないと意味ないんですよ。現実世界にいそうな女の子って大抵そうでしょ(ひどいこと言ってる)。少なくとも想像上の世界では、嫌な役回りの子っていうのは姿見も相対的に悪くならないと、何か筋が通らないんですよ。あいつイケメンなのに、偉そうに講釈たれてるぜみたいな。もちろんそれが魅力の場合もあるんだけど、基本的にはバランスを取るというか。



41]

このレイアウトはすごく興味がある。今から記すことは全て推測なんだけど、ここでの主役は宮園と渡、傍観者は有馬と柏木、そして椿の役割はおそらく、「逃避」だと思う。前述のとおり、柏木さんはすごく客観視するキャラクターであって、有馬も現実を素直に受け止める努力をしてる。だけど、椿だけは未だに有馬が宮園に惹かれていることを認めたくないという感じで、逃避してしまっているような印象を受けた。



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07]

プールに飛び込んでからの、「音に束縛されない」シーンの描き方は見事の一言。水中に祭りでの描写をオーバラップさせることで、有馬の思考が重層している感じを出している。溺れていることから、ピアノの音が聞こえないことをショック的に想い出し、そこから祭りでの会話を想い出し、そして水中で演奏しようとする(音が鳴らないピアノを弾こうとする)。この一連の流れは素晴らしかった。


今回は以上です。

10話 「君といた景色」
コンテ:中村章子
演出:原田孝宏



脚本・構成・演出

04]28]
33]39]

正直なところを言うと、今回はさほど良い演出ではなかったと思う。有馬のピアノに対するもがき苦しみ、そこからの脱出とピアノに対する思考の転換。これが、この毎報コンクールにおいて最も重要な要素であると思うんだけど、そこが上手く出ていなかった。つまるところ、「宮園のために弾く」という思考に至るまでをもっと事細かく刻むべきだった。これでは足りない。宮園との思い出をたくさん出すべきであり、そのことで映像の7割が構成されてもいい。それぐらい、「独占的で・自分勝手な演奏」を演出しなければ、有馬の思考の転換は描写ができない。


後、細かいことを言っていく。

45]46]

こういったみんなの個性の演出をもう少し何とかして欲しかった。09話と同じであり、無味に感じる。個人的な要望を言えば、バンクを上手く使うべきだと思った。


44]

有馬が「ありがとう」を重ねるシークエンス。宮園に対する感情、何を考えても浮かぶのは宮園であるならば、これまた同じく、バンクで回想を紡ぐべきだった。もっと短くフラッシュカットに近い形で。後は、「アゲイン!」のセリフは必要では無かったと思う。あれは蛇足。音にしなくても分かるし、想像させて欲しかった。


10話に関してボロクソに言ってますが、あまり良くない演出だけかと言ったら、そうではなく当然良い点もあった。

42]07]

例えば、この時間の演出。これは素晴らしい。たったこれだけの短い時間、瞬間的な時間にあるにも関わらず、観客、視聴者にとっては、とても長く時間を感じる。それだけ、有馬の演奏が濃密であったことがとても伝わってくる。


12]07]

後は、同じレイアウトでの撮影効果による変化の入れ方。これも良かった。同じ絵だけども、全く違う意味を持たせている。前者は、コンサートでの暗い描写であり、後者は練習中の描写。この対比は良かった。


57]

10話に関しては僕は否定的なんだけど、この一枚のカットで全てを許容できてしまう気もする。有馬のイメージ、有馬の一途な思いがコンサートホールを包んでいく、この桜が舞うレイアウト。これは本当に素晴らしい。ここだけは、絶賛してしまう。すごい。


もの凄くハードルの高いことを要求してると思う。原作既読のせいもあって、ここはこうあるべきという確固たる思いが芽生えている。演奏を止めるシーンの有馬の無力感や、再び演奏を始める時の有馬の思考を上手く演出するのは難しいことだろうけど、2014-15を代表するような作品になりうるのだから、頑張って欲しいという気持ちが大きい。





作画・レイアウト

05]59]

西井さん1人原画。西井さんをさほど、というか全く知らないので、あれですけど、煽りのアングルが特に上手い。相座兄の先生や有馬の煽りアングルでの作画はとても上手く、コンサートホールや10話全体に立体感を持たす効果があったと思う。


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後、こういったイラスト調のカットも良かった。いいですよね、ちょっと抽象的になってふんわりする。優しい絵作りになってる。


22]

「ピアノが響かない」という描写で、手が崩壊していくのも良かった。体全体で響かそうとしているんだけど、それが出来ないのが伝わってくる。



10話に関しては、こんなとこです。

緊張感あって、良い回だったと思う。

37]


09話「共鳴」 
コンテ:神戸守 演出:黒木美幸

アバン:井川の過去
A:井川演奏と有馬の演奏前(緊張感あった)
B:有馬演奏


脚本・構成

14]08]
45]16]

毎報コンクールにおける、有馬の演奏回。前回のコンクールは殆ど宮園に引っ張られる格好であったけど、今回は有馬の決意がある所が異なる点であり、重要な点でもあります。未だピアノの音は聞こえないわけですが、それでもステージへと向かっていく。失敗やミスの不安は、08話において描写されており、それを自覚した上での演奏です。つまり、非凡であった有馬が凡人の思考を辿っているんですね。今まではただ譜面しか気にしていなかったけど、「音が聞こえなくなった」ということを転換点に、必死にもがいている中で見えてきた風景であるわけです。


11]09]

その必死にもがいている最中に、再び不安が襲いかかる。これまでの話数では、母親や小学生時代は抽象的なイメージが多かったですが、今回はダイレクトに映像で示されています。虐待とも呼べる母親のレッスン、容赦の無い嫉妬、母親の死。「音が聞こえなくなった」のは必然だということが伝わってきます。これを有馬は罪である(母親に対する酷い言葉に対して)と、合理化してピアノを弾かない理由にしている。そんで、有馬曰くの「罪」が襲いかかってくる。


これは本当に勝手な推測なんだけど、有馬は母親の死を認めたくないのではと思う。嫌なのイメージ・思い出を繰り返し顧みると、その人物の死は自分にとって些細なことであり、大したことではないと言い聞かせているような感じ。死んでしまった人に対し楽しかったイメージを持つと、死んだことを認めてしまうような気がするんですよね。まだ彼の中に、母親は生きているし、やはりまだ生きていて欲しいと願っている様子。





作画・レイアウト

39]

作見としては、やはりアバンのジャングルジム井川でしょうね。ここが大変に上手かった。滑り落ちる感じ、危うい感じ、「銀河鉄道999劇場版」における金田パートのような、「ああっ!」と声が出てしまうほどリアルな描写。上手かった。


03]

これは、相座兄とレイアウトまんま同じで僕はあんま好みではないです。変化が欲しいですね。井川であるなら、有馬に対して強い感情を持っているのだから、それをぶつけるようなレイアウトにして欲しかった。極端に言えば、口元・手元アップだけでも十二分にその感情は表現できると思う。


43]51]

スクワッシュ&ストレッチの表現。元になっている物体をAとすると、スクワッシュしたAダッシュは輪郭線がびよーんと伸びます。ディズニーでお馴染みの誇張表現ですね。後、ここらへんの母親の喋る作画良かった。すげー嫌なオバサンな感じがバンバン出てますよね。


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抜けていく鍵盤。鍵が外れたピアノとかピアニカってスゴイ不気味ですよね、それと綺麗な桜のミスマッチ感が上手く表現されてた。ここはCGと撮影が特に力を入れたと思う。これ大変ですよね。


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01話の流血描写があるからこそ引き立つ、この一滴の血の表現。ドバドバ出てたら大変とかそういうことじゃないんだよね。この一滴には、小学生有馬の今までの思いが全て詰まってる。だから、やっぱり01話の流血描写は必要ですし、オカシクもない。




09話に関しては、こんなとこです。 

お久しぶりな気がするようなしないような。


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アバン:ブランコ有馬、内在する自己(=黒猫)との対話(1)

A:渡の中学最後の大会終わり
・渡泣いてるシーンからの音楽OLはスゴク上手い
・黒猫(2)
・公園の宮園の作画いい
・黒猫(3)
・ライバルとの邂逅

B:過去の有馬から紡がれる現在
・小学生時代の3人
・有馬のコンクールへの恐怖と宮園の支え
・相座から見た有馬
・演奏はオマケでしかない(脚本的な意味で)
・それに至るまでが描写したいところ


脚本・構成

全体の構成としては、黒猫(=有馬の自己)をベースとした、葛藤回です。過去に縛られつつ、何とかもがいている状態。有馬の気持ちとしては、やはり宮園に依存する部分が多く、だからこその毎報コンへの出場を決める。有馬・井沢・相座、三人の小学生時代を回想として出すことにより、邂逅がよりはっきりと明確なものになる。「不安になる、失敗したらどうしよう」という感情は、当時のままの有馬には、最初は自分だけが抱え持つパーソナルな心情だと思っているんだけど、これは当然勘違いです。B後半、他の演奏者が震えて待っていたり、必死に譜面を読み直している状況を見て、有馬はやっと把握します。「ああ、みんな大変なんだ…」と。ここでも宮園の存在は大きい。有馬にとっては、彼女こそが太陽であり、色をつけてくれた張本人である以上の意味を持ち始めています。



作画

げそさんいましたね。黒猫カットあたりらしい。良かったと思う。後はなんだろう。演出にもまたぐことなんですが、渡が泣いているシーンからの音楽オーバーラップはとってもきれいに繋がってた。ああ上手いなあと。実直に心情を映し出していて、それでいて、次のシーンにつなぐんだから。





8
アバン:相座兄の思い

A:相座兄の演奏と三人の過去
・演奏シーン神がかってる
・グラフィニカいいね

B:井沢の過去と演奏
・木枯らしの演出は見事


脚本・構成

相座・井川の有馬に対する感情の違いが独特で、しかしやはり彼らが固執するぐらいに、有馬は素晴らしいものを持っているということが分かります。相座にとっての有馬とは、「完全超人、自分のあこがれ」であり、井川にとっては「有馬公生を否定するために演奏している。最初の演奏こそが本来の有馬公生」という何とも両極端な感じ。相座にとってはリスペクトの対象で、井川にとっては「(私がピアニストの道を選んだ)責任とってよ!」という感じ。現実世界でもそうですが、しつこい、執念深い人は何だかんだ凄いひとが多い気がします。まあ、どっちも非凡ですよね。



作画

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グラフィニカ(咲-Saki-CG方式)のピアノCGは素晴らしい。そして、ロトスコ&モーションキャプチャー(だったと思う)による作画も負担が大きいと思われますが、良かったです。「彼らがそこに存在している」という感覚を出すのは、非常に苦労がいると思うんですが、その部分が出ていて良かった。存在感がきちんとあった。相座兄のラストで、肩がカタカタなるカットがあるんですが、そこは畳み掛けている感じがあっていいですね。


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井川の手クニクニ。ここ上手かった。小島さんいましたっけ。


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ラストの木枯らし演出は、作画・CGも相まって見事。美しい画面がそこには存在していて、井川の実直な有馬に対する思いや師事している先生の感情(「いけエミ!」)、そして何よりも井川のこれまでの苦しみ・葛藤・スランプが伝わって素晴らしかった。


こんな感じでした。いやはや大変遅くなり誠に申し訳ない。


[追伸]
「四月は君の嘘」とは関係ないですが、「グリザイア」「新Fate」どっちか各話感想中止します。色んな都合が重なった上です、ごめんなさい。各話感想はやっぱ2個までだね…反省や…

■四月は君の嘘OP:ブランコのカット
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このブランコのカット、カッコイイっすよね。
このカッコよさの要因は、おそらく「右方向への一貫性」です。

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白い鳥は、画面の左方向に向かって飛んでいますが、(カメラワークによって)相対的な位置は右方向に移動しています。ここでは、画面下に見える白い流線によって、風が左から右に向かって(つまり右方向)吹いていることも分かります。この2つの事象が、次カットでのブランコの急速的な運動の示唆・伏線になっているんですよ。



この後のカットも、「右方向への一貫性」は保たれたままで展開されます。

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さっきのブランコとは反対方向からのアングル。風は右方向へと吹いています、それに従う形で有馬のネクタイと髪の毛も右方向へとなびいている。後ろでは、さっきのブランコが余韻をもった動きを見せています。ここでは、動きの対比として、明らかに有馬のネクタイの挙動の方が大きくて、しかも速いです。だから結果的に、ブランコの左方向への動きよりも、右方向への方にアクションの比重がかかっています。つまり、ここでも「右方向への一貫性」が保たれていることが分かりますよね。

まあ言っちゃうと、これって実際にはあり得ないカットじゃないですか。さっきは右方向に風が吹いてて、ブランコがそれによって動いたのに、反対方向にカメラが動いた次のカットでも、右方向に風が吹いている。現実に即して考えると、有馬のネクタイは左方向に揺れるべきなんだけど、何でこういう風にしてるのかって言うと、「右方向への一貫性を保つため」だと僕は思うんですよ。

有馬は別の位置にいて風を受けてるんだよとか、そもそもOPにそんなことを言うのは野暮ったい、というのは当然あるわけなんですが、一連のシークエンスとして、何故違和感なく自然にカットが繋がっているのか、ということを見ていくと、やはりこういう「大切な矛盾」含んだカットが存在しているからではないかなあと思うわけです。

世間様から一週近く遅れていることは承知してます。

アバン:椿と有馬の過去
・2人で大車輪、椿が有馬をおんぶ

A:毎コンの練習 有馬と宮園パート
・モノローグとセリフの洪水
・徐々にピアノに実直に向き合う有馬

B:椿パート
・野球(ソフトボール) 
・影と光の対比(安直やな…) 

C:ライバル達パート
・何気に作画良かった(女の子の方ね)



脚本・作劇・構成

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おさらいしておきますと、このアニメは「セリフ」 が非常に大量にあります。特に「モノローグ」。「モノローグ」とは独白ともいい、相手を必要としないセリフのことです。独り言みたいなもん(心の中での呟きも)です。少女漫画系作品においては、恋愛対象の相手に対して抱く感情を本人に言う勇気が無かったり、その感情がよく分からないものであったりするために、モノローグが発生します。

このモノローグ・セリフの氾濫によって、「セリフに頼りすぎて、(アニメ本来の)絵で表現していない」「セリフが多すぎて、うっとうしい」という意見が多いようです。結局、「セリフの氾濫はアニメを駄目にする」という風な誤解をされがちですが、そうではないです。実際、庵野監督による、『彼氏彼女の事情(98)』では、大量のモノローグ、セリフを処理しているにも関わらず、アニメ本来の面白さを失わずに映像化できています。

だから、「セリフの氾濫はアニメを駄目にする」ではなく、正確には、「セリフの氾濫をきちんと演出できないと、アニメとしては破綻してしまう」ということです。この問題は、コンテ・演出に帰結します。どれほどのセリフの多さであっても、処理できているアニメは存在し、例えば出崎監督の『スペースコブラ』はその代表格といえるでしょう。コブラのつぶやき・セリフ、敵の焦燥を含め、全く飽きさせないような画面展開により、素晴らしい作品になっています。


では、『四月は君の嘘』はどうなのか。正直なところを言うと、ギャグ・コメディはとても上手い。ただ、シリアスな場面における、緩急の付け方があまり良くない。具体的に言うと、カット割りやコンテのテンポが良くない、と思うんです。シリアスな場面において、どうにも尺を大目にとって、シリアスな感じに展開させているシーンが多いですが、それはシリアスとギャグの緩急であり、シリアスなシーン内における緩急ではありません。それが必要だと僕は思うんですよ。

出崎・庵野監督は、どちらもカット割りが細かい監督です。繰り返しのショットとか、トラックアップの多用とかフラッシュカットとか。とにかく、バンクを活かしたカットも含めて、映像のテンポが良いです。こういうわけで、4話の有馬演奏回と、6話の石浜さんによる有馬の葛藤回は良いと思ったんですよ。ちゃんとシリアスにも緩急を持ち込んでいたから、セリフも浮かず、セルにしっかりと染み付いてた。接着剤でくっつけたかのように、しっかりと映像になってた。



前置きが長くなりました。6話はどうだったのかというと、惜しかった。
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Bにおける、椿のベーラン一周シーンとか、最後におんぶされながら泣くシーンとか、そういったところのシリアスは良かった。コンテ細かく割ってて、特におんぶされながらのシーンは良かった。同ポの多用とかもあって。


だけど、有馬と宮園の会話における、「ショパンが囁くんだ」の辺りのシーンが惜しい。

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ここ3カットぐらいしか無いんですよ。俯瞰と、テープレコーダーのアップと宮園ドーナツと。ポン寄りと、TU・TBの使用で倍のカット数にはできるし、テンポは確実に生み出せるのに何故か(※ベーラン一周とか、ラスト泣きシーンの存在があるから、出来ないのではない)やっていない。そうしない意図があるのかもしれない。中学生の内面描写をナルシズム的にやるために、わざとテンポを悪くしてる、とか。結局は分からんわけですが。





作画・画面構成

ラスト、椿の無くシーン。しがみつき方、泣き方、髪の毛のぐしゃっとした感じ。どれをとっても良かった。うめえ。誰が描いてんのかな。全く分からん。完全に適当なこと言うと、濱口さんかもしれない。
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後は、演出にもまたがることですが、こういった表現はいいですね。個人的に好みです。
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ああ、野球の描写はとても良かったです。(相手チームの)ブロック巧すぎて笑った。あんなこと中学生で出来るんかな。本当は、グラブに収めたままタッチするのが普通なんだけど、「ボールを見せる」ということで、ああいう感じになったのかなあと思う。後はクッションボールの処理ミスとかも自然で巧かった。



そんなところです。 

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小島さん1人原画回でした。良かった。


アバン:子ども時代の有馬・椿・渡 川への飛び込み

A:お見舞いと学校
・罪悪感を抱える有馬
・羨望を感じる有馬

B:椿と先輩、そして宮園と有馬
・どんてんもような関係性
・柏木さんカワイすぎてよくない



脚本・作劇・構成

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東和コンクールも終わり、宮園に対して罪悪感を抱く有馬。病院での気まずい雰囲気は、そのせいで起きてる。その中で確実に、「何のためにピアノを弾くのか」ということに対し、有馬は考えを深め始めています。「僕にはピアノしかない」という有馬の言葉に、宮園は「それではいけない?」と肯定的な意見を返し、椿は「他にもいいところがある」と否定的な意見を返すところは、2人の性格を反映しているように感じます。宮園は実直・素直な考え方であり、一貫している。「ピアノしかない」というネガティブな吐露に対して、肯定するのは彼女らしいといえます。普通は、椿のように励ますものですが、自分の考え・思考に素直なので、「いいじゃんそれで」ということが言える。忘れられないモノ=演奏終了後の喝采というのは、演奏者にとって特別なものであるがピアノの音がいまだ聞こえないことで、有馬は悩んでいます

宮園は有馬にピアノの再開を促しますが、この葛藤により、色々と言い訳をする。「楽譜を捨てた人間が今更やるべきではない」とか色々大義名分をかざす。だけども、宮園は本当に有馬にピアノを弾いてもらいたくて、全部跳ね返す。要するに、グダグダ言ってんじゃねえ、憧れなんだからやってよと。そういったとても自分に素直な宮園に惹かれていく有馬がこの話数では描かれている。

どんてんもようは、有馬の心情の情景描写。とても曖昧で、どうしたらいいか分からないと迷っている。しかしラストに宮園と会うシーンでは晴れている。彼にとっては、まさしく「日の当たる場所」に連れて行ってくれる存在なんだろう。一方このどんてんもようは、椿の心情も表していて、自分と有馬の関係性に対して少しずづ疑問符が生じ始めている。極端に言うと、自分だけのものだった有馬公生が他の女の子のモノにもなりつつあり、しかも憧れだった先輩とも再会し、非常に微妙な心情になっている。



作画・画面設計

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小島崇史さんの1人原画。僕は小島作画というものをあまり知らないんですが、やはりいちばん印象が強いのは「手」の作画ですね。当然他の芝居も良いんだけど、手に関しては本当に素晴らしい。 


特にすごかったのはこの2カット。

06]

これは有馬公生がコンクールを終えて立ち上がろうとするときに、転けそうになるシーン。椅子にかかる手の感じで重さが偏って(倒れそうになって)いるのが分かる。指への重さの表現は素晴らしく上手い。

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こっちも良かった。これは有馬が渡に少し羨望・嫉妬と、自分に対する自虐を感じてるシーンなんだけど、手だけでそれを表現している。グッと一瞬力が入る手によって感情まで伝わってくる。上手い。


このカットは普通に笑ってしまった。(※「カヲリちゃんチェケラ!」的なところ)
多分、有馬の心情的には笑うシーンではないんだろうけど。

07]33]

ここは作画はっちゃけてた。
でも、有馬主観だから楽しそうに見えて、演出的には良いのかな。


後は、最後の飛び込みカットはやけにぬるぬるしてましたね。

03]05]

中打ちまくってる感じだった。何でこうしたんだろう、あんまり分かんないけど。



そうそう、柏木がカワイすぎたのはイカンですね。
これは愛敬さんのキャラデだと思うんだけど。

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柏木は一歩引いた目線でみんなを見てるから、「可愛くない女の子」でないとならないんです。つまり、物語世界の女の子ではなくて、現実世界にいるような女の子。簡潔に言うと、少しブスでないといけない。少しブスだからこそ、この女の子は客観視・俯瞰視してることが伝わる。僕の希望は、もう少し目が死んでいて欲しい。何か酷いことを言ってるような気がするな…


こんなところです。(45m)

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