これまでの話数でまさしく、ピカイチだった。すごすぎた。
アバン:有馬と母親の過去
A:演奏開始~演奏ストップまで
・音符が消える表現
・渡「すげえ…」
・水に浸かる有馬
B:宮園演奏再開~ラスト喝采まで
・怒涛のラスト
・春が来た
脚本・作劇・構成
まず、アバンの過去回想は良かった。なぜ有馬公生がああいう風に(3話のように)呼ばれていたか、それが母親に依拠するということを執拗に描写してきたのだけども、この話数では表現手法が少し変わって、セリフが多くなっている。これが後半のAにおける、4段階ポン寄りのシーン(※車いすの母親が見えるところ)で素晴らしく活きてくる。ここは、色々なエフェクト(フォギー、パラ、ボカシ)がかかってる分、そのホラーチックに画面が仕上がっていて、一見幻想シーンの方が怖いと思うんだけど、シークエンスで見ると、何も存在してない方の画面が怖く感じるように仕組まれている。
アバンではあれだけのセリフの文量で、有馬の暗い過去を描くんだけど、4段階ポン寄りのシーンでは一切のセリフなく、ただ音楽の高まりと共にシーンが進行していく。このシーンから(今まで明示されてこなかった)有馬の主観(※スポットライトはその示唆)へと没入していく。鍵盤を叩いても音が出ない、音符が消えていく、まるで海の底にいるような息苦しく・どうしようもない感じ、それら全てをセリフと音楽、そして映像で感じさせている。
有馬の必死な形相とその言動、そして示される映像の息苦しさと苦痛。「叩いても音が出ない苦しみ」、それがどんなモノかというのはイメージBG的な手法で(※抽象的に)表現するのかと思っていたんだけど、イシグロ監督はまさに「実直に」有馬の苦痛を具体的で明確に表現しているので、ここは喝采すべきところだと思う。 有馬の向き合ってきたモノがどれだけ恐ろしく、それだけ苦痛に溢れているかが素晴らしく分かるシークエンスだった。
シーンは現実(客観)へと帰り、有馬はピアノの演奏を中止する。これは宮園に迷惑をかけてはダメだという判断から。だけど、その宮園も演奏をやめてしまう。有馬と一応の会話(※いや感情的な機微の交換か)を交わし、有馬もそれを受け取る。そうして、宮園は「旅に出よう(※スヌーピーからかな)」と言い、演奏を再開する。しかし、演奏再開できない有馬。
有馬は相変わらず海の底で苦しんでいるのだけど、ようやっと辛い記憶のリフレインではない、母親との記憶を思い出す。演出的にはここが素晴らしかった。ここまで、有馬と母親の過去回想では全てモノトーンに仕上げてきたからこそ出来る、対比的な「カラー(※色彩的・明度的)」による柔らかさ・優しさ・安心の表現。「母さんからもらった全てをぶつける」という意志の元、有馬は演奏にのめり込む。それが、3枚目のカット、有馬の目線の動きを描写したカットに表れていたり、4枚目の逆光のカットでも(※宮園から見た有馬として)有馬の本来持つポテンシャルが示されている。
そして、演奏終了。終了に至るラストスパートは、画面も光源が強調されたモノとなっており、明度も上がっている。もがき苦しんでいた有馬に、わずかながら見いだせた希望の表現であり、宮園との演奏が楽しいという表現でもある。そして、有馬の主観(※未来)へと画面はジャンプカットし、ピアノ演奏の感情の再確認と同時に有馬の一つの思い出となっていることが分かる。 素晴らしい話数だった。
作画・画面構成
素晴らしかった、以上。
というのは流石に冗談(※冗談でもないか)ですが、これ以上は文量が多すぎる(※時間も足りない)ので、また別記事にでもするかも。簡単に言うと、序盤の演奏シーン、ラスト演奏シーン、控室での有馬のカチコチのシーン、ここらへんは何も言わずとも分かるように、素晴らしかった。濱口明はどこでしょうね、それは少し気になる。
以上です。
四月は君の嘘 3話「春の中」 感想(2014秋アニメ)
ちょっとアク強かった。これは賛否分かれるだろうなあと録画見ながら思ってたら、一週間が風のように過ぎ去っていきました。遅れてゴメンネ。4話もすぐに(三連休には…)記事にする予定。(※メソッドはまだ見てない。見る気も起きない。)
アバン:カフェで食べる2人
A:トゥインクルと有馬がピアノ弾けなくなった原因
・グラフィニカいいなあ
・有馬の受賞歴については、もっと演出で盛り上げて欲しい
・伴奏に任命
B:伴奏への強制と走りだす有馬
・楽譜の貼り方よかった
・テンポもよかった
・明暗の表現(キリ
・二人乗りに厳しい世の中
脚本・作劇・構成
有馬が何故ピアノが弾けなくなったのか、ということが判明する回でした。で、そこから宮園にピアノ伴奏に任命され、伴奏をやるように椿共々言われまくるわけですが。一向に「してみようかな」というアクションすら見えない、社交辞令でもその場しのぎの発言でも全く言えない。だから、彼にとっては、ピアノを再開することは「絶対あり得ないこと」なんですね。
それは例えば、このカフェでの表現でも示されています。
このカッとショックを受ける感じ。巧いですよね。タイミングも良かった。
後は伏線としてのバスの宮園かをりですね。
ここは原作よりも巧いと思う。
屋上での明暗シーンは誰にでも分かるような演出だったので、今一度ぼくが改まっていうことでもないと思うのですが。有馬が深い暗闇の中にいて、椿や宮園は明るい日の下にいるというのが表面的な表現です。ですが、ここはレイアウトでの演出を少し解釈したい。ここでこれだけ左に配置されているのは、誰しもが「有馬公生の立場になりうる」ということの示唆だと思います。つまり、その個々人の立場というものは非常に不安定で、固定的ではないということです。
作画・画面設計・カメラワーク
A1はキャラ絵がすごく安定しますね。今回は、というか4話まででもほぼ全く崩れてない。それがいいことかどうかは分かりませんが、まあ大変なことで労力もかかっているだろうと思います。こういうことを軽視する人が大多数ですけど、この絵を保つのって大変ですよ。びっくりするほど崩れない。もっと輪郭なんて簡単に崩れるのに(※むしろ崩れろ、と思う。僕としては、いろんな人の「動く」絵が見たいので、総作監制度がいいシステムとはあまり思えません)。
「ほらやっぱり幸せなピアノじゃない」のシーンは宮園かをりTBしながら、(OLしながら)有馬にTUしてもらいたかった。というか、その画面しか想定してなかった。このシーンの宮園にTBやTUしなかったというのはぼくにとっては非常に意外で、何でかというと、その次に弾けなくなるシーンとの「画面の硬度」によって、対比ができると思っていたから。
弾けなくなるシーンでは有馬公生がビクッとするわけですが、そういった「硬さ」を画面でも出してもらいたくて、対して、弾けているシーン(店員や子ども、宮園が幸せなシーン)では「柔らかさ」を画面で表現して欲しかった。この2つの対比があると想定していたので、特にカメラ指示が無かったのは本当に意外でした。
今回はこれぐらいでしょうか。後、暴力ヒロイン云々で騒ぐ輩がいますが、それはまた別の記事で(次の4話ででも)言及したいと思います。「うる星やつら」とか「鋼の錬金術師」、「らんま1/2」とか有名ドコロでもあるんですけど、何故かこの辺はスルーされるのに苛立っています。あのフレーズは、作品のアジテートのためとしか思えないんですけどね、今のところ。
後これはどうなんだろう。
完全対称ではないんですが、それが合ってるのがどうかイマイチ分からない。鏡像はもっとベターと平面的になるべきな気がしますが。まあ些細なところなので、どうでもいいかもしれませんが。右目が映ってると何か少し違和があります。
四月は君の嘘 2話「友人A」 感想(2014秋アニメ)
ちょっと今回からタイトルも追加してみました。
作劇・脚本・展開。
アバン:コンサート会場へ急ぐ一同
A:宮園かをり演奏
B:演奏終わり、後日談
今回は宮園かをりの演奏の素晴らしさと聴衆への訴求性。同時にその演奏によって心揺さぶられる有馬公生。この2つを中心に描かれていました。ラブアンドコメディとボーイ・ミーツ・ガールの中間的作品ですが、今回(前回も)はどちらかというとラブコメ調ですね。
全体的には、良かったけれども、演奏終わりの有馬・渡・宮園の三人の演出はいただけないような気がします。Aは素晴らしかった。Bはね、作画も含めて、あんまり良くなかった。
どう具体的に良くなかったかというと、「有馬の宮園を迎えに行くような動き」ですね。これは、原作読んでるからかもしれませんが、誤解を生みますよ。そもそも、原作では有馬は本当に蚊帳の外という感じで、迎えに行こうとすらしていない。それなのに、アニメでは一歩踏み出してしまって、何か宮園に声をかけにいくような様を描いてる。違うんですよ、ここでは有馬はそんな意識すらなく、自分から蚊帳の外に行ってると思うんですよ。
「映画のワンシーンのようだ」と有馬が再三言っていたように、有馬はこのシーン(宮園かをりと渡が再会するシーン)を客観視してるんですよ。ああ、すごいなって。でも僕は脇役でしかないっていう卑屈・陰鬱さを持って。それなのに、何故か一歩踏み出して行っちゃってる。ここはねえ、有馬にそういう希望(好かれてるかも)とかいう感情は多分一切無いし、関わりを持とうとも思ってない。それは前述したとおり、この場面・状況を客観視してるから。だからこの2話は惜しい。
作画。
アバンの歩き、Aの演奏、CGピアノ。良かったですね。
Bはちょっとヘタった感じがありましたけど、あれは作画配分の問題でしょう。
で、海外サイト(国内もかな)では、このシーンに対する酷評が多く。
あんまり酷いとは思わないんですけどね。
「拡大作画にして」とまでは思わない、大変だろうし「これぐらい別に」と思う。
ただ、譜面が消えてしまってるのは、もったいないですね。
これはおそらく演出・作監・動検のミスですが、しょーもないミスを責めるのは酷でしょう。
ラッシュの段階で制作側もわかってるだろうし。そこら辺は、寛大にいきたい。
対して、Aの演奏は良かったですねえ。
後ろのピアノ伴奏の戸惑ってる感じも素晴らしかった。基本2コマで。
(2枚目は、1コマでしたが、ここも譜面めくる等芝居が細かく描かれてた)
4枚目のピアノ・手CGは素晴らしかった。
サンジゲンに追いつくような勢いのCGですね。良かった。
これ音合せも相当頑張ったんじゃないのかなあ、すごかったですよ。
後は、コンサートホールに入る瞬間のエフェクトが素晴らしかった。
閉塞的な空間に新鮮な空気が入っていくと同時に、その空間内との温度差とかそういったモンを表現してる気がします。後、ホコリの感じとか。すんごい上手くないすか。エフェクト好きなので、特に良かったです。
こんなとこです。(17m58s)
作劇・脚本・展開。
アバン:コンサート会場へ急ぐ一同
A:宮園かをり演奏
B:演奏終わり、後日談
今回は宮園かをりの演奏の素晴らしさと聴衆への訴求性。同時にその演奏によって心揺さぶられる有馬公生。この2つを中心に描かれていました。ラブアンドコメディとボーイ・ミーツ・ガールの中間的作品ですが、今回(前回も)はどちらかというとラブコメ調ですね。
全体的には、良かったけれども、演奏終わりの有馬・渡・宮園の三人の演出はいただけないような気がします。Aは素晴らしかった。Bはね、作画も含めて、あんまり良くなかった。
どう具体的に良くなかったかというと、「有馬の宮園を迎えに行くような動き」ですね。これは、原作読んでるからかもしれませんが、誤解を生みますよ。そもそも、原作では有馬は本当に蚊帳の外という感じで、迎えに行こうとすらしていない。それなのに、アニメでは一歩踏み出してしまって、何か宮園に声をかけにいくような様を描いてる。違うんですよ、ここでは有馬はそんな意識すらなく、自分から蚊帳の外に行ってると思うんですよ。
「映画のワンシーンのようだ」と有馬が再三言っていたように、有馬はこのシーン(宮園かをりと渡が再会するシーン)を客観視してるんですよ。ああ、すごいなって。でも僕は脇役でしかないっていう卑屈・陰鬱さを持って。それなのに、何故か一歩踏み出して行っちゃってる。ここはねえ、有馬にそういう希望(好かれてるかも)とかいう感情は多分一切無いし、関わりを持とうとも思ってない。それは前述したとおり、この場面・状況を客観視してるから。だからこの2話は惜しい。
作画。
アバンの歩き、Aの演奏、CGピアノ。良かったですね。
Bはちょっとヘタった感じがありましたけど、あれは作画配分の問題でしょう。
で、海外サイト(国内もかな)では、このシーンに対する酷評が多く。
あんまり酷いとは思わないんですけどね。
「拡大作画にして」とまでは思わない、大変だろうし「これぐらい別に」と思う。
ただ、譜面が消えてしまってるのは、もったいないですね。
これはおそらく演出・作監・動検のミスですが、しょーもないミスを責めるのは酷でしょう。
ラッシュの段階で制作側もわかってるだろうし。そこら辺は、寛大にいきたい。
対して、Aの演奏は良かったですねえ。
後ろのピアノ伴奏の戸惑ってる感じも素晴らしかった。基本2コマで。
(2枚目は、1コマでしたが、ここも譜面めくる等芝居が細かく描かれてた)
4枚目のピアノ・手CGは素晴らしかった。
サンジゲンに追いつくような勢いのCGですね。良かった。
これ音合せも相当頑張ったんじゃないのかなあ、すごかったですよ。
後は、コンサートホールに入る瞬間のエフェクトが素晴らしかった。
閉塞的な空間に新鮮な空気が入っていくと同時に、その空間内との温度差とかそういったモンを表現してる気がします。後、ホコリの感じとか。すんごい上手くないすか。エフェクト好きなので、特に良かったです。
こんなとこです。(17m58s)
四月は君の嘘(1話)の流血描写について
ちょっと物議を醸しているようなので。
問題の中心となってるのは、「椿が打った打球がガラスを破り、有馬の頭にぶつかり、血を出しながら倒れている」という一連のシーン。とりあえず、カットで追っていきましょうか。(公平性を期すために、全カット拾ってる)
おそらく、問題となっているのは、3・4~13カット目の頭からの出血描写であり、また14~22カットまでのガラスに触れて怪我する危険がある(とそれを心配する椿)描写でしょうね。前者をAとし、後者をBとします。
この問題の本質というのは、「デフォルメ演出」です。
Aの描写は言うまでもなく、大げさなデフォルメ・ギャグ描写であり、それを裏付ける根拠として、6、7、8、12(13)カットがあります。「流血した」という事象に対して、あくまでもコミカルなデフォルメで対応し、椿の「死体だ―!」というセリフからも冗談(コメディ的な暴力)であることが大いに分かります。
対して、このように、Bの(ガラスで手を怪我する可能性がある)描写では一切デフォルメ描写がありません。つまり、Aの描写は冗談めいていて、Bの描写はシリアス・真剣であるということが言えます。
またB描写では、ガラスの尖っていて危ない感じ、有馬の手はそれとは対照的に脆そうな感じが存分に演出されています。椿が心配して、ホウキが倒れるカットもそれを表しています。
これらのことから言えることは、ただひとつしかありません。
Aというコミカル・コメディな描写は、B描写のために用意された「比較装置」であるということです。頭からの出血、というものを大げさに描いたのは、B描写、すなわち「有馬公生の手指の貴重性」を表現するためです。
つまり、有馬公生、ひいては「四月は君の嘘」内においては、「頭部からの出血」 よりも「有馬公生が手指をケガする」方が、「物語の死」に近づく恐れがあるということです。現実世界で考えれば、当然、頭部からの出血の方が一大事のように見えますが、この世界においては、それが逆転しているということです。(※まあ、頭をケガしたことがある人ならわかると思うんですが、ふとした衝撃でドバドバ血が出ますけど。)
結局は、「有馬公生の手指の貴重性」というものを示すために、この一連のシークエンスが存在しています。有馬公生の脳みそなんてのは二の次であり、その貴重な手指だけは死んでも守らねばならない、ということをここでは伝えているように感じます。 じっさい、有馬公生の手指は貴重なものであり、ピアノクラシックという題材の下では、至ってシンプルな演出だと思います。
何故、問題になった(物議を醸した)のかは、おそらく、若干A描写にコミカルさが不足していたからでしょう。その微妙な不足さを持ってしても、一連を見渡せば、べつだん難しい演出とは僕は思えませんが。アニメ読解というのは、制作側の意図がまず前提として存在していて、それを視聴者が解釈するものであるので、あの流血シーンだけを抜き出してどうこう言うのは、ちょっとおかしいな、と思っています。
その観点では、バイアス、偏見というものはゴミでしかありません。視聴・読解という点において、一番やってはいけないことであると思っています。
問題の中心となってるのは、「椿が打った打球がガラスを破り、有馬の頭にぶつかり、血を出しながら倒れている」という一連のシーン。とりあえず、カットで追っていきましょうか。(公平性を期すために、全カット拾ってる)
おそらく、問題となっているのは、3・4~13カット目の頭からの出血描写であり、また14~22カットまでのガラスに触れて怪我する危険がある(とそれを心配する椿)描写でしょうね。前者をAとし、後者をBとします。
この問題の本質というのは、「デフォルメ演出」です。
Aの描写は言うまでもなく、大げさなデフォルメ・ギャグ描写であり、それを裏付ける根拠として、6、7、8、12(13)カットがあります。「流血した」という事象に対して、あくまでもコミカルなデフォルメで対応し、椿の「死体だ―!」というセリフからも冗談(コメディ的な暴力)であることが大いに分かります。
対して、このように、Bの(ガラスで手を怪我する可能性がある)描写では一切デフォルメ描写がありません。つまり、Aの描写は冗談めいていて、Bの描写はシリアス・真剣であるということが言えます。
またB描写では、ガラスの尖っていて危ない感じ、有馬の手はそれとは対照的に脆そうな感じが存分に演出されています。椿が心配して、ホウキが倒れるカットもそれを表しています。
これらのことから言えることは、ただひとつしかありません。
Aというコミカル・コメディな描写は、B描写のために用意された「比較装置」であるということです。頭からの出血、というものを大げさに描いたのは、B描写、すなわち「有馬公生の手指の貴重性」を表現するためです。
つまり、有馬公生、ひいては「四月は君の嘘」内においては、「頭部からの出血」 よりも「有馬公生が手指をケガする」方が、「物語の死」に近づく恐れがあるということです。現実世界で考えれば、当然、頭部からの出血の方が一大事のように見えますが、この世界においては、それが逆転しているということです。(※まあ、頭をケガしたことがある人ならわかると思うんですが、ふとした衝撃でドバドバ血が出ますけど。)
結局は、「有馬公生の手指の貴重性」というものを示すために、この一連のシークエンスが存在しています。有馬公生の脳みそなんてのは二の次であり、その貴重な手指だけは死んでも守らねばならない、ということをここでは伝えているように感じます。 じっさい、有馬公生の手指は貴重なものであり、ピアノクラシックという題材の下では、至ってシンプルな演出だと思います。
何故、問題になった(物議を醸した)のかは、おそらく、若干A描写にコミカルさが不足していたからでしょう。その微妙な不足さを持ってしても、一連を見渡せば、べつだん難しい演出とは僕は思えませんが。アニメ読解というのは、制作側の意図がまず前提として存在していて、それを視聴者が解釈するものであるので、あの流血シーンだけを抜き出してどうこう言うのは、ちょっとおかしいな、と思っています。
その観点では、バイアス、偏見というものはゴミでしかありません。視聴・読解という点において、一番やってはいけないことであると思っています。
四月は君の嘘 1話 感想(2014秋アニメ)
とうとうド本命作品。
これは原作単行本でハマりまして、そしたらすぐにアニメ化という感じで。
監督はイシグロキョウヘイ、キャラデ・総作監は奥さんの愛敬由紀子。
制作は、A-1Pictures。
過度な期待というのは、原作付きでは決してしてはならないもので(※アオイホノオでも散々に言いましたが)、昨今の失敗例が頭の中をぐるぐるしていて、この「四月は君の嘘」も例外ではありませんでした。最初のキーヴィジュアル発表のときは、少し妖艶すぎないか、これ大丈夫かなんて思ったりもして、結構心配でした。
(第一弾 キーヴィジュアル)
もうね、今季ナンバーワンだと思います。こんなにパワフルな作画で、ギャグとシリアスのバランスがとれた演出、ホワイトバランスの感じ、そして、音楽の表現、ピアノCG、電柱・送電線の感じ。たまらん、たまらん。(※あまりに長くなったので、そのあたりの話は後半に回しました。暇な人だけ読んでね。)
あらすじ
主人公、有馬公生は神童と呼ばれ、数々の賞を総なめにした天才ピアニスト、ついたアダ名が「人間シンドローム」。そんな有馬は、ある時を境にぷっつりとピアノを止めてしまう。そのまま、中学2年生になった有馬の前に1人のヴァイオリニスト、宮園かをりが現れる。動き出す、有馬公生の青春、14歳のピアニスト。
というわけで、まあ内容は全部知っております。
ですが、アニメを見て感想を求めている方が訪問すると思うので、僕も順に追っていくことにします。ただ、原作等のネタバレは感想に必要であれば少ししてしまうかもしれません。その辺はご容赦下さい。
宮園かをりの1人歩き。ここでの黒猫はただの黒猫かもしれないが、漫画原作では、有馬の内面に黒いネコがいる。というか、有馬は元々黒いネコを飼っていたが、有馬を引っ掻いたため捨てられた。そういう「罪」の意識の顕在化であるのが、黒猫であるので、これはおそらく、有馬という寂しい黒猫との出会いを示唆するもの。
オープニングアニメ。OPコンテ・演出を担当したのは、中村亮介。最近でいうと、「ねらわれた学園(2012)」で監督を務められた方です。後は、「あいうら(2011)」ですね。「ねらわれた学園」は、細居美恵子の作監による色っぽさというのもあるんですが、中村監督に依拠する部分も大きく、このOPでもそれが存分に発揮されています。色調の感じが凄くいいですね。
特にここが最高に良かった。
柔らかい色調の画面で、TB。そして髪のリアクション。穏やかな風が吹き込みながら、穏やかな時間が流れていることがとてもよく分かる。舞う花びらもディテールアップに貢献してる。
有馬公生の少年時代の回想。機械的なムダのない動きが描写されていて、少し不気味である。いや、不気味ぐらいがちょうどいいのだろう。有馬にとっては、おそらく辛い時期であったろうから。
そうして、現実の時間へと繋がる。友人2人。椿と渡。この「男2人女1人」の構図は、たとえば「時をかける少女(2006)」のような、友人なのかどうなのか曖昧な関係を生むような気がします。まず現実では僕は殆ど見たことはありませんが。幼なじみが進行していくと、「恋」という感情が曖昧なものになって輪郭がおそらくぼやけます。
椿との帰り道。Aパート最後。モノトーンとカラフルという見え方の違い。椿の声で再三に渡って流れますが、つまりは、立つ所によって全く景色が一変するということ。ここでは有馬はそれに懐疑的というか、諦観的というか。決して気取ってるわけではなく、本当にモノトーンなんでしょう。ピアノが弾けなくなった自分に対する、存在意義の無さとか、意味の欠如とかそういったもんを感じてる。
ピアノの再開を促す椿と有馬の会話シーン。「音の確認してただけ」「バイトだから」と色々弁明をしていますが、これは確実にピアノに対しての未練とそこに纏わりつく様々な感情から目をそむけてるから。そらまあ、この後を見れば当然と思えます。ところで、このシーンにおける、椿の心情とはなんでしょうか。もう既に恋心は発生しているんだけど、それに気付いてないだけというのは分かるんだけど。母性からくる本心(悪い言い方をすれば、お節介)という感じなんでしょうかね。
少年時代の有馬と母親。ストイック、というレベルを超えた、病的なレッスン。そして、そこに潜む暗い影の描写のために、こういった画面にしてる。その次で手袋をしながら寝てるのは、「未練がある」というよりも、有馬の中に根付いて離れない習慣・日課のような気がします。そっちの方が自然ですよね。
宮園かをりとの出会い。劇中曲は、「天空の城ラピュタ(1986)」でパズーがラッパで吹いていた「ハトと少年」。ここでは、宮園かをりがピアニカで演奏してる。DFかフォギーか明度を上げてるのか分かりませんが、ちょっと眩しめの画面に。これは当然、有馬目線での印象なんですね。一目惚れ的な。
友人A、ホールへと走って行く。ここのスロモ感良かったです。そんで、宮園かをりの有無を言わせず、連れて行く感じがいい。理由とか説得とかしてもここでは無駄なんですよ。百聞は一見に如かず。「オレの歌を聞けー」じゃないですけど、もう「感じることが全てで、それ以外は蛇足」って分かってるんですよね。宮園かをりは。ここらへんも、女の子の方が少し成長早いというリアル感あっていいです。
それでは、映像面へ。
作画に関しては、A-1だしそんなに期待して無かったんですが、良かったですね。というか凄く良かった。特に、走り・歩き作画は全部レベルが高くてすごすぎた。河野、げそ、伊藤、小島さんと。
特にすごかったと感じたのは、この4つぐらいかなあ。
OPのの1カット。滑るまでの芝居、滑った後、上に持ち上げようとするときに足にも力が入ってることが分かるのがいい。リアル感増す。
歩き・走りはどれも素晴らしかったんだけど、これがメチャクチャ良かった。ここでは宮園かをりがカワイイ振りをしてるシーンなんだけど、その表現が、例えば振り振りする手であったり、歩幅の狭い小刻みな走り方であったりに如実にあらわれてる。ここ誰でしょうか。すげえ上手い。
これは風に飛ばされた後の舞う帽子。桜のディテールアップもそうだけど、滞空してる感じがすごく良かった。ふんわりと穏やかな風に流されてる感じ。
これは上手くスクショできなかったんだけど。まずは、奥2人の動きに注目。やけにぬるぬるしてて、2コマっぽい。左の椿の膝でクッションしてる感じの跳び方や、渡の小刻みな芝居も凄くいい。(これロトスコくさい、逆にロトスコじゃなかったら凄技ですね。)手前の2人は3コマだけど、こっちも中々にいい。有馬の強引に連れていかれてる感じが、手のぶらぶら加減と、もつれそうな走り方で表現されてて素晴らしい。
こっからは、うだうだとアニメ「四月は君の嘘」の映像表現について、色々語ってます。ちょっとメンドウな内容もあって、分かりやすいように書いてないので、読みたい人だけどうぞ。
デフォルメ(漫画的誇張表現)
大抵の作品は、アニメ化しちゃうと漫画的誇張表現、つまりデフォルメの部分がどうしても削られてしまう場合が多いです。作画的な配分とか、作品全体の絵の均一感を保ちたいとか、単純にデフォルメというものを挟む考えもないとか、そういったことだろうと思いますが、とかく原作の良さは失われてしまうわけです。
アニメ化とは、作品の再表現であり、それがとても困難であるということはいつか言及しました。当然、漫画的表現をそのままアニメでやったら、妙なぎこちなさが出てしまったり、とにかく「失敗」とみなされる場合も多く、前述のとおり保守的な作品は少なくありません。今作は、漫画的表現を半ば冒険的に・積極的に使用しながらも、デフォルメとリアルのバランスを取るのが非常に上手い、と感じています。2014個人的イチオシであった「ズヴィズダー」と同じくらい、いやそれ以上に優れているといっても過言ではありません。
電柱・送電線(人工建造物)の描写
「新世紀エヴァンゲリオン(1995)」以降、電柱・送電線という僕らの身近にあるディテール・カットを挿入するアニメ・漫画は多くなりました。電柱等の人工建造物は、「(少なくとも日本人にとっては)身近なもの」という点で、現実世界へのパスポートのようなものであり、作品への没入を容易くしてくれます。またそれが持っている「不変性」というものは、心情描写に役立つ演出的な要素でもあります。ここでいう、「不変性」というのは、時刻が変わろうが、閑散としていようが騒乱していようが、いつもそこにある変わらぬ景色という意味です。つまり、比較対象としての電柱等の人工建造物は、キャラクターの感情に囚われない唯一の存在であり、そのおかげで僕らの心情理解はもっと深くなることができるのです。
漫画からアニメへ、変換的な演出
原作にはない、アニメでの演出。いわば、アニメでの変換的演出は、とても冒険が必要です。なにせ、そのカット・表現はアニメで初登場するのであり、アプローチを間違えると瞬く間に台無しになります。ここでは、有馬公生の過去を有馬目線(=モノトーン)で表現しています。これが素晴らしかった。このシーンは、「僕にはモノトーンに見える」というセリフを引きずる必要性があるし(モノトーンに見える原因の一端だから)、それを分かった上での意図的で冒険的な演出が僕にはたまらなく嬉しく感じられました。よもすれば、画一的になりがちな現在の深夜アニメにおいて、勇気ある演出でしょう。これを「手抜き」などと無粋なことを言う輩は、映像の何たるかを分かっていません。
緻密で詳細なディテールの表現
ロングショット(1枚目)
ここでは、美術のディテールとセンスが発揮されています。キャラに無駄に寄らない、絵を映さないことで、想像力を喚起させます。全てが制作者の主張で作られると、想像力が入り込むスペースがなくなり、窮屈になります。アクセルペダルのあそびと同じですね。
全セルでの散らばった本類(2枚目)
細かい。これは特撮作品でも言われることですが、リアル・写実性というのは、細部の緻密な描写の積み重ねで発現します。ここでは、本やダンボールが全てセルで書かれていることが分かります。そして、ホコリを被っているピアノ。この1カットだけで、長い間使われていないピアノを理解することは難しくありません。
全セル机、教科書(3枚目)
これも2枚目と同じく。机が全セルだけではなく、机の中の教科書まできちんと描いてる。細部の積み重ねによって、どんどんとリアルになっていく。
ピアノCG
これは、咲-Saki-CG方式といっていいのかな。手元を中心に映す時のみ、CGに移行して、それ以外は手書き。有馬少年の一連のピアノシーンは、どこからどこまでがCGなのか少し微妙なくらい、完成度高いですね。鍵盤と手元だけが映ってるシーンは間違いなくCGなんですけど、違和ないですね。何でだろう。
まあ、こんなとこです。
これは原作単行本でハマりまして、そしたらすぐにアニメ化という感じで。
監督はイシグロキョウヘイ、キャラデ・総作監は奥さんの愛敬由紀子。
制作は、A-1Pictures。
過度な期待というのは、原作付きでは決してしてはならないもので(※アオイホノオでも散々に言いましたが)、昨今の失敗例が頭の中をぐるぐるしていて、この「四月は君の嘘」も例外ではありませんでした。最初のキーヴィジュアル発表のときは、少し妖艶すぎないか、これ大丈夫かなんて思ったりもして、結構心配でした。
(第一弾 キーヴィジュアル)
もうね、今季ナンバーワンだと思います。こんなにパワフルな作画で、ギャグとシリアスのバランスがとれた演出、ホワイトバランスの感じ、そして、音楽の表現、ピアノCG、電柱・送電線の感じ。たまらん、たまらん。(※あまりに長くなったので、そのあたりの話は後半に回しました。暇な人だけ読んでね。)
あらすじ
主人公、有馬公生は神童と呼ばれ、数々の賞を総なめにした天才ピアニスト、ついたアダ名が「人間シンドローム」。そんな有馬は、ある時を境にぷっつりとピアノを止めてしまう。そのまま、中学2年生になった有馬の前に1人のヴァイオリニスト、宮園かをりが現れる。動き出す、有馬公生の青春、14歳のピアニスト。
というわけで、まあ内容は全部知っております。
ですが、アニメを見て感想を求めている方が訪問すると思うので、僕も順に追っていくことにします。ただ、原作等のネタバレは感想に必要であれば少ししてしまうかもしれません。その辺はご容赦下さい。
宮園かをりの1人歩き。ここでの黒猫はただの黒猫かもしれないが、漫画原作では、有馬の内面に黒いネコがいる。というか、有馬は元々黒いネコを飼っていたが、有馬を引っ掻いたため捨てられた。そういう「罪」の意識の顕在化であるのが、黒猫であるので、これはおそらく、有馬という寂しい黒猫との出会いを示唆するもの。
オープニングアニメ。OPコンテ・演出を担当したのは、中村亮介。最近でいうと、「ねらわれた学園(2012)」で監督を務められた方です。後は、「あいうら(2011)」ですね。「ねらわれた学園」は、細居美恵子の作監による色っぽさというのもあるんですが、中村監督に依拠する部分も大きく、このOPでもそれが存分に発揮されています。色調の感じが凄くいいですね。
特にここが最高に良かった。
柔らかい色調の画面で、TB。そして髪のリアクション。穏やかな風が吹き込みながら、穏やかな時間が流れていることがとてもよく分かる。舞う花びらもディテールアップに貢献してる。
有馬公生の少年時代の回想。機械的なムダのない動きが描写されていて、少し不気味である。いや、不気味ぐらいがちょうどいいのだろう。有馬にとっては、おそらく辛い時期であったろうから。
そうして、現実の時間へと繋がる。友人2人。椿と渡。この「男2人女1人」の構図は、たとえば「時をかける少女(2006)」のような、友人なのかどうなのか曖昧な関係を生むような気がします。まず現実では僕は殆ど見たことはありませんが。幼なじみが進行していくと、「恋」という感情が曖昧なものになって輪郭がおそらくぼやけます。
椿との帰り道。Aパート最後。モノトーンとカラフルという見え方の違い。椿の声で再三に渡って流れますが、つまりは、立つ所によって全く景色が一変するということ。ここでは有馬はそれに懐疑的というか、諦観的というか。決して気取ってるわけではなく、本当にモノトーンなんでしょう。ピアノが弾けなくなった自分に対する、存在意義の無さとか、意味の欠如とかそういったもんを感じてる。
ピアノの再開を促す椿と有馬の会話シーン。「音の確認してただけ」「バイトだから」と色々弁明をしていますが、これは確実にピアノに対しての未練とそこに纏わりつく様々な感情から目をそむけてるから。そらまあ、この後を見れば当然と思えます。ところで、このシーンにおける、椿の心情とはなんでしょうか。もう既に恋心は発生しているんだけど、それに気付いてないだけというのは分かるんだけど。母性からくる本心(悪い言い方をすれば、お節介)という感じなんでしょうかね。
少年時代の有馬と母親。ストイック、というレベルを超えた、病的なレッスン。そして、そこに潜む暗い影の描写のために、こういった画面にしてる。その次で手袋をしながら寝てるのは、「未練がある」というよりも、有馬の中に根付いて離れない習慣・日課のような気がします。そっちの方が自然ですよね。
宮園かをりとの出会い。劇中曲は、「天空の城ラピュタ(1986)」でパズーがラッパで吹いていた「ハトと少年」。ここでは、宮園かをりがピアニカで演奏してる。DFかフォギーか明度を上げてるのか分かりませんが、ちょっと眩しめの画面に。これは当然、有馬目線での印象なんですね。一目惚れ的な。
友人A、ホールへと走って行く。ここのスロモ感良かったです。そんで、宮園かをりの有無を言わせず、連れて行く感じがいい。理由とか説得とかしてもここでは無駄なんですよ。百聞は一見に如かず。「オレの歌を聞けー」じゃないですけど、もう「感じることが全てで、それ以外は蛇足」って分かってるんですよね。宮園かをりは。ここらへんも、女の子の方が少し成長早いというリアル感あっていいです。
それでは、映像面へ。
作画に関しては、A-1だしそんなに期待して無かったんですが、良かったですね。というか凄く良かった。特に、走り・歩き作画は全部レベルが高くてすごすぎた。河野、げそ、伊藤、小島さんと。
特にすごかったと感じたのは、この4つぐらいかなあ。
OPのの1カット。滑るまでの芝居、滑った後、上に持ち上げようとするときに足にも力が入ってることが分かるのがいい。リアル感増す。
歩き・走りはどれも素晴らしかったんだけど、これがメチャクチャ良かった。ここでは宮園かをりがカワイイ振りをしてるシーンなんだけど、その表現が、例えば振り振りする手であったり、歩幅の狭い小刻みな走り方であったりに如実にあらわれてる。ここ誰でしょうか。すげえ上手い。
これは風に飛ばされた後の舞う帽子。桜のディテールアップもそうだけど、滞空してる感じがすごく良かった。ふんわりと穏やかな風に流されてる感じ。
これは上手くスクショできなかったんだけど。まずは、奥2人の動きに注目。やけにぬるぬるしてて、2コマっぽい。左の椿の膝でクッションしてる感じの跳び方や、渡の小刻みな芝居も凄くいい。(これロトスコくさい、逆にロトスコじゃなかったら凄技ですね。)手前の2人は3コマだけど、こっちも中々にいい。有馬の強引に連れていかれてる感じが、手のぶらぶら加減と、もつれそうな走り方で表現されてて素晴らしい。
こっからは、うだうだとアニメ「四月は君の嘘」の映像表現について、色々語ってます。ちょっとメンドウな内容もあって、分かりやすいように書いてないので、読みたい人だけどうぞ。
デフォルメ(漫画的誇張表現)
大抵の作品は、アニメ化しちゃうと漫画的誇張表現、つまりデフォルメの部分がどうしても削られてしまう場合が多いです。作画的な配分とか、作品全体の絵の均一感を保ちたいとか、単純にデフォルメというものを挟む考えもないとか、そういったことだろうと思いますが、とかく原作の良さは失われてしまうわけです。
アニメ化とは、作品の再表現であり、それがとても困難であるということはいつか言及しました。当然、漫画的表現をそのままアニメでやったら、妙なぎこちなさが出てしまったり、とにかく「失敗」とみなされる場合も多く、前述のとおり保守的な作品は少なくありません。今作は、漫画的表現を半ば冒険的に・積極的に使用しながらも、デフォルメとリアルのバランスを取るのが非常に上手い、と感じています。2014個人的イチオシであった「ズヴィズダー」と同じくらい、いやそれ以上に優れているといっても過言ではありません。
電柱・送電線(人工建造物)の描写
「新世紀エヴァンゲリオン(1995)」以降、電柱・送電線という僕らの身近にあるディテール・カットを挿入するアニメ・漫画は多くなりました。電柱等の人工建造物は、「(少なくとも日本人にとっては)身近なもの」という点で、現実世界へのパスポートのようなものであり、作品への没入を容易くしてくれます。またそれが持っている「不変性」というものは、心情描写に役立つ演出的な要素でもあります。ここでいう、「不変性」というのは、時刻が変わろうが、閑散としていようが騒乱していようが、いつもそこにある変わらぬ景色という意味です。つまり、比較対象としての電柱等の人工建造物は、キャラクターの感情に囚われない唯一の存在であり、そのおかげで僕らの心情理解はもっと深くなることができるのです。
漫画からアニメへ、変換的な演出
原作にはない、アニメでの演出。いわば、アニメでの変換的演出は、とても冒険が必要です。なにせ、そのカット・表現はアニメで初登場するのであり、アプローチを間違えると瞬く間に台無しになります。ここでは、有馬公生の過去を有馬目線(=モノトーン)で表現しています。これが素晴らしかった。このシーンは、「僕にはモノトーンに見える」というセリフを引きずる必要性があるし(モノトーンに見える原因の一端だから)、それを分かった上での意図的で冒険的な演出が僕にはたまらなく嬉しく感じられました。よもすれば、画一的になりがちな現在の深夜アニメにおいて、勇気ある演出でしょう。これを「手抜き」などと無粋なことを言う輩は、映像の何たるかを分かっていません。
緻密で詳細なディテールの表現
ロングショット(1枚目)
ここでは、美術のディテールとセンスが発揮されています。キャラに無駄に寄らない、絵を映さないことで、想像力を喚起させます。全てが制作者の主張で作られると、想像力が入り込むスペースがなくなり、窮屈になります。アクセルペダルのあそびと同じですね。
全セルでの散らばった本類(2枚目)
細かい。これは特撮作品でも言われることですが、リアル・写実性というのは、細部の緻密な描写の積み重ねで発現します。ここでは、本やダンボールが全てセルで書かれていることが分かります。そして、ホコリを被っているピアノ。この1カットだけで、長い間使われていないピアノを理解することは難しくありません。
全セル机、教科書(3枚目)
これも2枚目と同じく。机が全セルだけではなく、机の中の教科書まできちんと描いてる。細部の積み重ねによって、どんどんとリアルになっていく。
ピアノCG
これは、咲-Saki-CG方式といっていいのかな。手元を中心に映す時のみ、CGに移行して、それ以外は手書き。有馬少年の一連のピアノシーンは、どこからどこまでがCGなのか少し微妙なくらい、完成度高いですね。鍵盤と手元だけが映ってるシーンは間違いなくCGなんですけど、違和ないですね。何でだろう。
まあ、こんなとこです。
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