GOMISTATION

足が絡まっても、踊り続けて

カテゴリ: マンガ(YJ中心)


ギャンブル漫画において、僕らが快感を抱く、面白い、すげえと思う部分とはどこなのか。

そのほとんどって、賭けに勝って大金を得たことより、主人公の思考・行動が勝利に至る過程なんですよ。小さな観察を何個も積み重ねて、勝てるように絞りに絞っていくけれども、それでもどっちに転ぶか分からない選択肢がある。そこで初めて、「何かに賭ける」という行為になる。この過程をすっ飛ばして、最初から賭けるのはただの運否天賦であり、ギャンブルジャンキーです。

この構造は、「嘘喰い」における「ハングマン編(廃坑のテロリスト編)」が分かりやすいと思うんで、順を追って説明していきたいと思います。


1、ギャンブルの説明
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ハングマンにおいては、ババ抜きが採用された。ババに書かれた数字だけ、ハングマン(首吊り機)の工程(全11工程)が進んでいく。当事者同士に発覚しないイカサマは不問。





2、思考の流れ/状況を、いろいろな角度から描写する


Ref01、先手後手を決めるじゃんけんの描写
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何かに違和感を感じる獏の姿を描写する。その一方で、第三者の視線として、梶の感想を入れる。



Ref02、ミスリードを誘う、第三者の描写


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(第5巻、最初のババ抜きで負けた直後の嘘喰い側陣営)

ギャンブルの当事者だけではなく、第三者からの思考も入れて、ミスリードを誘う。ここでは、梶の考え=獏の考えのように見せかける。獏の狙いは、まだ分からない。読み手側に色々と考えさせる。梶を通して描写することで、「ここは獏にとって重要な行為」ということを気付かせる。隠さない。



Ref03、繰り返し
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(画像右:3連敗し後がない状況の獏の手)

指でトントンする描写を何度も繰り返す。繰り返すことによって、それがただの苛つきではないと印象付ける。ただ、これが「何をしているか」までは分からない。絶妙な塩梅の描写加減。



Ref04、敵陣営の思考描写
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(同5巻:2戦連続、獏が勝った後の敵陣営)

敵の思考が混乱している様子を描写する。全ては、まだバラさない。「アレ」や「コイツのおかげで…」とぼやかすことで、何のことを指しているか不明瞭にする。ヒントは出すが、答えは出さない。それが、読み手に「何のことについて言っているのか?」を考えさせ、没頭させる。



3、ネタバラシ

ここまで書いといてなんですが、やっぱ読んでもらいたいので、ネタバレしない笑。全ての描写が大事であって、こんなちょっとした引用では伝えきれない。「ハングマン」においては、2段階のネタバラシでした。一度目は、勝負中に堂々とネタバラシをし、ああ、そういうことだったのか、でも、どうやってそれを可能にしているのか、まではバラさない。そして、勝負が終わった後に、全貌のネタバラシを行う。

読み直すと、「この描写も、あの描写も全て結びついていた」となるのが気持ちいいんですよ。勝つために何を行っているのか。イカサマをしている方は、それがバレないようにどのように振る舞っているのか。それが、ネタバレにならない程度の範囲で描き、読者にある程度の情報を把握させ推測させる。

全て分かってしまうように情報を描写しては冗長になるし、まったく描写しないのは後付になる。情報の小出しは、ギャンブル漫画の要ですが、こと「嘘喰い」においては、それが大胆なときがある。全て描写されているのに気付かない、しかも、それがミスリードやブラフだったりする場合がある。ここが「嘘喰い」において、最も感嘆するところです。


同じような構造は、「銀と金」や「カイジ」などでも見受けられます。ギャンブルの説明を行い、主人公が、それにもとづいて観察を行い行動をする。何かに気付いたときには、それをコマに入れて、描写する。主人公に、少し遅れてついていくぐらいの描写加減。で、最後に、ネタバラシをする。これが、まあ、一般的というか、自分が読んできて面白かったギャンブル漫画の流れです。

とにかく言えることは、まず1つは、主人公が観察している、何かに違和感を感じている、それらの描写がないと最後のネタバラシには意味がありません。2つに、この塩梅が非常に重要です。全て開陳してしまえば、もはや読者にはそれ以降の展開が手に取るように分かり、退屈になってしまう。まったく描写しなければ、意味不明、後付のように感じる。

以上の2点が、ギャンブル漫画において、まず最も重要と考えています。


キャラクターの絵に特別なこだわりはないんだけれど、どうにも羽海野チカ絵(特に女の子)は苦手で避けていた。ただ、うちの親が絶賛しており(なんとアニメまで見ていた精力的)、はよ読んでみんしゃいと急かされダンボールで送られてきたので、読んだ。徹夜しました。



まず最初に思ったのが、複雑な状況を何個も作ることで、読者もその状況下にいるように感じさせるところが一つの魅力だ。零くんの将棋のこと、そんで川本家のこと、ひなちゃんのこと、幸田家のこと、学校のこと、これらを同時に進行させていくので、頭がそれに集中して、没入していく。

この複雑な状況をよくこんがらないように作って描いたのがすごいなと思った。まるで、混線したケーブルをゆっくりと解いていくかのように、一つ一つの問題にたいして、その場しのぎの対応ではなく、根本から地道に向き合おう、という作者の覚悟が心に響いてくるようだった。問題にかんしても、すべてきれいには解決されない。

たとえば、川本家の中学校でのいじめ事件では、被害にあった、ちほちゃんは最後まで後遺症を抱えたままだった。これがマンガっぽくなくて、面白かった。現実と同じような、時間の進み方で、そんなに簡単に心は治らない。だけれど、フィクションらしく希望もあって、その塩梅が良かった。いじめた方の女子も、単純な勧善懲悪で裁かれるのではなく、地道な話し合いの末に、学年主任によって、「自分で気付くしかない」とされ、放置された。裁かれるのでもなく、(なにか偶発的で)短絡的な罰を受けるわけでもなく、放置されたので、ああ、これはリアルだなと感じた。

このマンガの主題は、もつれにもつれた問題や自分の心に「向き合うこと」にあるように思う。表面的に解決を図ったり、誤魔化したりをいっさいしない。これが最大の魅力だと感じる。その点でいえば、川本父の登場とエピソードには少し疑問が残る。彼は極めて単純だからだ、他のお話のように、もつれていない。このキャラクターを出すことによって、何を描きたかったのかがいまいち分からないのだ。単純に、ひなと零くんとの間に婚約フラグを立てたかったため、とは思えないから、もう少し考えてみることにする。


島田先生がかっこよすぎる(2回目
キャラクターはまったく違うけれど、まるで「天」のアカギみたいだ。


さて、3月のライオンを読み終わった。4.5巻が一番面白かったなあ。今は主人公は底を抜け幸せ街道まっしぐらなので、重たいエピソードを拾っていくんだろうか。


その残すメインは、姉・香子とのエピソードだろうな。意図せずとも養子の方が可愛がられ、捻くれてしまった凡人の屈折がどういったところに着地するのかという部分は最大に気になる。彼女は歩よりも将棋について、未練があった。未練があったけれど、父親から将棋は諦めろと言われた。側では、養子として自分よりも優秀、かつ両親に愛されている零の姿がある。これで屈折しない方がおかしい。

彼女が、凡人として、辛かった幼少期の問題について、どういった風な決着をつけるのか。それが描かれるのが、物語としては大きな部分となるような気がする。まあ、どうなるかはまったく分からんが、11巻ラストでは零はひなたに婚約を申し出た。過去に”家庭をめちゃくちゃにされた”という感情が強く残っているとしても、後藤とのエピソードを見る限り、どうにも荒らそうなどとは思えん。



あと、クズの見本として川本家の父親が話題になりましたが、実際のところ、この漫画における、一番のゴミクズは幸田母です。幸田父も半分入る。歩や香子は将棋の家庭に生まれて、厳しく育てられたのにもかかわらず、零に自分たちの存在意義や家庭における立ち位置を奪われてしまった。だから、彼らの零に対する憎悪というのは、この上なく理解できる。歩が描かれないのはちょっと謎ですが(※2人描くのはキツイから、姉の香子に託したのかもしれない)。

幸田母は、零が家に戻ってきたときに、当時を回想していました。零はいい子だった、自分たちの子どもはどうして上手くいかなかったのか、自分はできることがなかった、と結論を出している。


その10巻Chapter97は相当に胸糞悪い。

「居間が凍りついていただろう、ほっとした」
「(心配していることを口に出せず)この子の表情は柔らかい、大人になった」
「まだ歩は子どもなのに」

零が帰ってきて真っ先に考えたのは、零の状況ではなく、家庭の雰囲気。半ば強制的に家から追い出したくせに、「大人になった、向かい合ってくれる」と独白する。零に対する後ろめたさすら、言葉に出して謝罪できない。自分の子どもに対しては、まだ成人前にもかかわらず、もう将来がないかのような扱い。


この時点で、だいぶイライラしてたんですが、決定的なのは最後のコマで、

「零が自分の子どもであった(普通のこどものようだった)夢を見て、ほっとした」


ここでダメだった。極端にいえば、幸田母は平和に暮らせたら、子供とかどうでも良かったんですよ。

幸田母の思考には、子どもなんてのは、そもそもある程度は堕落するのが当たり前というのが根底にあって、本来は香子と歩の存在を許容するはずだった。けれど、零の出現によって、香子と歩が相対的にひどくダメに見えるようになった。で、子どもたちが反抗して家庭が崩壊した中で、辛い思いを抱えてしまい、許容できなくなってしまった。それが、「子育てに失敗したのかな」「歩はまだ子どもだ」という独白に発露している。

零に対しての目線も、「いい子(家事も手伝う、棋士としても素晴らしい)だった」という無責任クソ親なだけだったらまだ良かったんですが、上記のセリフから、「堕落してない零が悪かったかもね、もっと普通に堕落してくれていたら楽だったのに」と読み取れる。楽だったというのは、当時の家庭の崩壊はなかったかもね、あー子育てってしんどー、と解釈できる。零に対しても、こいつ「いい子すぎて邪魔だなあ」という、まったく逆の感情があったと思うんですよね。つまり、子どもたちの態度がバラバラだったことで、歪みが生まれ、冷え切った家庭の中において過ごした、自分への同情が強く残っている。なんやこいつ。

これ矛盾しているように見えるんですが、2パターンの場合に分けられて、

(1)子ども全員が、零みたいだったら良かった
(2)子ども全員が、堕落してたら良かった

こういう感じなんですよ。つまり、平和だったら何でも良かったという感じで、子どもたちに対しては「心の弱さに負けた」、夫に対しては「専門分野だから任せた」と、自分は悪くないと言い聞かせている。主体性のなさ、責任感のなさに呆れて閉口。川本父なんてのは分かりやすい悪でカワイイもんですよ、幸田母のほうがきつい。


と思ったら、既に書かれていた。やはり多くの人が思うんでしょうね、あれは。

「三月のライオン」に見る毒親からの呪縛


【追記】
父親は将棋一筋のバカですから、歩や香子に、他の道を探したあげることができるのは、幸田母1人だけなんですよ。彼女しか子どもたちを守ってあげることはできないんです、結果がでなくても、そこまでの過程を褒めてあげれば良かった。他の道の可能性を示してあげれば良かった。少なくとも、「なんでうちの子はいい子に育たなかったんだろう」みたいなことは、口を割けても言ってはいけない。子供の教育を放置して、自分の幸せや気持ちを優先させる。勝手に育ってくれたにもかかわらず、迷惑をかけた零に対して謝罪もできない。だけれど、いい母親でありたいという体裁は残す。こういうのが、本当に虫唾が走る。


まあ、まだ物語は終わっていないから、この姉弟についても描かれる予定があるのかもしれない。それが楽しみだなあ。とにもかくにも、島田先生はかっこいいです。かっこよすぎて困る。

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