「批判すると仕事がなくなってしまうから」というなんともジャーナリズムにあるまじき情けない理由で、批評活動は、今日において日本内アニメに対してほとんど行われていない。それでもなお、「なんちゃって批評家(実情はインタビュアーだろうな)」を褒め称えて、かれらの仕事を評価したために、アニメ・漫画映画からは批判性質が失われた。これは、しみったれた前世代的な「知識量を権威」とみるところに起因する。つまりは、たくさんの知識を所有しているから権力がある、という風潮は未だに根強く存在しているのだ。目の前の箱や板によって差異が少なくなったにもかかわらず、知識の所有の優位性(「あの作品にはこんな裏話があった!」という態度)にいまだ強引に縋り付いているのだ。知識優位的権威の姿勢は、批評から批評性を奪い映像評論を成り立たなくした。同時に、批評することによって得られる体系化もされてこなかった。

つまり、いま僕たちが見ているアニメは、どのような風に地続きになっているのか、だれもかれもさっぱり分からないのだ。体系化など微塵もしてこなかった。そして、一部のみが、その地続きを所有している風に見せかけており、あるときは隠したり、あるときはまるで全て把握しているかのごとく喋ることで権威を維持している。眉唾ゼロ年代批評もその一部である。「なにか賢そうなことを言っている」という、逆説的な知性のなさに、批評性はまったくとして必要とされなかった。そこに、「知性がありそう」と思わせるだけでアニメオタクを錯乱させるのには十分だった。

現状、地道に良いところ/悪いところを列挙しても、「悪いところ探しをするな」と言われる事態だ。比較分析すれば、「好きなアニメを持ち上げるために、別の作品を持ち出すな」と予想外の家から投石が届く。この国民に批評は早すぎたとしか思えない。ひとたび意見すれば、否定と勝手に誤った認識を起こし拒否を行う。否定と批判と、嗜好と分析、主観と客観の区別がつかない。そんな論理性が欠けた国民であるがゆえに、アニメ批評の土壌は育たなかったし、これからも作られることはないだろう。


さあ、「知識を捨てよう」といっても受け入れられない。なぜか。知識こそが彼らのアイデンティティであり、彼らの自尊心を支える石杖だからだ。それを捨ててしまっては何もできないのだ。なんと情けないことか。かれらは汚くなってしまった十二単を脱げない平安貴族である、さて脱ぎ捨てて楽になろうと言ってもなれない。なぜか。それが、彼らにとってはステイタスであり常識だからだ。腐り果てるまで、十二単を脱ぐことはないだろう。

知識は楽しむもので、知識ありきの態度を他人に押し付けるものではない。所有していないと駄目なものではない。クリエイターのインタビューなど、眉唾ものでその発言は信じるに値しない。いちばん大事なのは画面である、それだけ。そんなシンプルなことを5年続けても、ほとんど伝わっていないと思う。「画面を楽しむこと」はひっそりと忘れ去られている。副産物であるクリエイターの裏話などが主たる”批評”になっている。未だにあのようなエセ批評家どもの文章を読み、文章やコラムに金を払っているのがその証左であり僕の憎悪だ。はっきり言ってしまえば、ぼくはアニメを見る習慣などない。アニメを見ない理由にとくだんのものなどない。だからこそ、ほんとうに偶然別の角度から入ってこれたと考えているが、これだけ多くの人間に本当の意味での思考や寛容のなさを感じると辟易する。

いつまでも親鳥のエサを待つ小鳥のようだ。

知識満点のステーキコラムを読み─
それらしい要素が散りばめられたエッセイを読み─
汚いコネ知識に金を払い─
とんでも理屈に感銘を覚え─
いっけん賢そうな論壇を真似していく─


そうしていつまでも、本質たる画面を置き去りにするのだ。画面の技術やクリエイターを「わからない/知らない」と言えない社会は息苦しい。気軽に教えてもらえない雰囲気が漂う社会はつねに苦痛で嫌気が指す。「知っていて当然/知っているべきだ」という態度や前提がいかに多くの人を遠ざけているか、諸氏は自省されたい。

クリティックの存在しないアニメ言及は成長せず、フィードバックもないので、アニメそのもののクオリティも向上しない。脚本家は推敲を繰り返し、原画マンは不眠不休で働き、動画マンは貯金と命をすり減らし、制作進行は何人も過労で倒れる、そうやって作られた作品自体の批評をさして行わないのだ。異常ではないか。現場を考慮して同情的になることは、むしろ彼らにとって侮辱的ではないか。彼らの労力をただ称えたり、彼らの血反吐に前時代的な拍手をし感動ポルノ化させ咀嚼するのみが僕らの役目か。きわめて懐疑的にならざるを得ない。

本当に評価されるべきクリティックは評価されずに、ネットを漂っているばかりで見ていられない。アニメーションという素晴らしいものはあっても、この国にはそれは早すぎた。いち映画監督である山本寛が、前述した批評家たちなどとは比類しない批評的文章を開陳できる現状は正直に言って異常というほかない。


[追記]
わかりにくいのは僕の文責なんで、チラ裏はどっか他所でどうぞ。ゼロ年代批評のあの賢そうな文体は嫌いな人も多そうだから反発する気持ちは分からんでもない。ああいう感じを皮肉ったつもりだったんだけど、後出しじゃんと言われたらそれまでだねえ。そこはすまんごねえ。というか、表面はどうでもいいです、内容の批判なら受け付けますよ!議論しましょう!