GOMIstation

2025-1

カテゴリ:感想・評・レビュー等 > アニメ批評

( ^ω^)神様に返信するわけではないです。
( ^ω^)こんかいは言葉を調べる時間がないのじゃ



さいしょに。細田作品は例年ジブリとならんで作品公開前に放映されることが多く。とくに大ヒットした「サマーウォーズ」の後、それはそれは大変な期待をもって迎えられた「おおかみこどもの雨と雪」がなんと賛否を分けてしまった。そのために、初稿から8年経つ今でもコメントをもらう。

8年もだぞ8年。どういうこっちゃねん。まあ、これは残念ながら、その後の細田作品が世間が期待したほどではなかったこと、が影響しているんでしょうね。ぶっちゃけサマヲの時にはポスト宮崎駿、これから最高の作品が続いていくだろう、みたいな大きな期待に包まれていましたので。無敗の三冠馬だけど、春天にも宝塚にも出ないコントレイルかな?

はじめまして。
さきほどまで金曜ロードショーを見ておりました。
一言でいえば、つまらないという感想です。

もぞなぎぃさんのコメントにもあるように、1*児童相談所の訪問を悪として描かれていることに強烈な違和感を覚えました。
あの場面では、虐待や育児放棄が疑われてもおかしくない状況だと感じましたが、児童相談所の職員が無表情で、母親を追い詰める存在として描かれているのが不快でした。

また、転校生も雪にしつこく迫り、勝手に怪我をした割には、その点についての言及はなく「おおかみがやった」という中途半端な言い訳をしている点も不満でした。

「おおかみこどもの雨と雪」が面白くない理由
http://royal2627.ldblog.jp/archives/35843350.html



1*
不満点、おおいに同意。
でも、コネとポジショントークしかない、ジャップpoop批評家たちはこれを細田の家族愛の描き方(※噴飯物ですよ)としてみなしたりして鋭くツッコミをしない。分析もしない。構造を考えたり、どのようなものなのかを想定もしない。ここに無思考きわまれり。もっと批評家たちは批判的になれ。当たり前のこと言わすなや。バチバチで戦えよ、クリエイターと評価する側は馴れ合うな。ファック。

(;´Д`)ハァハァ
ふう…失礼( ^ω^)

繰り返しになりますが、金ローで細田作品が放映されるたびに、コメントをいただくことが多いです。エヴァも同様。


「おおかみこどもの雨と雪」はやりたいこと(※世界はとても理不尽で、狼が事故にあったりするのはごくごくあたりまえのこと。そして、その流れの中で生きていくしかないのである)は分かるけれど、それに見合ったことはできなかったという印象。もう正直覚えてねえ。


いちばんは、世界を操作しすぎた感が強い。操作とはなにかというと、児相を露悪的に描きすぎたり、「田舎の頑固者のジジイが実は優しくてマジで田舎幸せハッピー!」ってやりすぎた部分がそうです。これって、そのとある共同体や組織の”良い・ポジティブな”側面(※ないしは、それが過度に誇張されたステレオタイプ;田舎の人・しわくちゃなおばあちゃんは優しい、都会の人は冷たい、ツーブロックの営業マンは怖い)だけを抜き出しているから気色悪く映ってしまうんですよ。

インスタグラムやSNSを皮肉る画像があるじゃないですか

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(※スペイン出身のラファエル・アルヴァレス氏によるもの)


構造としては、これと同じですよね
投稿だけを見ると、このひとはとてもハッピーそうだけれど、隠された苦しみがある。そういうのをすべて排して、幸せの切り抜きを投稿しているよねっていうのがこの風刺画です。もちろん、人生上ではかならず苦しみも嫌なこともある。

そんで、「どちらかの側面だけを全力で抜き出し・誇張して演出すると、めちゃくちゃ気色の悪い映像になるんだね!」ってことが分かったのが、おおかみこどもの雨と雪の一つです。だから、これは演出ミスなんですよ。内容もそうだけれど、演出の割合が大きいとおもう。

世界を操作しすぎると、中立的にこのフィクションの世界が回っているとは思えない。この世界になにか、世界の外から力が働いているように思う。それが作劇では面白くなくなってしまう部分です。

つまるところ、これは、ご都合主義です。
細田の好きな世界で人形劇が行われているにすぎず、ぼくらを渡った普遍的な世界で描かれていない。

「ご都合主義だよね~」と感じる大半は”世界の無理やりな操作”です。


これはこの前の「エンジェルビーツ」でも同じく。露悪的にやればやるほど、描きたい状況・対象はフラットではなくなります。露悪的に描くことのデメリットは、その対象となる出来事など、たとえば児相、たとえば試験に向かう前の悲惨な列車事故、それらに「必ずこの感情を抱かせる」という強迫観念じみた演出になってしまうこと。いったいだれが、それでフィクションに没入することができるんだ?


理不尽の見せ方というのは、道端で人が死ぬのが画面端に映っても、主人公たちはべつだん気にしない。画面もわざわざそれをピックアップしない。とうぜんのことなのだから。それがとうぜん救いではなく苦しみではあるけれど、もはや慣れてしまった。そういうのが理不尽な世界の作り方なんですよ。わざと痛いところを見せない。

けれど、想像はさせる。エヴァのケーブル焼くところの叫び声とか、ですね。つまるところ、これは演出が上手くいっていないということではないですか?

ぼくらは新宿のヨドバシとかに行く時に架線下高架下のホームレスを目の端に入れますけど、過度にピントをあわせたり、それにフォーカスをあわせたりしないでしょ?だから、あれは仕方のないことだ、と自分たちがそう了承しているわけですよね。そういうのが理不尽の基礎です。

細田守は、この「おおかみこどもの雨と雪」という作品で、「世界の流れには人間は逆らえない」、みたいなことを描きたかったらしい。けれど、それは演出的に失敗してしまった。それだけのことです。

ようやくアニメリハビリも始まりまして、なんと2本もテレビアニメを見ました
・Angel Beats!
・神様のメモ帳→(別記事で、いやどうだろう?)
以上の2本です( ^ω^)



周回送れもいいとこだな!(^ω^)

*Angel Beats!(2010/TV)

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監督:岸誠二、脚本:麻枝准
会社:P.A.WORKS


AIRから逃げても、Keyアニメはおれを追いかける。
(※Key絡みとは知らんかったわ…)
タイトル、天使の鼓動?、鼓動ってなんだ、とずっと考えてた。OPもなんか知らんがずっと天使ちゃんはピアノ引いてるし。天使ちゃんの心残り出てこねえし。でもまあ、これはラストで、心臓移植かあ、ということで、やられました。なるほどなあ。そこが引っかかっていたけれど、推測はできなかった。うまいですね。

主人公の人生回想の保険証のサインあたりで察することなんでしょうが、あの辺は露悪的、なんというか、まさしく人生は理不尽で、かれがなにをしたところで世界はなんにも忖度しない。それどころか、救出が間に合ったのは、尽力した彼以外の人物たち。運悪く、かれは後一歩のところで間に合わなかった。という世界の残酷さ(※もっというと、世界はかれを殺すことに加担している感じまである)が、鼻について、あまり見ていられなかった。世界が中立じゃない感じがする。

終盤の影のあたりもすごく好き。天使ちゃんとの抗争も一段落ついたところで、この世界にまた別のエネミーが現れる。天使ちゃんということは、直井くんが連呼するような”神”的な存在がいてもおかしくはない。それが身内にいても。そういう風に考えながら見てました。ミスリードだったような気も。

結果的には、#12で「この世界に愛が現れたら、起動するプログラム」がモブを影に変えて、人格を保っている人々を飲み込むようにしました。んで、これは、愛を知って先立たれた恋人をひとり待ち続けていたとあるプログラマーによって作られ、防衛装置として働いた。「愛を知ると、この死後の世界は永遠の楽園になる」というのは、人格を保ったまま青春をループするってことなんでしょうね。それは楽しいけれど無意味でしかない。けっきょく、みんな死んでいるのだから。ということ。

ちょっと「ビューティフル・ドリーマー」みたいだな、お前な。さて、ここでゆりっぺがプログラム石田彰と対話するのは、彼女の人生と永遠という概念に対立があるからですね。まさに人生は有限ですが、ゆりっぺの妹たちには極端に時間がなかった。だから、対立の構造がきわだつわけですね。


麻枝准という脚本家は、世界や人生の理不尽さというのを全面に押し出しますよね。そもそも、人生なんてものなんていうのは理不尽の塊だと主張している。それがゆりっぺの妹が10分ごとに一人殺害されたり、音無くんがなんとか人生をやり直そうとしたところで脱線事故にあって、尽力しても死亡したり、その音無くんの心臓を移植した天使ちゃんもけっきょくは死んどるやんけ…ってなる。まあ、ぶっちゃけると、ちょっと見た後の気分はさわやかではない。ラストは納得しただけで、いっさいの感動がない。ミステリーのパズルがはまった感じ。

なんだろう、人工的に作られた、パズルのような感動には、人の感情は動かないんですよ。オタクの感情は動くかもしれないけれど。

世間知らずのオタクは置いておいて、ぼくは世界の理不尽さなんて、こんなに誇張されなくても知っている。で、繰り返されるのは、殺人事件に巻き込まれて妹たちが30分で3人惨殺されたとか、ゆいが生前、首から下がまったく動かなかったとか、人生再起しようとしたところで列車が脱線してみんなをまとめたけど結果的に自分が犠牲になったとか、そういう、超特殊ケースを多く出すんですよ。そういうところが不愉快ですよね、見ていて気分が悪い。


ただ、見ている側を不愉快にさせてでも描き通すということは、書き手にはとても強い主張があるはずです。やはり感じるのは、相反するけれど、人生や世界というのはそれでも素晴らしいものなんだと信じたい、そういうものですよね。世界はいっさいの忖度をしないし、凄惨な事故・事件にあった人を救ったりはおそらくしないけれど、その代わりに人・仲間の絆や世界の運命を信じたい。そういう希望に対して、執着じみたものを感じる。だから、ラストには、来世で天使ちゃんと音無くんが、ガルデモの歌を通じて再開を果たすわけで。あそこは予定調和、出さないといけないシーンだったとはおもうけれど、まあやっぱり嘘くせえなってなったかな。まあでもたぶん、あれが麻枝准にとっての救済なんですよ。


岸誠二はやっぱり、こう雑な言い方ですけど、85点のディレクションをしますよね。「暗殺教室」もそうだけど、あと一歩ずれたら、もう見ていられない作品になりそうなところを上手いこと演出する。他の人がやったら、エンジェルビーツみたいなものは、もっと酷いことになっていると思う。題材の難易度が高い。その代わり105点みたいな演出はない感じ。

この世界の片隅に(2016/劇場)



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片隅でいちばん印象に残ったのは、このカット。爆発から絵の具へにシームレスにマッチカットされていく。荒々しい筆の叩きつけは暴力的に映る。



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放射状に広がっていく焼夷弾


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機銃による攻撃で地面や木が抉られていく。この前後の機銃によって街が傷つけられるシーンは、その削られていくタイミングがきわめて光っていた。




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馬鈴薯だったっけ。この辺のシーンも好きですよ。楽しそうなすずさんがいい。


★★
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PVから大好きなワンシーン。まな板バイオリン。馬鈴薯から楽しくなってきているすずさんを見て、いいカットだなあと。レイアウトが良い。画面右のダブラシ煙や柱が、すずさんに目を向けさせる。つまり、画面の中で、「もうひとつの画面」を作っているというわけです。

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手前の柱やダブラシ煙はそういったために配置、レイアウトされている。




片隅といえば──

やはり、僕にとってはキャラデがすごいなあという映画でした。
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感覚的ですが、頭身が3、4頭身ぐらいしかないのに、なんかうまいこと写実的なアニメになっている。正確には言えないけど、少し頭の大きさなんかが変わっただけで、このカットは成立しない気がする。なんで、これでかわいらしい女の人に見えるんだろうね。


このキャラデも相まって、やはり家の中のレイアウトは相当に工夫されていた
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四畳半の居間に4、5人いて大変に面倒くさそうなレイアウトばかり。二枚目の俯瞰画面は特に良い。こじんまりとした感じの中でも、障子は開いているので、さほど窮屈になってない。レイアウトについては、相当に大変だったと思う。



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すずさんが泣いた理由、怒った理由は、他の人ほど分かってない気がする。すずさんは最後までやり切るつもりじゃなかったのかな。だから、ずっと笑っていたし、はるみちゃんと右腕を失って絵が書けなくなった後も何とかぎりぎりで生きていた。

つまり、よう戦争はしらんけど、こんな中途半端なら最初からやるなという風に、すずさんは思った。はるみちゃんと絵を失った時点で、「最後まで戦い抜く、だからすべてに耐えられた」というすずさんの言葉には偽りなく、そういう思いで生きてきた。たぶん、本当に自分一人になっても抵抗するつもりだった。

と思っていたら、終戦。もう戦えなくなってしまった。なんで、こんなにボロボロになって耐えてきたのか。そんな中途半端さに、激情した。




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この辺は圧倒的でした。ここまで、まったく残酷描写のなかった片隅において、きちんと毒というか、現実を最後にぶっ込んでくるところはすごい。すずさんもとりあえずは幸せになっていくんだろうみたいな最後でしたから、そういう安堵していたところに来ると余計に衝撃が走った。

・「下ネタという概念が存在しない退屈な世界(2015)」
いやあ最後まで楽しめました。アホなタイトルだったんで、アホな世界観なのかなと思ったらそんなことはなかった。ミスリード誘うタイトルで良かった。

故・松来未祐の演技はきわだっていて、アンナの異常さを補助します。彼女のキャラは面白かった。「”正しいことをしていない”から奥間くんは自分を受け入れてくれない。だから”正しいこと”を(=卑猥なものを撲滅)すればいい」という異常さ!でも、奥間くんは狭量だな~。青も言っていましたが、憧れの人の少し嫌な側面みたくらいでそれを放棄するものなのかな。幼少期の自分を救ってくれた人で、あれだけの美少女で、自分に好意をもってくれている。アンナ先輩を諦めるのが早かった印象。だから、奥間くんにとっては、”清楚な”アンナ先輩以外ありえないんでしょうね。もうアンナ先輩ではなかった、アンナ先輩の形をしたなにかだったんでしょう。

あとは風紀委員の存在も面白かった。「卑猥なことを卑猥と理解して、取り締まれる組織」とありながら、認識がコロコロ変わってしまう。その不気味なズレ方は、けっきょく卑猥を理解していない、ということかな。アンナの保護役みたいな感じもしましたが。

「SOX(ソックス)」と「群れた布地」の反体制どうしの対比も良かったです。「群れた布地」は私利私欲のためだけにSOXに便乗するわけですから、まあ最悪ですよね。反体制なのに肩入れできない。「SOX」はテロ行為を行いつつも、致命的なテロは起こさず、あくまで健全に「卑猥さ」を社会に取り戻そうとしているのが良い。セックスは悪いことでも、汚れたことでもないですからね青の言う通り。こすりは父親の不甲斐なさで、(あんな生ぬるいやり方じゃ世界は変わらない!と)過激派になってしまった。最後は、ああこれは間違っていたと悔いていたので父親とも和解できそう。

不破さんすこ。ダウナージト目キャラってだけで、プラス5000点から始まりますね。

3.5/5.0



・「ダンジョンに出会いを求めるのは間違っているだろうか(2015)」
あれだろ?ヘスティアの紐だけなんだろ?と思っていたら、けっこう面白くて驚いた。
僕の勝手な想像では、ヘスティアとベルくんが二人イチャイチャしながらダンジョンを回るのかなあとか思っていたら、予想以上に作り込まれていて驚きました。1、2話のモブ作画とかちょっと異常に思うほど、描き込まれていた。ベルくんがぞんざいに扱われているシーンなので、モブも気合入れたのかな。モブを醜悪に描かないとベルくんの悲惨さが出てこないから。アクション作画もすさまじく、1話の煙から良かったですねえ。8話は三木達也タイミングがあったんで、暇があったら取り上げます。たぶんあそこのエフェクトは三木さんだ。

ところで、ベルくんは天才系なんだろうか?それとも努力系なんだろうか?いっけん努力系に見えますけど、特別なスキルの恩恵(思うだけ思うほど?みたいなやつ)はすさまじく。いやでも、あれだけの修羅場をくぐり抜けた人間を、「天賦の才があったおかげだろ」で片付けるのはダメだね。まあ、ヘスティアよりは、ロキ・ファミリアの姉妹のおっぱいが好きです。そしてベルくんも可愛いねんなあ…鎖骨と肩甲骨がセクシーです。

あとはなんだろう。暴行・グロ描写が良かったですね。地味に痛そうな感じがよくできていた。サポーターのリリルカが足蹴にされているシーンは素晴らしかった。キャラを見て胸糞悪く感じたのは久々でしたので。リリルカのエピソードは良かったですね、ベルくんの一言が至極。あれは救われる。

ベルくんへのヘスティアの愛を丁寧に描いていたのが、おそらくアニメでは珍しい。ここまでヒロインが「一緒にいたい」「ボクのものなのに」とか直接的に言うのは珍しい気がします。いや、下セカのアンナは例外ですよ。あれは異常なので。ゆがんでいない愛情の中で、自分の気持ちを素直に伝える、というのが珍しいとおもう。あ!ヘスティアがベルくんとデートにいくときの格好は、これじゃない感がすさまじかった!!!!服や髪の毛が似合ってなくてあんま可愛くねえ!!!!でも、そのデートっぽいことをしようと背伸びしている感じは可愛くてよかったです!!!!!

おっぱいはロキ・ファミリアのお姉ちゃんのほうが良い。ヘスティアのおっぱいはあれだ、ロリすぎる上に露出が多くて興奮しない。だんだん慣れてきちゃう。そういう意味ではリューさんみたくふだん着込んでいる人のほうがいいですよね。ギャップがある。二期も今夏やるそうで楽しみです(※というか1クールで終わってしまってびっくりした)。おっぱいのことしか言ってねえな。

4.0/5.0

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アイドルを志していた、さくらは玄関先でトラックとぶつかり死亡した後、巽によって、ゾンビとして復活する。巽の目的は「佐賀を盛り上げる、アイドルとして活躍してもらう」というものであった。5話まで見ましたが、よくできていたのは1~2話ですね。


とくに1話のさくらと巽の掛け合いが良かった、終始笑いっぱなしでしたよ。

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「なんで私ゾンビに…?」→「(ゾンビ映画の)あんな感じです」
「なんでアイドルに…?」→「佐賀を救うためじゃあん
「(たえちゃんに)なんかもっとこうないんですか」→「伝説の中身なきゃいかんのかーい!」

即答キッパリというのがいいんですよ。

自分がゾンビとして蘇った経緯や、アイドルになる目的を巽から聞かされるわけですが、主人公さくらは素直に受け入れているわけではない。自分がゾンビになってしまったこと、そして、警官に撃たれてしまったこと。この2点による動揺で、否応なく巽に丸め込まれる。


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さくらが巽に従ったのは、警官の発砲に因るところが大きい。発砲にビビって屋敷に戻る構造は2話の(愛・純子ちゃんコンビ)でもありましたよね。


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それに加え、意識があるゾンビは自分のみ、話せる相手は巽一人だけとあっては他に選択肢がなく。「アイドルしないといけないこと」に対する説得力が上手く出てる。このシーンのレイアウトは圧迫的なものが多くていいですね。さくらの不安さがにじみ出る。


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練習もせず、意思疎通もできない他ゾンビといきなり初ライブという状況に。ここがとくに良かったなあ、はっきりと「無理」と言い切るさくら。そうだよね~普通ゾンビになったばっかりなのにアイドルなんてできないよね。威勢よく発破をかけるだけの巽が面白い。宮野真守の熱演も光る。




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1話ラストで山田たえちゃんを除き、みんな復活しました。3話で元アイドルが参加した時点で、この物語は終わった感じがします。だってたぶん、どうやっても「アイドル」は上手くいくじゃないですか。みんな意識が戻って、元最強アイドルもいちおう参加をした。失敗する方が難しい。

山田たえちゃんが何者なのか、というのがキーなんでしょう。巽が濁した2点(「どうやってさくらはゾンビになったのか」「たえちゃんだけ二つ名がないこと」)に大きく関わるキャラクター。この子がいちばん最初に意識が戻ってても、(誰にも分からないので)おかしくないですよね。もしかしたら、ゾンビじゃないかもしれない。もしかしたら、みんなをゾンビにした張本人かもしれない。みたいな。

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