わたモテというと、さいきんはなにかと百合百合しい話題が多いです。「ゆりちゃ」には自分も驚きを隠せませんでしたが。あれはね、あそこでゆりちゃんの反応を見せないのが良いんですよ。反応を見せたら、その段階・レベルまでしか読者は想像ができないんです。見せないことで、想像を膨らませる。ホラーやサイコ映画だと、この表現手法は頻出しますよね。直接お化けやサイコキラーを描いても恐怖は引き立ちにくい。「そこになにかいる/なにか起きるかも」、という曖昧な感じが視聴者の想像を掻き立て、その結果、大きな恐怖・不安に繋がるわけです。



なんのはなしだっけ。そうそう、ぼくはゆりちゃんが出てくる回も好きですが、雰囲気がもっとも好きな回は、喪109「モテないし雪の日の学校」です。あらましを言うと、大雪のため、午後休校になる回です。もこっちは朝出かけるのを面倒くさがり、学校についても「午後は休校になれ」と思っている。つまるところ、めっちゃネガティブですよね。流石に2年もぼっちやってない。

学校に来た人数が少ないので、1限目は図書館で自習になります。ここでおすすめの本をゆりちゃんが聞いたことで、もこっちに本を勧めてもらう流れに。ガチレズさんが来た後はおのおのの時間を過ごしますが、その後も少しだけ共通した流れがあります。それは、おすすめされた本を読む(吉田さんに読める本はなかった、ヤンキーは寝ているのが似合う)部分です。

大雪の中でたまたま学校に来れた生徒の中だけで少し繋がりがありますよね。その中で、おのおのの時間がわずかに共通した部分をもって流れていくのが自然でいいなあと。最後は、加藤さんから本のお礼を言われマニキュアを塗ってもらう。

もこっちの感想が、曖昧なのがすげえ良いんですよ。少なくとも、行かなきゃ良かった・最悪だとはなってない。「大雪の中でイヤなことしか待っていないはず」と、もこっちは感じていたけれど、行ってみると思ったよりも楽しかった。ふだんあまり接点のない加藤さんと話して、やったこともないマニキュアを塗ってみたりした。それがもこっちにとって、素敵だったかどうかはどうでもいいことなんですよ。大事なのは、思ったよりも楽しかったということです。

もこっちにとって楽しかったことに間違いはない。けれど、マニキュアを塗ってもらった指を映して終わるのがいいんですよ。結果的に、ああ良い雰囲気だよなあと想像できるので。もしも漫画内でもこっちの感情の機微を描いてしまうと、その段階でイメージは終わってしまうんです。もこっちは、「これぐらい楽しんだんだな」と終わってしまう。そうさせないところがわたモテの作者は上手いですね。描かない表現をよくよく理解している。