A
加持「海の生物が腐った匂いだ…生きていた証なのさ。あの何も無い赤い水とは違う。本当の海の姿なんだよ。本来、この世界は広くて、いろんな生命に満ち満ちている。その事を君らに知っておいて欲しかったんだ」
B加持「ああ。かわいいだろ?俺の趣味さ。何かを作る、何かを育てるってのはいいぞ。色んなことが見えるし、分かってくる。楽しいこととかな」二人は背中合わせで地面に向かいながら話す。シンジ「辛い…こともでしょ」加持「辛いのはキライか?」シンジ「好きじゃないです」加持「楽しいこと、見つけたかい?」シンジ「……」加持「それもいいさ。けど、辛いことを知ってる人間の方が、それだけ人に優しくできる。それは弱さとは違うからな」
Cアスカ「こんな話ミサトが初めて。何だか楽になったわ。誰かと話すって心地いいのね。知らなかった」ミサト「この世界は、あなたの知らない面白いことで満ち満ちているわよ。楽しみなさい」ABCいずれも「ヱヴァンゲリヲンの世界より」引用
まずは、エヴァのお話から。
ABCとナンバリングしましたが、これは便宜のためです。
どれも似たような内容ですが、庵野監督がやっぱりオタクと自分自身に説教してる感は否めません。「序:所信表明」の時から、庵野監督は”閉塞感”というワードを頻繁に使い続けています。(※遡ると、監督不行届であるとか、スキゾとかの当時の雑誌でも使ってますが)僕は、ずっとこの閉塞感という言葉の意味を考えてきました。閉塞感というのは、アニメを自分の見た範囲でしか物事を判断しないだとか、アニメを見て外へのエネルギーを持つわけでもなく期待もせず、とかそういう感じだと僕は思うんです。
「破」では、そういうことを中心に作ったと思うわけです。A:この世は素晴らしい。だからアニメもいいけど、もっと違うことにも目を向けろよとか、B:アニメ作るのは楽しいけど、辛い。でも、やっててよかったとか、C:自分のコンフォート・ゾーンに塞ぎこんでないで、面白いこと見つけろとか。
そんな感じです。庵野監督は、「旧劇」を見ればわかるように、自己嫌悪も含めアニメ業界・オタクのあり方に嫌気(もっと言うと閉塞)を感じて、あれを作ったんです。だから、やっぱり啓蒙じゃないですけど、説教して一部の人だけでも何とか変えたいと願ってるはずなんですよ。
そういう見方で「破」のラストを見ると、これはもうオタクの表象としての”綾波レイ”を引っ張りだす、シンジ(オタク+外に飛び出した人間)の構図にしか見えないわけです。「さっさと世の中に出て、アニメ以外の面白いことを知りなさい!この引きこもりアニメオタク!」
またですね、そういう見方で「Q」を見ると大変なことになるんです。綾波レイという、オタクの表象・象徴たる存在は、アヤナミレイ(仮称)となり本性を表します。希望を与えてくれたはずのシンジに対しては、冷ややかな態度で、まるで深夜のアニメ1クールが終わった後のアニメファンの様相ではありませんか。
「え、そんな作品あったっけ」みたいな。
ポイ捨て、使い捨て、切り捨て、傲慢な消費者、ここに極まれりです。そして「綾波レイは本が好きだった」という記憶を頼りに、シンジは必死に本を選んでアヤナミレイ(仮称)にサービスします。お前らの好みは大体わかるけど、俺の好みも追加でサービスするよと。でも、オタクは他のことをしようとしない。この世の面白さを知ろうとしない。ただ、「命令(公開)」を待つだけ。だから、シンジは積み重ねられた本(要素)を崩すんです。街中で走るエヴァも、戦車も、メカも、電柱も、装甲ビルも、好きなのはおかしくないけど、もっと楽しむことが他にもあろうと。
そして、シンジの助けも「覚えてない」と。
じゃあ、シンジも「知らねえよ!」となるわけです。
「(オタクを)助けてなかったんだ…」「エヴァなんか作らなきゃよかった!」
「エヴァを作れ。エヴァなんて作る必要はないわ。エヴァだけは作らんとってくださいよ。」
「もう、エヴァなんて作りたくない!」
で、ここでカヲルが助けてくれるわけじゃないですか。
これが実は、宮さんなんですよ。
なんでかというと、まずは師匠でしょ。「宮さんに言われちゃ断れない」んですから、当然シンジはエヴァにも乗ります。声優もやります。そんでもって、助けた綾波レイじゃなかったことをボソッとシンジが呟くと、まあオタクは混乱しますよ。そのままの勢いで、鏡のメタファーである第12の使徒を見るわけじゃないですか、そうなると「これは、私?私はだれ…」と自分の存在が「Q」には希薄で、オタクは怖がるわけです。(オタク自身が求めている)オタク的要素が「Q」には少ないのです。
(前作では大活躍だった電柱は、なぜ折れているのか。何を意味しているのか)
カヲルは死んじゃいますが、その前に。
「魂が消えても願いと呪いはこの世界に残る。」
某アニメ監督の説教が続きます。
「意志は情報として世界を伝い、変えていく。いつか自分自身の事も書き換えていくんだ。」
オタクであり、元オタクでもある監督。そんなこたあ知ってるよ。
「ごめん。これは君の望む幸せではなかった。」
ジブリの大監督でも、どうしようもなかったんです。そして引退。
でもですね、オタクに対しての儚い希望も残ってるんです。
「あんたはどうしたいの!?」とまあ救助隊アスカさん(28)が来るわけですよ。そんで、アヤナミレイ(仮称)は外の世界へと、初めてゲンドウの命令ではなく、自分の意志で行動するんです。これはもう求められてるんですよ、オタクに。ラスト歩いて行くシーンも含めて、求められてるんです。若人よ、こんなアニメにかまけてないで、さっさと外に向かって歩けと。考察なんて無駄なことして時間潰してるんじゃねーよと。もっと楽しいことは他にあんだからよと。
…ということです。まあこういう見方もできるということで。というか、未だに責任を感じているとは思うんです。庵野監督は、こういったオタクを増やしてしまったということに関して。まあ、大学進学率によるモラトリアム期間の増加とか原因はいろいろあるので一概には言えないんですけどね。あ、ゼーレの奴は製作委員会方式のことだと思います。個人的には、ここがすんげえピッタリきます。最後は、宮さんの言葉を貼って終わりとします。
僕は児童文学の多くの作品に影響を受けてこの世界に入った人間ですので、今は児童書もいろいろありますが、基本的に子どもたちに「この世は生きるに値するんだ」ということを伝えるのが、自分たちの仕事の根幹になければならないと思ってきました。それは今も変わっていません。
宮崎駿 引退会見より引用