それはきわめて辛い作業だからだ。
なにが辛いのか。批評的になるということは、「良い」部分も「悪い」部分も、なるたけ客観的に見なければならない。自分の主観をなるべく押し潰して語らないといけない。良い要素は隠れた部分を除けば、だいたい分かることで。批評的になるときは、悪い要素がメインになってしまう場合が多い。つまり、「これはなぜクソに見えるのか?」ということを構造的に語るときには、悪い要素も取り上げなければ批評とならない。良い部分を取り上げても、それがクソな作品の原因ではないので意味がない。
なるたけ、本当になるたけ、中立性(主観性を少なくする)を保ちつつ、批評しようとする。それで、批評的な文章が出来上がる。読者からのツッコミが入る。これは良い、誰からかツッコミが入るのはむしろ喜ぶべきことで問題がない。なにが辛いのか。それは、クソな作品を見直すことだ。ツッコミが入った時点で、その部分をもしくは全体を見直す必要性が生じる。自分がクソと感じ、構造的な悪い要素に起因すると考えたことを、もう一度見直さないとならない。自分が好きでもない作品に対してだ。
重ねて言おう。仕事でもないのに(なんなら足が出ている)、自分がクソと考え論評したアニメ作品を見直す必要があるから、批評的な文章は体力と精神を大変に消耗する。だから辛い。
─そうであるならば、最初からやらなくていいのでは?─
こう思う人がたくさんいるだろう。
エセ批評家やその類の文筆家が批評をしていたら、べつに僕のような素人が批評することもない。大して必要がない。先日の記事通り、批評と体系化の努力を怠り、「”楽屋チックな裏話”こそが批評」という論評の土壌を作ってしまったことこそが、明確な失敗である。そして、「批評性のない批評」を生み出した最たる原因だ。なにがいいたいか。エセ批評家・研究家・編集者は、自分たちの仕事を放棄したくせに報酬をもらい称賛されているので、くたばってしまえ、ということだ。