
これまでの話数でまさしく、ピカイチだった。すごすぎた。
アバン:有馬と母親の過去
A:演奏開始~演奏ストップまで
・音符が消える表現
・渡「すげえ…」
・水に浸かる有馬
B:宮園演奏再開~ラスト喝采まで
・怒涛のラスト
・春が来た
脚本・作劇・構成
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まず、アバンの過去回想は良かった。なぜ有馬公生がああいう風に(3話のように)呼ばれていたか、それが母親に依拠するということを執拗に描写してきたのだけども、この話数では表現手法が少し変わって、セリフが多くなっている。これが後半のAにおける、4段階ポン寄りのシーン(※車いすの母親が見えるところ)で素晴らしく活きてくる。ここは、色々なエフェクト(フォギー、パラ、ボカシ)がかかってる分、そのホラーチックに画面が仕上がっていて、一見幻想シーンの方が怖いと思うんだけど、シークエンスで見ると、何も存在してない方の画面が怖く感じるように仕組まれている。
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アバンではあれだけのセリフの文量で、有馬の暗い過去を描くんだけど、4段階ポン寄りのシーンでは一切のセリフなく、ただ音楽の高まりと共にシーンが進行していく。このシーンから(今まで明示されてこなかった)有馬の主観(※スポットライトはその示唆)へと没入していく。鍵盤を叩いても音が出ない、音符が消えていく、まるで海の底にいるような息苦しく・どうしようもない感じ、それら全てをセリフと音楽、そして映像で感じさせている。
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有馬の必死な形相とその言動、そして示される映像の息苦しさと苦痛。「叩いても音が出ない苦しみ」、それがどんなモノかというのはイメージBG的な手法で(※抽象的に)表現するのかと思っていたんだけど、イシグロ監督はまさに「実直に」有馬の苦痛を具体的で明確に表現しているので、ここは喝采すべきところだと思う。 有馬の向き合ってきたモノがどれだけ恐ろしく、それだけ苦痛に溢れているかが素晴らしく分かるシークエンスだった。
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シーンは現実(客観)へと帰り、有馬はピアノの演奏を中止する。これは宮園に迷惑をかけてはダメだという判断から。だけど、その宮園も演奏をやめてしまう。有馬と一応の会話(※いや感情的な機微の交換か)を交わし、有馬もそれを受け取る。そうして、宮園は「旅に出よう(※スヌーピーからかな)」と言い、演奏を再開する。しかし、演奏再開できない有馬。
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有馬は相変わらず海の底で苦しんでいるのだけど、ようやっと辛い記憶のリフレインではない、母親との記憶を思い出す。演出的にはここが素晴らしかった。ここまで、有馬と母親の過去回想では全てモノトーンに仕上げてきたからこそ出来る、対比的な「カラー(※色彩的・明度的)」による柔らかさ・優しさ・安心の表現。「母さんからもらった全てをぶつける」という意志の元、有馬は演奏にのめり込む。それが、3枚目のカット、有馬の目線の動きを描写したカットに表れていたり、4枚目の逆光のカットでも(※宮園から見た有馬として)有馬の本来持つポテンシャルが示されている。
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![40]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/9/8/988ca6a5-s.jpg)
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![31]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/f/1/f132545d-s.jpg)
そして、演奏終了。終了に至るラストスパートは、画面も光源が強調されたモノとなっており、明度も上がっている。もがき苦しんでいた有馬に、わずかながら見いだせた希望の表現であり、宮園との演奏が楽しいという表現でもある。そして、有馬の主観(※未来)へと画面はジャンプカットし、ピアノ演奏の感情の再確認と同時に有馬の一つの思い出となっていることが分かる。 素晴らしい話数だった。
作画・画面構成
素晴らしかった、以上。
というのは流石に冗談(※冗談でもないか)ですが、これ以上は文量が多すぎる(※時間も足りない)ので、また別記事にでもするかも。簡単に言うと、序盤の演奏シーン、ラスト演奏シーン、控室での有馬のカチコチのシーン、ここらへんは何も言わずとも分かるように、素晴らしかった。濱口明はどこでしょうね、それは少し気になる。
以上です。