以前の記事でも書いたけれど、このブログでは、「楽しい記事」「たんなる雑記」の2つの基準で書いてきた。実は基準はもうひとつある。「(別館に書くべき)愚痴や憎悪に満ちた記事」である。これをぼくはいままで、そのまま別館(別の日記ブログ)に書いてきたが、まあ、このブログの寿命はおそらく長くない。そろそろ、別館でこの醜さを隠さなくても良かろうと判断した。
シン・エヴァですら、決着はついた。ならば、自分も決着をつけるべきだ。
「2017年に決着をつける」というのは、結論からいうと、親父のことだ。つまり、2017年に亡くなった親父に関わるすべてを書く。センセーショナルな内容も含むが、これはリアルだ。とてもリアルで、ぼくにとっては関係ある事柄に触れるたびに反芻し、昨日のことのように思い出すことだ。そして、いま、このブログの寿命が尽きる中で、ぼくが書きたいことだ。
<1>
2017年の12月、ぼくは兄といっしょに、近所にパチンコを打った後に2人ぐらしをしていた家に帰ってきた。勝ったか負けたか、たぶん勝ったとおもう。喜んでいた記憶が少しだけある。衣服をそこらへんに脱ぎ捨てていたら、ぼくの携帯に電話がなった。岡山の警察署だった。
そのときのぼくは、同年の10月に親父と大きく揉めたさいに岡山の警察署にお世話になったので、また親父の関係の事柄かと思って、やや苛つきながら電話に出た。警察はいかにも歯切れの悪い話し方で、ぼくかどうかをしつこく確認した。「けっきょく、なんの用なんですか」とぼくが尋ねると、「お父さんが、亡くなられた」と告げた。警察官の歯切れの悪さはなくなっていた。
ひとまず、ぼくは、単純な事実を追った。さっきまでのパチンコや、これからのご飯のことなど、余裕はなくなった。親父が亡くなったために、まずは遺体を確認しにきてほしいということ。驚くほどに心臓の鼓動が刻まれているのが分かった。まずは、兄貴にこの事実を伝え、それから、母親と姉貴に情報は伝わっていった。
どうやって荷物を作ったのかは覚えていない。新幹線で、母親と合流し、岡山へと向かった。姉貴はあとから合流するとのことだった。向かう際に、ノートパソコンを持ってきていたぼくは、いま振り返っても、なぜか分からないが、親父の塾の塾生を管理するための表をエクセルで作っていた。きわめて冷静に塾の混乱を避けるために作成していたのか、それとも父親は死んでいないから、塾生だけを管理すれば良いと逃避していたのか、いっさいわからない。これからすることについても、同時に整理していた。
岡山につくと、まずは警察署へ向かった。警察署ではかんたんな本人確認だけで、待つのは少しの時間だったはずだが、永遠に感じられた。会話は覚えていない。遺体安置所の黒い袋、ああこれはよく映画で見るなあ、と思いながら、チャックが開かれる。いたのは父親だった。倒れた親父は、ほぼ即死だったために、顔のところに体重が乗ってしまい、ひどくあざになっていた。それだけだった。死んでいるとはまともに思えず、あざさえ除けば、ソファーで寝ている親父、そのものだった。
触れると冷たくそこで、確信を得た。これは死んでいる。自分の父親があっけなく死んでいる。そう確信した。事件性はいっさいなく、そこからは面倒な調書のような時間が続いた。兄貴はしっかりと受け答えをしていたが、ぼくはいっさいの興味を失っていた。
<2>
塾につくと、家族3人で、書類を洗い出していた。つまり、現在の塾生が何人いて、どれだけのお金をもらっているか、という確認作業をしなければいけなかった。整然と整理されていたにも関わらず、洗い出しに時間がかかったのは、家族3人とも混乱していたからだろう。姉貴からの電話がなった。姉貴はとうじ結婚をしていたが、結婚相手はひどく親父を侮辱していた、と事前に聞いていたため、葬儀への参列をぼくが拒否した。姉貴がひどくヒステリーのように発展しそうだったために、仕方なく、了承した。同じタイミングで親友のSにもこの事実を伝えた。
姉貴が合流したが、書類は余計に散らかった。船頭多くして船山に登るとは、まさにこのことだった。しかし、無下に扱うと姉貴は不機嫌になった。そのため、指揮系統として、ぼくと兄貴で、この塾についての整理と今後についてすることにし決めた。翌日だった、とおもう。その翌日には、親父と縁深い塾の先生が2人ほど来ており、それとなく今後の話などをした。まあかれらから得た知見はなかったように、おもう。サポートといっても、それは精神的なものだった。
ひさしぶりの実家では、親父の布団では寝なかった。家族3人、なにかは知らないが、不安と恐怖をお互いに抱えつつ、床についた。
<3>
月謝は返金をすること、今後については、期限付きで決めること。すべてを、すべてのご父兄に説明した。父親の死亡は、それ同時に、葬儀と通夜の問題ももちろん発生させていた。そのため、さほど塾の整理に役立っているとは言いがたい兄貴を葬儀の手続きに回し、塾については、この時点で、ほぼ僕が担うことに決まった。姉貴には突っ立っていてもらった。邪魔になっているから、たしかホテルで宿泊をしていたはずだ。塾にも家にも、どこにも彼女はいなかった。
塾には数々のご父兄がお見えになった。先生には、大変にお世話になったと、訃報を聞きつけてわざわざ駆けつけた方が何名もいらっしゃった。家庭が大変な子なんじゃと、話を親父から聞いていた生徒とご父兄もいた。ぼくら、少なくともぼくは、その時に、親父の偉大さを再確認した。じっさい、誇らしく感じるのはその後のことで。そのときは、その事実の大きさに圧倒されつつ、塾の整理を続けた。
多忙さは心の痛みを忘れさせてくれた。気づけば、もう通夜の日である。姉貴が活躍したのは、後にも先にも、この参列者の記録を取ることだけだった。まあこれだけでも十分か。彼女にとっては、よくやったほうだ。とうじ、このブログのウィッシュリストから送られていた「セント・オブ・ウーマン」の劇伴を持ってきていた。やはり、あれは最高のタイミングだった、名前は出せないが、改めて謝意を述べる。まあよくリュックにも入っていたものだ。通夜に選んだ曲は、12番のメインテーマのアレンジだった。ぼくが聞いて選んだ。やるなら、トコトンだったはずだ。親父ならば。最高の通夜にしよう。そう確信をしていた。
葬祭場からは、誇張ではなく人が溢れた。入り切らなかった。喪主は兄貴が務めたが、喪主の挨拶としての文章はぼくが考えて、母親が少しの修正をした。形式的な文章は嫌だったので(親父もきらったはずだ)、とても心地の良い文章にした。そうだ、もともとは通夜も葬儀も身内のみ、のはずだったが、地域的に話が広がってしまい、どうしても通夜を開いて欲しい、という要望に応えたものだった。
通夜は無事おわったが、泣いている生徒がいた。家族3人で、なんとか慰めて、いや、まあこれはぼくが親父のマネをすることで笑わせた。通夜に関する記憶はこの程度だったとおもう。
翌日は葬儀だ。休む暇などない。親父の遺体は自宅で保存をした。さいごのお別れとして、一人ずつ挨拶をした。かんじんなことなのに、ここでなんと親父に述べたか覚えていない。たしか、まあ不出来で申し訳ない、ということだけは伝えたはずだ。たぶん。遺体は弛緩しているために、すべての体液がもれてしまう。それを防止するために、口の中には綿がしっかりと詰まっていて、胸部も常にドライアイスで冷やされていた。胸板が厚くなっていたのは、そのためだ。10月に会ったさいには、もっと痩せていたはずだ。出棺というのはまあ、それなりの作業で、なんと窓から遺体を出していく。そして車に乗せる。これには少しばかり、驚いた。あ、これは通夜前にやったはずだ。たしか。
<4>
前日の通夜は一般開放だったが、この葬儀はもっとも関係性の深い方だけを呼んで開いた。葬儀の流れは、ここから火葬となるため、そもそも多くの人数を想定していない。棺桶に父親の好きなものをいれて、最後の挨拶をしていく。ぼくは、大変に親父のデコが好きで(おそらくかれのチャームであった)、最後に、本当の最後だったので、触りたく、触った。死者に無礼とはいっさい思わない。
しかしこれが事件だった。
発端は火葬場に移るさい、姉貴からだった。「デコを叩くなんて非常識な」と罵られた。とうじ神経質になっていた母親からも同時に非難されたが、そんなことはしていないと反論をした。仮にそう見えたとしても世間体など気にするなと、2人を怒鳴った。母親はともかく、姉貴は、やむを得ず、ぼくが了承した旦那を連れてきて、何様のつもりだ、と当時思っていた記憶がある。
まあ神経質に母親はなっていて、あとで謝罪をうけた。姉貴からはいま現在もない。火葬場に到着すると、これから焼きます、というシステムを見せられた。これが今生の別れである、ということで、ここでもぼくは親父の顔に触れた、後悔するのは嫌だったのだ。火葬はだいたい30分前後で終わっただろうか、よく覚えていないが、家族ぜんたいが疲労に包まれていたのは覚えている。その中で、ぼくはさきの件で2人にさいど、怒鳴った記憶がある。疲労の末、少し横になったような記憶もある。
火葬が終わり骨になった父親を見て、たんじゅんにやはり驚いた。まず、これだけ正確に骨が残るということ、もうひとつに、これだけ細い身体だったということ。そして、骨になってしまったこと。骨壷にはすべての骨は入らないと告げられた、衝撃だった。すべての骨が入るから骨壷ではないのか、と思っていたので。じゃあ、残った骨はどこにいくんですか、と尋ねると、国営葬儀所のようなところでまとめられるそうだ。そんなゴミのような扱いなのかあとぼんやりと思った。
<5>
形式的なものが終わると、姉貴とその旦那はそそくさと帰宅をする旨を伝えた。まあいても、役に立っていなかったのは、ぼくの目からは明確だったので、むしろ良かったが、親父には不義理だなと思った。母親は高齢のために、その次に帰ると言った。体調を崩さないように、と念を押された、と記憶している。
兄貴は忌引を最大限とり、こちらに留まった。保護者への説明などは、内容と意図を一貫しなければいけないために、ぼくがすべてをしたかったが身体を気遣って手伝ってくれた。まあ、ぶっちゃけると、なにか活躍をしてもらったイメージはない。年末に差し掛かると、少し時間が出来始めるが、なにもやらなかった。やる気も起きなかった。残った2人で、適当にパチンコを打っていた方が、本当にマシだった。それくらい、親父が突発的に死んだ事実について、無作為に、無限に、循環するように、考えてしまうのだ。
現在の生徒が塾に来て、泣いてしまう例があったが、ぼくはきわめて親父と似ている人間で、親父がどのような行動を取るか、手に取るように分かった。ので、それ(親父の所作)を見せると笑って、また泣いて、落ち着いてくれた。嬉しかったが、このあたりで、ぼくは親父の劣化コピーだな、という認識が高まっていった。事実それは間違いがない。
<6>
年が開けると、塾生への返金処理が大詰めとなってきた。すべてを完璧にしないと、親父の名前にケチがつく。他塾への紹介もした。というか、この塾はいっさいの機能をしません、ということは岡山に到着したときに、もっとも最初に伝えたので、受験期にも関わらず、能動的に他塾に移動していただいた。近隣の個人塾にだけ、亡くなったという事実を伝えて、生徒を預かっていただくことに感謝を述べた。
余裕が出てきて、兄貴では不完全になってしまう部分が目立つようになったので、それとなく、つまり傷つけないように休んでいいと伝えた。しかし、兄貴はなんとも不自然に、手伝うと耳を貸さなかった。けっきょく手伝うことはなく、自宅に帰っていくのだが、この不自然さはのちに嫌な発覚をする。このあたりで、忌引が切れた兄貴は帰宅を決めた。お互いに支え合ったから、お互いに元気で、無理をせずにと、抱き合ったのはよく覚えている。
返金処理に伴い、実家の売却についても考える時期になった。遺物整理は以前に述べたように、自分の心を自分でひねり潰すように、苦しかった。しかし、不動産屋が言うには、時期が遅れると、値段が落ちる・売却が進まなくなると言われたので、急いで形見分けの書類をつくり、家族で共有した。塾の物事もしつつ、自宅のすべての荷造りをひとりで終えることができたのは、まあアドレナリンが出ていたからだろう。いま考えると、あのパフォーマンスは奇跡だった。
<7>
しばらく、親父の布団では寝る気にならなかったが、年が明けてからは、むしろ守ってくれているような感覚になり、そこで寝るようになった。親父のベッドで寝て、親父の車に乗って、親父の塾につき、親父の椅子に座る。ああ、そうだ、親父は少量の血を床にこぼして死んだ。その床のいちぶを隠すために、その部分だけを剥ぎ取り、自分の椅子の床のスペースと交換した。保護者からはこれで見えない。完璧だな、と考えていたが、今思うとアブノーマルである。まあでも、あのときできた最善は、いま考えても、そこまでまあ愚策とも思えない。いま考えても、狂ってはいるが最善だなとおもう。
不動産売却、塾の存続については、さまざまな人と話して決断を下したが、ネットでもとある方に相談に乗っていただいた。名前は前例どおり出さないが、大きな感謝を述べる。塾の存続は、きわめて苦しんだ。続けたいという意志だけでは、続けられないのだ。体調と体力さえあればやれた。これは結果論だが。この後、コロナが蔓延する世の中では、続けなくても良かったのかもしれない。結果論だが。
親父は体調にかんしても、完璧をつくしていた。机の引き出しに一つ、キッチンに一つ、キッチンの引き出しに一つ、それぞれ正露丸を置いていた。なんなら歯ブラシと電動シェーバーまで置いてあった。遅刻をしても、なにがあっても対処ができる。やっぱり、完璧だな、とまたもや再確認をした。
<8>
実家も片付き、返金処理ももう少しというところで、兄貴から連絡が入った。岡山の女性と交際に発展したとの旨だった。不自然さの正体はこれだった。あのクソ忙しい中で、なにをやっていたかと思えば、プリクラを取ったりして遊んでいた。気色が悪かった。当時は、なにやっているんだこいつは、と思いつつも、まあいたずらに邪魔をされるくらいなら、別に遊んでおいてもらった方がいいと思ったので、バカとは思いつつも納得はした。まあ、でもパチンコの件といい、逃避したい行動の一つなんだろうと思うと、いまは享受できる。客観的に見て狂っている行動は、遺族にとっては、正常さを保ちたいがゆえ、なのだ。
まあそんな暇があるなら、少しでも家を片付けなどをしとけとは思うが、かれができたとは思わないので良しとしよう。
銀行との往復作業はさほど大変ではなく、いやめんどうではあったが、返金処理も終わった。銀行はいまだにガラパゴスで、カタカナ入力をしなくてならず、一文字でもミスると返金は通らない。不便だなあと思いつつも、完璧に仕上げて、間違っている請求があったら連絡をくれという書類も出した。そして、塾は存続の運びとはならなかった。体力面で不安があったからだ。万が一続けられたとしても、途中でギブアップすると、これは2度にわたって迷惑をかけることになる。
ひとつは、親父の塾にケチをつけたくなかった。もうひとつは、いっさいがっさい、こわかった。それが正直なきもちだ。そういう旨を描くと、真摯に受け取ってもらえる保護者の方もいて、これもまた嬉しかった。閉めるにも関わらず、自分の心情と方針を受け取ってもらえたのは嬉しかった。存続の声はきわめて大きかった、それは長年付き合いのある会社さんからも同じ。残念だった、としかいいようがない。なんども謝った。体力にいっさいの自信がなく申し訳ない、と。
無礼をする保護者はきわめて少なかった。親父がちゃんと選定しているな、と思った。本当になかったとおもう。少なかったのではなく、トラブルらしいトラブルはなかったのだ。閉めるときに、キレイに閉められるのは珍しい。良かった。実家の売却手続きもいったんは終わり、塾と実家にかかわるすべてが終了したのは3月ごろだった、と記憶している。そこから、ぼくは半年ほど寝たきり状態に陥る。いっさい動けなかった。記憶もほとんどない。地獄をすべて背負ったのだ、仕方なかった。自分以外にやれる人間はこの世に存在しなかった。
<now>
体調はようやく(※おそすぎワロタ)、今年に入って、だんだんとよくなってきた。20代前半のいい状態に戻りつつある。ここまで回復が遅れてしまったのは、きみらには分からない、生き地獄だったからだ、としか言えない。もっとグロテスクな内容もじっさいある。姉貴にホテル観光ツアーの旅費を求められて精算したり、塾の残ったお金を寄越せと言われたり、まあこんなのはこの1行で済ますべきだ。
このような状態で、無給のアニメブログを続行しようとしたのは、無茶だった。まあブログの寿命がいくばくかは知らないが、まだしがみついている。出したい「楽しい記事」はあと2~3本ていど。それが終わると、とたんに電池は切れるだろう、と思う。たかが一つの個人サイトが終わるのはよくあることなのだ、仕方がない。そういうと、きみらは納得して、スマホのブラウザページを閉じるだろう。
シン・エヴァですら、決着はついた。ならば、自分も決着をつけるべきだ。
「2017年に決着をつける」というのは、結論からいうと、親父のことだ。つまり、2017年に亡くなった親父に関わるすべてを書く。センセーショナルな内容も含むが、これはリアルだ。とてもリアルで、ぼくにとっては関係ある事柄に触れるたびに反芻し、昨日のことのように思い出すことだ。そして、いま、このブログの寿命が尽きる中で、ぼくが書きたいことだ。
<1>
2017年の12月、ぼくは兄といっしょに、近所にパチンコを打った後に2人ぐらしをしていた家に帰ってきた。勝ったか負けたか、たぶん勝ったとおもう。喜んでいた記憶が少しだけある。衣服をそこらへんに脱ぎ捨てていたら、ぼくの携帯に電話がなった。岡山の警察署だった。
そのときのぼくは、同年の10月に親父と大きく揉めたさいに岡山の警察署にお世話になったので、また親父の関係の事柄かと思って、やや苛つきながら電話に出た。警察はいかにも歯切れの悪い話し方で、ぼくかどうかをしつこく確認した。「けっきょく、なんの用なんですか」とぼくが尋ねると、「お父さんが、亡くなられた」と告げた。警察官の歯切れの悪さはなくなっていた。
ひとまず、ぼくは、単純な事実を追った。さっきまでのパチンコや、これからのご飯のことなど、余裕はなくなった。親父が亡くなったために、まずは遺体を確認しにきてほしいということ。驚くほどに心臓の鼓動が刻まれているのが分かった。まずは、兄貴にこの事実を伝え、それから、母親と姉貴に情報は伝わっていった。
どうやって荷物を作ったのかは覚えていない。新幹線で、母親と合流し、岡山へと向かった。姉貴はあとから合流するとのことだった。向かう際に、ノートパソコンを持ってきていたぼくは、いま振り返っても、なぜか分からないが、親父の塾の塾生を管理するための表をエクセルで作っていた。きわめて冷静に塾の混乱を避けるために作成していたのか、それとも父親は死んでいないから、塾生だけを管理すれば良いと逃避していたのか、いっさいわからない。これからすることについても、同時に整理していた。
岡山につくと、まずは警察署へ向かった。警察署ではかんたんな本人確認だけで、待つのは少しの時間だったはずだが、永遠に感じられた。会話は覚えていない。遺体安置所の黒い袋、ああこれはよく映画で見るなあ、と思いながら、チャックが開かれる。いたのは父親だった。倒れた親父は、ほぼ即死だったために、顔のところに体重が乗ってしまい、ひどくあざになっていた。それだけだった。死んでいるとはまともに思えず、あざさえ除けば、ソファーで寝ている親父、そのものだった。
触れると冷たくそこで、確信を得た。これは死んでいる。自分の父親があっけなく死んでいる。そう確信した。事件性はいっさいなく、そこからは面倒な調書のような時間が続いた。兄貴はしっかりと受け答えをしていたが、ぼくはいっさいの興味を失っていた。
<2>
塾につくと、家族3人で、書類を洗い出していた。つまり、現在の塾生が何人いて、どれだけのお金をもらっているか、という確認作業をしなければいけなかった。整然と整理されていたにも関わらず、洗い出しに時間がかかったのは、家族3人とも混乱していたからだろう。姉貴からの電話がなった。姉貴はとうじ結婚をしていたが、結婚相手はひどく親父を侮辱していた、と事前に聞いていたため、葬儀への参列をぼくが拒否した。姉貴がひどくヒステリーのように発展しそうだったために、仕方なく、了承した。同じタイミングで親友のSにもこの事実を伝えた。
姉貴が合流したが、書類は余計に散らかった。船頭多くして船山に登るとは、まさにこのことだった。しかし、無下に扱うと姉貴は不機嫌になった。そのため、指揮系統として、ぼくと兄貴で、この塾についての整理と今後についてすることにし決めた。翌日だった、とおもう。その翌日には、親父と縁深い塾の先生が2人ほど来ており、それとなく今後の話などをした。まあかれらから得た知見はなかったように、おもう。サポートといっても、それは精神的なものだった。
ひさしぶりの実家では、親父の布団では寝なかった。家族3人、なにかは知らないが、不安と恐怖をお互いに抱えつつ、床についた。
<3>
月謝は返金をすること、今後については、期限付きで決めること。すべてを、すべてのご父兄に説明した。父親の死亡は、それ同時に、葬儀と通夜の問題ももちろん発生させていた。そのため、さほど塾の整理に役立っているとは言いがたい兄貴を葬儀の手続きに回し、塾については、この時点で、ほぼ僕が担うことに決まった。姉貴には突っ立っていてもらった。邪魔になっているから、たしかホテルで宿泊をしていたはずだ。塾にも家にも、どこにも彼女はいなかった。
塾には数々のご父兄がお見えになった。先生には、大変にお世話になったと、訃報を聞きつけてわざわざ駆けつけた方が何名もいらっしゃった。家庭が大変な子なんじゃと、話を親父から聞いていた生徒とご父兄もいた。ぼくら、少なくともぼくは、その時に、親父の偉大さを再確認した。じっさい、誇らしく感じるのはその後のことで。そのときは、その事実の大きさに圧倒されつつ、塾の整理を続けた。
多忙さは心の痛みを忘れさせてくれた。気づけば、もう通夜の日である。姉貴が活躍したのは、後にも先にも、この参列者の記録を取ることだけだった。まあこれだけでも十分か。彼女にとっては、よくやったほうだ。とうじ、このブログのウィッシュリストから送られていた「セント・オブ・ウーマン」の劇伴を持ってきていた。やはり、あれは最高のタイミングだった、名前は出せないが、改めて謝意を述べる。まあよくリュックにも入っていたものだ。通夜に選んだ曲は、12番のメインテーマのアレンジだった。ぼくが聞いて選んだ。やるなら、トコトンだったはずだ。親父ならば。最高の通夜にしよう。そう確信をしていた。
葬祭場からは、誇張ではなく人が溢れた。入り切らなかった。喪主は兄貴が務めたが、喪主の挨拶としての文章はぼくが考えて、母親が少しの修正をした。形式的な文章は嫌だったので(親父もきらったはずだ)、とても心地の良い文章にした。そうだ、もともとは通夜も葬儀も身内のみ、のはずだったが、地域的に話が広がってしまい、どうしても通夜を開いて欲しい、という要望に応えたものだった。
通夜は無事おわったが、泣いている生徒がいた。家族3人で、なんとか慰めて、いや、まあこれはぼくが親父のマネをすることで笑わせた。通夜に関する記憶はこの程度だったとおもう。
翌日は葬儀だ。休む暇などない。親父の遺体は自宅で保存をした。さいごのお別れとして、一人ずつ挨拶をした。かんじんなことなのに、ここでなんと親父に述べたか覚えていない。たしか、まあ不出来で申し訳ない、ということだけは伝えたはずだ。たぶん。遺体は弛緩しているために、すべての体液がもれてしまう。それを防止するために、口の中には綿がしっかりと詰まっていて、胸部も常にドライアイスで冷やされていた。胸板が厚くなっていたのは、そのためだ。10月に会ったさいには、もっと痩せていたはずだ。出棺というのはまあ、それなりの作業で、なんと窓から遺体を出していく。そして車に乗せる。これには少しばかり、驚いた。あ、これは通夜前にやったはずだ。たしか。
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前日の通夜は一般開放だったが、この葬儀はもっとも関係性の深い方だけを呼んで開いた。葬儀の流れは、ここから火葬となるため、そもそも多くの人数を想定していない。棺桶に父親の好きなものをいれて、最後の挨拶をしていく。ぼくは、大変に親父のデコが好きで(おそらくかれのチャームであった)、最後に、本当の最後だったので、触りたく、触った。死者に無礼とはいっさい思わない。
しかしこれが事件だった。
発端は火葬場に移るさい、姉貴からだった。「デコを叩くなんて非常識な」と罵られた。とうじ神経質になっていた母親からも同時に非難されたが、そんなことはしていないと反論をした。仮にそう見えたとしても世間体など気にするなと、2人を怒鳴った。母親はともかく、姉貴は、やむを得ず、ぼくが了承した旦那を連れてきて、何様のつもりだ、と当時思っていた記憶がある。
まあ神経質に母親はなっていて、あとで謝罪をうけた。姉貴からはいま現在もない。火葬場に到着すると、これから焼きます、というシステムを見せられた。これが今生の別れである、ということで、ここでもぼくは親父の顔に触れた、後悔するのは嫌だったのだ。火葬はだいたい30分前後で終わっただろうか、よく覚えていないが、家族ぜんたいが疲労に包まれていたのは覚えている。その中で、ぼくはさきの件で2人にさいど、怒鳴った記憶がある。疲労の末、少し横になったような記憶もある。
火葬が終わり骨になった父親を見て、たんじゅんにやはり驚いた。まず、これだけ正確に骨が残るということ、もうひとつに、これだけ細い身体だったということ。そして、骨になってしまったこと。骨壷にはすべての骨は入らないと告げられた、衝撃だった。すべての骨が入るから骨壷ではないのか、と思っていたので。じゃあ、残った骨はどこにいくんですか、と尋ねると、国営葬儀所のようなところでまとめられるそうだ。そんなゴミのような扱いなのかあとぼんやりと思った。
<5>
形式的なものが終わると、姉貴とその旦那はそそくさと帰宅をする旨を伝えた。まあいても、役に立っていなかったのは、ぼくの目からは明確だったので、むしろ良かったが、親父には不義理だなと思った。母親は高齢のために、その次に帰ると言った。体調を崩さないように、と念を押された、と記憶している。
兄貴は忌引を最大限とり、こちらに留まった。保護者への説明などは、内容と意図を一貫しなければいけないために、ぼくがすべてをしたかったが身体を気遣って手伝ってくれた。まあ、ぶっちゃけると、なにか活躍をしてもらったイメージはない。年末に差し掛かると、少し時間が出来始めるが、なにもやらなかった。やる気も起きなかった。残った2人で、適当にパチンコを打っていた方が、本当にマシだった。それくらい、親父が突発的に死んだ事実について、無作為に、無限に、循環するように、考えてしまうのだ。
現在の生徒が塾に来て、泣いてしまう例があったが、ぼくはきわめて親父と似ている人間で、親父がどのような行動を取るか、手に取るように分かった。ので、それ(親父の所作)を見せると笑って、また泣いて、落ち着いてくれた。嬉しかったが、このあたりで、ぼくは親父の劣化コピーだな、という認識が高まっていった。事実それは間違いがない。
<6>
年が開けると、塾生への返金処理が大詰めとなってきた。すべてを完璧にしないと、親父の名前にケチがつく。他塾への紹介もした。というか、この塾はいっさいの機能をしません、ということは岡山に到着したときに、もっとも最初に伝えたので、受験期にも関わらず、能動的に他塾に移動していただいた。近隣の個人塾にだけ、亡くなったという事実を伝えて、生徒を預かっていただくことに感謝を述べた。
余裕が出てきて、兄貴では不完全になってしまう部分が目立つようになったので、それとなく、つまり傷つけないように休んでいいと伝えた。しかし、兄貴はなんとも不自然に、手伝うと耳を貸さなかった。けっきょく手伝うことはなく、自宅に帰っていくのだが、この不自然さはのちに嫌な発覚をする。このあたりで、忌引が切れた兄貴は帰宅を決めた。お互いに支え合ったから、お互いに元気で、無理をせずにと、抱き合ったのはよく覚えている。
返金処理に伴い、実家の売却についても考える時期になった。遺物整理は以前に述べたように、自分の心を自分でひねり潰すように、苦しかった。しかし、不動産屋が言うには、時期が遅れると、値段が落ちる・売却が進まなくなると言われたので、急いで形見分けの書類をつくり、家族で共有した。塾の物事もしつつ、自宅のすべての荷造りをひとりで終えることができたのは、まあアドレナリンが出ていたからだろう。いま考えると、あのパフォーマンスは奇跡だった。
<7>
しばらく、親父の布団では寝る気にならなかったが、年が明けてからは、むしろ守ってくれているような感覚になり、そこで寝るようになった。親父のベッドで寝て、親父の車に乗って、親父の塾につき、親父の椅子に座る。ああ、そうだ、親父は少量の血を床にこぼして死んだ。その床のいちぶを隠すために、その部分だけを剥ぎ取り、自分の椅子の床のスペースと交換した。保護者からはこれで見えない。完璧だな、と考えていたが、今思うとアブノーマルである。まあでも、あのときできた最善は、いま考えても、そこまでまあ愚策とも思えない。いま考えても、狂ってはいるが最善だなとおもう。
不動産売却、塾の存続については、さまざまな人と話して決断を下したが、ネットでもとある方に相談に乗っていただいた。名前は前例どおり出さないが、大きな感謝を述べる。塾の存続は、きわめて苦しんだ。続けたいという意志だけでは、続けられないのだ。体調と体力さえあればやれた。これは結果論だが。この後、コロナが蔓延する世の中では、続けなくても良かったのかもしれない。結果論だが。
親父は体調にかんしても、完璧をつくしていた。机の引き出しに一つ、キッチンに一つ、キッチンの引き出しに一つ、それぞれ正露丸を置いていた。なんなら歯ブラシと電動シェーバーまで置いてあった。遅刻をしても、なにがあっても対処ができる。やっぱり、完璧だな、とまたもや再確認をした。
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実家も片付き、返金処理ももう少しというところで、兄貴から連絡が入った。岡山の女性と交際に発展したとの旨だった。不自然さの正体はこれだった。あのクソ忙しい中で、なにをやっていたかと思えば、プリクラを取ったりして遊んでいた。気色が悪かった。当時は、なにやっているんだこいつは、と思いつつも、まあいたずらに邪魔をされるくらいなら、別に遊んでおいてもらった方がいいと思ったので、バカとは思いつつも納得はした。まあ、でもパチンコの件といい、逃避したい行動の一つなんだろうと思うと、いまは享受できる。客観的に見て狂っている行動は、遺族にとっては、正常さを保ちたいがゆえ、なのだ。
まあそんな暇があるなら、少しでも家を片付けなどをしとけとは思うが、かれができたとは思わないので良しとしよう。
銀行との往復作業はさほど大変ではなく、いやめんどうではあったが、返金処理も終わった。銀行はいまだにガラパゴスで、カタカナ入力をしなくてならず、一文字でもミスると返金は通らない。不便だなあと思いつつも、完璧に仕上げて、間違っている請求があったら連絡をくれという書類も出した。そして、塾は存続の運びとはならなかった。体力面で不安があったからだ。万が一続けられたとしても、途中でギブアップすると、これは2度にわたって迷惑をかけることになる。
ひとつは、親父の塾にケチをつけたくなかった。もうひとつは、いっさいがっさい、こわかった。それが正直なきもちだ。そういう旨を描くと、真摯に受け取ってもらえる保護者の方もいて、これもまた嬉しかった。閉めるにも関わらず、自分の心情と方針を受け取ってもらえたのは嬉しかった。存続の声はきわめて大きかった、それは長年付き合いのある会社さんからも同じ。残念だった、としかいいようがない。なんども謝った。体力にいっさいの自信がなく申し訳ない、と。
無礼をする保護者はきわめて少なかった。親父がちゃんと選定しているな、と思った。本当になかったとおもう。少なかったのではなく、トラブルらしいトラブルはなかったのだ。閉めるときに、キレイに閉められるのは珍しい。良かった。実家の売却手続きもいったんは終わり、塾と実家にかかわるすべてが終了したのは3月ごろだった、と記憶している。そこから、ぼくは半年ほど寝たきり状態に陥る。いっさい動けなかった。記憶もほとんどない。地獄をすべて背負ったのだ、仕方なかった。自分以外にやれる人間はこの世に存在しなかった。
<now>
体調はようやく(※おそすぎワロタ)、今年に入って、だんだんとよくなってきた。20代前半のいい状態に戻りつつある。ここまで回復が遅れてしまったのは、きみらには分からない、生き地獄だったからだ、としか言えない。もっとグロテスクな内容もじっさいある。姉貴にホテル観光ツアーの旅費を求められて精算したり、塾の残ったお金を寄越せと言われたり、まあこんなのはこの1行で済ますべきだ。
このような状態で、無給のアニメブログを続行しようとしたのは、無茶だった。まあブログの寿命がいくばくかは知らないが、まだしがみついている。出したい「楽しい記事」はあと2~3本ていど。それが終わると、とたんに電池は切れるだろう、と思う。たかが一つの個人サイトが終わるのはよくあることなのだ、仕方がない。そういうと、きみらは納得して、スマホのブラウザページを閉じるだろう。