*パズルは解けるが、真相にたどり着くのが困難だった
「Aにはこういった特徴がある」「Bは要素別に整理ができる」というのはとても得意だ。じっさい、網羅的に確実にそれを遂行することは時間をかければできる。構造から似たものを探して分析するのも好きだ。これは数学的な思考だとおもう。
ともかく、このブログにおいても、アニメーターの特徴の整理などを行ってきた。また、このアニメとあのアニメと構造が同じで、内容はいっさい違うけれど、構造だけ抜き出してみると似ている、というのも扱ってきた気がする。つまり、アニメーション作品のそれじたいの区分、特徴の見出し、比較といった、構造の処理、については、他のブログとは異なった視点で扱えた、とおもう。ダスティネス・フォード・ララティーナは実にカワイイというときもとうぜんあったけれど。
内容の処理は苦手だった。そのため、基本的には、作品に触れる際に、ぼくは内容の処理、ではなく、構造の処理から入った。どういう風な構造なのか、をよく考えた。A→B→C→Dという区分の中で、どういう比率で、どこがもっとも重要かを考えた。つまりは、「この作品は、おおよそ、どれくらいの区分に分けることができて、そのうちどの部分がもっとも重要か」ということを考えた。
しかしながら、この方法では、基本的に、「粗探し」になってしまうことが多かったように思う。クリティカルなシーンがうまくいっていなければ、ぼくは容赦なく貶してきただろうし、それさえうまくいっていれば、他のシーンが多少役に立っていなくても、称賛してきたつもりだ。しかし、この方法には、もうひとつダメな点があり、「結果論」になりがちだった。
ぼくは内容の処理について、他人よりもひどく劣っているところがあると思ったので、構造の処理に重きを置いた。もうひとつダメだったのは、クリティカルなシーンに最も重きを置いたはずなのに、そうではない(つまり、内容としては比較的どうでもいい)シーンに対して、構造的に自分の論理と感情に引っかかってしまう・違和を感じてしまうシーンについて、中立的な判断を下せなかった。それらのシーンはすべてダメ、よって作品もダメと言い切ったケースがほとんどだ。これはよくなかった。そして、こういうことをしてしまうと、チャームは見いだせない。それ以上の内容的な魅力、チャーム、つまり、「この作品はここが素晴らしいから面白いのだ」ということを言うのは、構造的な違和を感じて、そこを延々と考えてしまう自分には難しかった。
だから、ほとんど、演出を語るような記事は書けなかったし書かなかった。それなりにチャレンジはしたが、あまり良いイメージでかけた記事はほとんどない。「恋愛ラボ」くらいかな。唸らせるようなものを書いてみたかったが、自分の向いてないことはするべきではない、とおもう。肺を一つ失いながら、未だに圧倒的な書きものをしているかれや、自分の抱いた思いすべてを包み隠さずに正直に書く、かれに任せておけばよい。でも、やはり、アニメーションを語るうえで、どこか王道であって、まあ簡単に言えば、憧れだった。自分の憧れることはやはりいつも、自分の能力とはベクトルが違っている。
ぼくがやったことは、単純な整理と構造の処理だけだ、とおもう。この作品は、こういう区分に分けられて、ここが重要です。そこまではよく分かる・理解したつもりだ。でも、それ以上のことは分からない。このキャラクターがなぜこの行動をわざわざ取ったのか、そういうのを考えるのは苦手だった。
だからこそ、やはり、演出や作品内容などの記事で、勝負をしなくてよかったと心の底から思う。とても高い読解力・行間を読む力を求められるものであり(構造的には提出できない)、その上で作品の前では真摯になんとか中立さを保たないといけないような気がする。いや、なんというか、中立さというと嘘くさいな。とにかく、真摯でいなくてはならない気がする。ぼくには分からない領域だ。
いっぽうで、アニメーターの特徴や、それらの整理、時代ごとの変遷の分析はとても面白かった。ひたすらに取り組んだ。この時期には、このタイミングとこのディテールがある、そういう風な仮定と推論を繰り返すことは、めっぽう性に合っていた。知識不足で、誰か(もしくは時代背景)からの影響についてまでは書いた覚えは少ないが、まあぼくに求められたことではあるまい。その辺については、べつだん気にしていないし、それならば影響(バイアス)抜きで考えられてラッキーとまで思えた。
きわめて長く追ったアニメーターはおそらく、増尾昭一と野中正幸、本谷利明の3名と少ないが、まあ自分にしては出来たほうかなとおもう。増尾昭一については、ほとんど研究を終えられた。見ていない作品はまだあるが、そこまでの気力や時間はもういっさいない。将来的には、個人サイトを作って、そこにアーカイブ化するつもりだ。増尾昭一の本をコミケで作りたいという話はTwitterで上がっていたし、メディアの日の目を浴びる日はいつか来るはずだ。アーカイブにしておくべき、と思う。
エフェクト作画の取り上げについて、嗜好で選択した部分は、もうどうしようもなかった。そこまで器用な人間ではない。ひどく真似事じみた、幼稚な作画と判断すれば(※この判断をどうやらみんな「情緒的」「感情的」と呼んでいるんだとおもう)、取り上げる気にはならなかった。わざわざお世辞を言う人間でもない。しかし、公平性は欠いた。エフェクト作画に特化したのであれば、公平性は欠くべきではなかったが、自分の情緒や不器用さはここで響いてしまった。
そして、構造的な処理には限界がある。これは単純な作業の連続になってしまって、規則性などを見出すことに慣れすぎてしまった。つまり、飽きたのだ。気分転換に内容の処理ができればよかったのだ。しかし、内容的な処理はできないし、やりたくない。ぼくのブログはここで行き止まってしまった。
「Aにはこういった特徴がある」「Bは要素別に整理ができる」というのはとても得意だ。じっさい、網羅的に確実にそれを遂行することは時間をかければできる。構造から似たものを探して分析するのも好きだ。これは数学的な思考だとおもう。
ともかく、このブログにおいても、アニメーターの特徴の整理などを行ってきた。また、このアニメとあのアニメと構造が同じで、内容はいっさい違うけれど、構造だけ抜き出してみると似ている、というのも扱ってきた気がする。つまり、アニメーション作品のそれじたいの区分、特徴の見出し、比較といった、構造の処理、については、他のブログとは異なった視点で扱えた、とおもう。ダスティネス・フォード・ララティーナは実にカワイイというときもとうぜんあったけれど。
内容の処理は苦手だった。そのため、基本的には、作品に触れる際に、ぼくは内容の処理、ではなく、構造の処理から入った。どういう風な構造なのか、をよく考えた。A→B→C→Dという区分の中で、どういう比率で、どこがもっとも重要かを考えた。つまりは、「この作品は、おおよそ、どれくらいの区分に分けることができて、そのうちどの部分がもっとも重要か」ということを考えた。
しかしながら、この方法では、基本的に、「粗探し」になってしまうことが多かったように思う。クリティカルなシーンがうまくいっていなければ、ぼくは容赦なく貶してきただろうし、それさえうまくいっていれば、他のシーンが多少役に立っていなくても、称賛してきたつもりだ。しかし、この方法には、もうひとつダメな点があり、「結果論」になりがちだった。
ぼくは内容の処理について、他人よりもひどく劣っているところがあると思ったので、構造の処理に重きを置いた。もうひとつダメだったのは、クリティカルなシーンに最も重きを置いたはずなのに、そうではない(つまり、内容としては比較的どうでもいい)シーンに対して、構造的に自分の論理と感情に引っかかってしまう・違和を感じてしまうシーンについて、中立的な判断を下せなかった。それらのシーンはすべてダメ、よって作品もダメと言い切ったケースがほとんどだ。これはよくなかった。そして、こういうことをしてしまうと、チャームは見いだせない。それ以上の内容的な魅力、チャーム、つまり、「この作品はここが素晴らしいから面白いのだ」ということを言うのは、構造的な違和を感じて、そこを延々と考えてしまう自分には難しかった。
だから、ほとんど、演出を語るような記事は書けなかったし書かなかった。それなりにチャレンジはしたが、あまり良いイメージでかけた記事はほとんどない。「恋愛ラボ」くらいかな。唸らせるようなものを書いてみたかったが、自分の向いてないことはするべきではない、とおもう。肺を一つ失いながら、未だに圧倒的な書きものをしているかれや、自分の抱いた思いすべてを包み隠さずに正直に書く、かれに任せておけばよい。でも、やはり、アニメーションを語るうえで、どこか王道であって、まあ簡単に言えば、憧れだった。自分の憧れることはやはりいつも、自分の能力とはベクトルが違っている。
ぼくがやったことは、単純な整理と構造の処理だけだ、とおもう。この作品は、こういう区分に分けられて、ここが重要です。そこまではよく分かる・理解したつもりだ。でも、それ以上のことは分からない。このキャラクターがなぜこの行動をわざわざ取ったのか、そういうのを考えるのは苦手だった。
だからこそ、やはり、演出や作品内容などの記事で、勝負をしなくてよかったと心の底から思う。とても高い読解力・行間を読む力を求められるものであり(構造的には提出できない)、その上で作品の前では真摯になんとか中立さを保たないといけないような気がする。いや、なんというか、中立さというと嘘くさいな。とにかく、真摯でいなくてはならない気がする。ぼくには分からない領域だ。
いっぽうで、アニメーターの特徴や、それらの整理、時代ごとの変遷の分析はとても面白かった。ひたすらに取り組んだ。この時期には、このタイミングとこのディテールがある、そういう風な仮定と推論を繰り返すことは、めっぽう性に合っていた。知識不足で、誰か(もしくは時代背景)からの影響についてまでは書いた覚えは少ないが、まあぼくに求められたことではあるまい。その辺については、べつだん気にしていないし、それならば影響(バイアス)抜きで考えられてラッキーとまで思えた。
きわめて長く追ったアニメーターはおそらく、増尾昭一と野中正幸、本谷利明の3名と少ないが、まあ自分にしては出来たほうかなとおもう。増尾昭一については、ほとんど研究を終えられた。見ていない作品はまだあるが、そこまでの気力や時間はもういっさいない。将来的には、個人サイトを作って、そこにアーカイブ化するつもりだ。増尾昭一の本をコミケで作りたいという話はTwitterで上がっていたし、メディアの日の目を浴びる日はいつか来るはずだ。アーカイブにしておくべき、と思う。
エフェクト作画の取り上げについて、嗜好で選択した部分は、もうどうしようもなかった。そこまで器用な人間ではない。ひどく真似事じみた、幼稚な作画と判断すれば(※この判断をどうやらみんな「情緒的」「感情的」と呼んでいるんだとおもう)、取り上げる気にはならなかった。わざわざお世辞を言う人間でもない。しかし、公平性は欠いた。エフェクト作画に特化したのであれば、公平性は欠くべきではなかったが、自分の情緒や不器用さはここで響いてしまった。
そして、構造的な処理には限界がある。これは単純な作業の連続になってしまって、規則性などを見出すことに慣れすぎてしまった。つまり、飽きたのだ。気分転換に内容の処理ができればよかったのだ。しかし、内容的な処理はできないし、やりたくない。ぼくのブログはここで行き止まってしまった。