*すべて意図して、コントロールをした
ぼくは他のアホみたいな長文演出ブロガーとは異なり、こういった自分語りが読者にとっては圧倒的に邪魔であることを分かっていたので、そういったテキストは最低限にしてきた。そうして、テキスト面でも、すべて、とまでは言わないが、ほとんどコントロールができたようにおもう。
たとえば、「オタク」という表現をよく用いたのは、君たちを少し怒らせるためだ。これは前にも述べた。読み物はとても受動的なもので、「能動的に、君たちから読む・字面に目を走らせる」工夫を施した。気持ちを誘導した。完全ではないが、君たちが少しイラッとしたときに、注目させる・読ませることには成功をした。知識がなくて不安な場面には、「分からなくても大丈夫( ^ω^)」と、安心を与えた。ブログ後半(2015以降)はほぼ意図して、これらを用いた。
「参考書のような文章」というレスポンスはぼくを喜ばせた。ぼくは、テキストの最上位にあるのが参考書や教科書のたぐいと思っているので、それはぼくにとって至上の褒め言葉だったのだ。
もう一つの工夫は、漢字、カタカナ、ひらがなの割合である。漢字が多くなったり、◯◯的といった三文字修飾語や、難しい言葉は極力(できる限り;こういう風に)排除した。小学生でも読めるテキストに仕上げた。これは教えてもらった。また、漢字で連続してしまうところは別の言葉を使い、「ここらへんで読者は飽きるな」と思ったところに、カタカナや記号などの工夫を入れた。つまり、読みやすさを最大にした。他のクソみたいなブログと違って、少なくとも、それなりに読みやすい、ひどく言えば、どんなにノータリンな人間でもわかるテキストに仕上げた。そのために、ノータリンが集まりすぎて、余計に追記をせざるを得ないことが多かったのは、予想外としか言いようがないが。
「君ら」と「みんな」と「ぼくたち」は、すべてニュアンスが異なる。「君ら」と「キミら」ですら、読者に与えるニュアンスは異なってくる。ここまでは考える必要がなかったな、と振り返っておもう。考えすぎた。もっと、別のところに労力を使うべきだった。
しかし、自分を完全にコントロールできなかったのが最もダメだった部分だ。キミらの多くが言う、情緒的な部分が出てしまうと、途端に汚い言葉使いになった。まあ、それはそれでいいのだけれど、良くなかったのも事実だ。でもまあ、ここまで楽しませたらよかろう。これを読んだ後に、他の記事を振り返って読むと、( ^ω^)の顔文字はどういう風にキミらには映るだろうね。
はっきり言うが、いっさい見下していない。「書き手と読者は対等であるべき」と以前述べたのは本当だ。癇癪持ちで、自分をコントロールはうまくできなかったが、ブログという空間の雰囲気は、ほぼ完全にコントロールに務めたし、できたとおもう。そして、これは塾のやり方なのだ、と回顧しながらおもう。確信犯ではない、いま気付いた。
*影響
ちょこハメさんが辞めたのはもったいないけど、まあかれの人生だしな。まあ、野中について、とうじのぼくにすべてを任せたのは、かれのミステイクだろうね。さすがに放り投げすぎ。大匙屋さんについては、すべて感謝をしている。ぼくの分からない部分はすべて、しつこく(※3日ぐらい同じ質問について話したこともある、自分が理解するまで質問を繰り返した)質問しても答えてもらった。かれら2人の影響は大きかった。テキスト面はとうぜんとして、人生としても。
まあただ、ぼくがなにか他人の人生に介入する権利はないのだ。そんなおこがましい権利は、だれしも持てないし、持たないほうがよい。イチローだって仰木監督がいなかったら大成していないだろう?野茂もそうだ。ぼくが言うのは、「それ以上働くと死ぬから、会社を辞めろ」ということだけ。死に直結しそうな事柄は、緊急避難させた。人生の介入や、人のやりたいことの否定はあまりしなかった。したところで何になるんだ。ぼくには分からない。
影響とはいえば、そうだ。うずらインフォさんと直接の交流はなかったけれど、かれの引退はやはり響いた。いや、正確にいうと、「かれの引退に対する反応」に対して、げんなりした。「よくあること」とひとことで済ます、なんの貢献もしてなさそうな人間がいうのは、きわめて不愉快だった。うずらインフォのような圧倒的に、人の役に立っているにまちがいないサイトに、まあよくもそこまでの傲慢さをもてたものだとおもう。そういう人たちには、はやくくたばって欲しいね。