着せ替えとうとう完結しましたね。
最終巻はどうかなーと思っていたのですが、素直に最後まで楽しめました。

いろいろ語りたいところはあるのですが─
ボクにとっては「ハニエル」の章、最後のコスプレショーである「コミケの段」が最も刺さりました。理想を中々作れず、それでも足掻いたごじょーくんの姿に感銘を受けたのもありますが、最もインパクトが大きかったのは「ハニエルの造形」と「喜多川のコミケでの振る舞い」です。

さて、劇中漫画「天命」のハニエルを描いたのは、司波刻央でしたよね。見て分かる通り、司波刻央は天野喜孝をモデルとしています。天野喜孝は80~00年代のキャラクターデザインの頂上にいた人物です。つまるところ、この物語のラスボスとしてふさわしい。
それで、天野喜孝のキャラは、その繊細さのために「一枚絵」で最も魅力が出る。
逆に、実写・アニメーションとなると途端に難しい。
(※そういえば「天使のたまご(1985/映画:」押井守作品)」も北米上映で人気を博していました)。

コミケでの喜多川のハニエルコスプレショーは圧倒的でした。
なぜなら、繊細なキャラクターが実在しているかのように振る舞ったからですね。
もう少し言うならば、アニメと違ってコスプレイヤーは素の部分も見られてしまうわけで、その部分すらひょいと飛び越えて、劇中原作「天命」を想起させるまでに及んだショー。アスペな厳格な司波センセもこれには、少し考えた後で、このコスプレショーに納得をせざるを得なくなった。
これからかれらは最良の人生を歩んでいくんだろう、ごじょーくんも喜多川さんも。良かった良かったチャンチャン…と終わる前に…
ボクとして「困った」点をいくつか
まず1つ目に、ごじょーくんの気持ちはあまり追えませんでした。

ごじょーくんは顔にもモノローグにも、どこにも相手に対する感情を出せません。
ここは実は少し個人的に困った。アンフェアだったなあ。
喜多川はバッコリと、いやベッツリと感情をあらわにして相手に伝えるわけです。「ちゅきちゅきごじょーくん♡」のように。これが「ごじょーくんの心」や「不自由さのテーマ(1*)」と対比になっていることは承知の上なのですが、クラスメイトと打ち解けた後はもう少しナチュラルに出ていいのではないか。
自分の気持ちにごじょーくんが気づいた後に起こる喜多川さんとのケンカの解決も、なんでこんなに早いのか、と驚くばかりで。ごじょーくんが最終的に(これまでの物語上で)自分自身で気付いて、自分から言い出さないと意味はないので。ちゃんと気付くんですが、言うまでに至ったのか?というのが少し気にかかった。
結果的には、喜多川さんの勢いに押されたなあ~という感想しかなく。まあそういうコンセプト、「人生なんてためらってないで、勢いでIKEA!オラァ!」っていう回答なのかもしれない。あとは縁がキミを導くだろうなんだろうなという風にあるていどの納得をしました。
(1*)...好きなことや趣味をおおっぴらに好きとはいえない、息苦しい不自由な世の中
2つ目にごじょーくんが好きなものを言えなくなった。
ひいては対人×コミュ障クソ人形オタクになってしまった原因である、のんちゃんの雑な扱いです。

これなんだったんだよ。あのときはごめんちょして終わりて。なんだこれ。小学校のときはイジメてメンゴメンゴwこれからは仲良くしようぜ、みたいな雑さ。
それでまあ喜多川さんと衣服の店長の昔話と、それぞれが組み合わってごじょーくんは自分の気持ちを理解して、やるべきこともわかるわけです。「さあ勇気出して、後悔しないようにね」って外部から押し出されている感じ。ごじょーくんに自発さを感じなかった。
のんちゃんは舞台装置でしかないんですよ。モノ扱い。女はモノ。産む機械。ごじょーくんに嫌がらせをして塞ぎ込む理由を作って解消するためだけに生まれたモノ。これって代わりがいくらでもいるじゃないですか。のんちゃんでないといけない理由が存在していないのが好かん。なんでほぼすべて解決した後にちょろっと出てきたのか。お前の役目はねえ!けえれ!っていう感じ。

いやまあ、ごじょーくんと喜多川さん、のんちゃんも含めて当時の誤解も解けて、かれらのこれからの人生が上手く行きそうなら良いんじゃないですか。作品構造に対して、ボクが納得できていない(違和感を抱いている)だけで、別に良いと思うんだ。
考えていくと、これはコミケの段を含めて、「他人との接触 / 人間関係の素晴らしさ」を主張したいんだろうな。この作品は、いろいろな人間関係によって、「縁がキミを導くだろう」みたいなことが多かった。ただ、ごじょーくんにとっては、人間関係というのは恐怖の対象しかなかった。ネガティヴな要素しかなかった。
でも喜多川さんと出会ってから、段々とごじょーくんのその人間関係に対する認識は変化していく。時々怖いところもあるけれど、やはり他人との関係によって、自分の考えや認識も変化していく。衣服屋の店長なんかがそうですよね。ごじょーくん、キミは怖がらなくていいんだよ。他人は見かけによらないし、こっちを気遣ってくれる人たちもたくさんいる。そういう喜びや幸せを問いている。
(やはり、旧劇を思い出してしまうなあと個人的には。
こんなに世界はキレイでないと思ってしまう笑)
コミケの段は素晴らしく、言う事なく。
ハニエル以降はやや舞台装置化、仕組みによって動いているような感じだった。まあどこにエンドをおいているかの話ではあります。ボクは、ありのまま言えば、ごじょーくんや喜多川さんに幸せになってほしく無かったのかもしれない。それは今の段階ではわからないですね。

少なくとも、ごじょーくんという魅力的なキャラクターは、舞台装置のようなロボットによって自分の行動を動かされるものであってほしくはなかったということだけは言えます。
最終巻はどうかなーと思っていたのですが、素直に最後まで楽しめました。

いろいろ語りたいところはあるのですが─
ボクにとっては「ハニエル」の章、最後のコスプレショーである「コミケの段」が最も刺さりました。理想を中々作れず、それでも足掻いたごじょーくんの姿に感銘を受けたのもありますが、最もインパクトが大きかったのは「ハニエルの造形」と「喜多川のコミケでの振る舞い」です。

さて、劇中漫画「天命」のハニエルを描いたのは、司波刻央でしたよね。見て分かる通り、司波刻央は天野喜孝をモデルとしています。天野喜孝は80~00年代のキャラクターデザインの頂上にいた人物です。つまるところ、この物語のラスボスとしてふさわしい。
それで、天野喜孝のキャラは、その繊細さのために「一枚絵」で最も魅力が出る。
逆に、実写・アニメーションとなると途端に難しい。
(※そういえば「天使のたまご(1985/映画:」押井守作品)」も北米上映で人気を博していました)。

コミケでの喜多川のハニエルコスプレショーは圧倒的でした。
なぜなら、繊細なキャラクターが実在しているかのように振る舞ったからですね。
もう少し言うならば、アニメと違ってコスプレイヤーは素の部分も見られてしまうわけで、その部分すらひょいと飛び越えて、劇中原作「天命」を想起させるまでに及んだショー。
これからかれらは最良の人生を歩んでいくんだろう、ごじょーくんも喜多川さんも。良かった良かったチャンチャン…と終わる前に…
ボクとして「困った」点をいくつか
まず1つ目に、ごじょーくんの気持ちはあまり追えませんでした。

ごじょーくんは顔にもモノローグにも、どこにも相手に対する感情を出せません。
ここは実は少し個人的に困った。アンフェアだったなあ。
喜多川はバッコリと、いやベッツリと感情をあらわにして相手に伝えるわけです。「ちゅきちゅきごじょーくん♡」のように。これが「ごじょーくんの心」や「不自由さのテーマ(1*)」と対比になっていることは承知の上なのですが、クラスメイトと打ち解けた後はもう少しナチュラルに出ていいのではないか。
自分の気持ちにごじょーくんが気づいた後に起こる喜多川さんとのケンカの解決も、なんでこんなに早いのか、と驚くばかりで。ごじょーくんが最終的に(これまでの物語上で)自分自身で気付いて、自分から言い出さないと意味はないので。ちゃんと気付くんですが、言うまでに至ったのか?というのが少し気にかかった。
結果的には、喜多川さんの勢いに押されたなあ~という感想しかなく。まあそういうコンセプト、「人生なんてためらってないで、勢いでIKEA!オラァ!」っていう回答なのかもしれない。あとは縁がキミを導くだろうなんだろうなという風にあるていどの納得をしました。
(1*)...好きなことや趣味をおおっぴらに好きとはいえない、息苦しい不自由な世の中
2つ目にごじょーくんが好きなものを言えなくなった。
ひいては対人×コミュ障クソ人形オタクになってしまった原因である、のんちゃんの雑な扱いです。

これなんだったんだよ。あのときはごめんちょして終わりて。なんだこれ。小学校のときはイジメてメンゴメンゴwこれからは仲良くしようぜ、みたいな雑さ。
それでまあ喜多川さんと衣服の店長の昔話と、それぞれが組み合わってごじょーくんは自分の気持ちを理解して、やるべきこともわかるわけです。「さあ勇気出して、後悔しないようにね」って外部から押し出されている感じ。ごじょーくんに自発さを感じなかった。
のんちゃんは舞台装置でしかないんですよ。モノ扱い。女はモノ。産む機械。ごじょーくんに嫌がらせをして塞ぎ込む理由を作って解消するためだけに生まれたモノ。これって代わりがいくらでもいるじゃないですか。のんちゃんでないといけない理由が存在していないのが好かん。なんでほぼすべて解決した後にちょろっと出てきたのか。お前の役目はねえ!けえれ!っていう感じ。

いやまあ、ごじょーくんと喜多川さん、のんちゃんも含めて当時の誤解も解けて、かれらのこれからの人生が上手く行きそうなら良いんじゃないですか。作品構造に対して、ボクが納得できていない(違和感を抱いている)だけで、別に良いと思うんだ。
考えていくと、これはコミケの段を含めて、「他人との接触 / 人間関係の素晴らしさ」を主張したいんだろうな。この作品は、いろいろな人間関係によって、「縁がキミを導くだろう」みたいなことが多かった。ただ、ごじょーくんにとっては、人間関係というのは恐怖の対象しかなかった。ネガティヴな要素しかなかった。
でも喜多川さんと出会ってから、段々とごじょーくんのその人間関係に対する認識は変化していく。時々怖いところもあるけれど、やはり他人との関係によって、自分の考えや認識も変化していく。衣服屋の店長なんかがそうですよね。ごじょーくん、キミは怖がらなくていいんだよ。他人は見かけによらないし、こっちを気遣ってくれる人たちもたくさんいる。そういう喜びや幸せを問いている。
(やはり、旧劇を思い出してしまうなあと個人的には。
こんなに世界はキレイでないと思ってしまう笑)
コミケの段は素晴らしく、言う事なく。
ハニエル以降はやや舞台装置化、仕組みによって動いているような感じだった。まあどこにエンドをおいているかの話ではあります。ボクは、ありのまま言えば、ごじょーくんや喜多川さんに幸せになってほしく無かったのかもしれない。それは今の段階ではわからないですね。

少なくとも、ごじょーくんという魅力的なキャラクターは、舞台装置のようなロボットによって自分の行動を動かされるものであってほしくはなかったということだけは言えます。