映像を見る際に何を見て、自分は何を考えているのか。なにか残したい。それを少し言葉にしたいと思いました。


最近はペルソナを被っていましたが、今は素の自分で書こうと思います。
まあこれはつまるところ下書きがないです。今考えて書いてる。この文字列たちを、自分が世に出す時に、まあこれはあまりにも不格好だな、とか、これはあまりにも気障だな、とかそう思ったら削除するのですが、今回はそういったことをしません。

ペルソナを被るというのは、自分の文章に対して、今風に言えば、Vtuberのていの良いガワを着せるような行為です。本読者の皆様には、「( ^ω^)」などが代表的でしょうか。いい意味で言えば読みやすく、悪い意味で言えば、自分ではないだれかが書いていることにして、これに対する文責はない、と自分の中で言い訳を承諾をしているものです。

そういったことは今回はしないでみようかなと思い立った次第です。
なにか事情があったわけではないです。たまには変なこともやってみようみたいな思いつきです。まあ、深層心理ではなにか、自分に対して不満があるのかもしれません。うっかりそれについて思考をしかけました。それは後ほど。


まず、映像は、見る前、見ている最中、見た後、の三つに分けられます。
それらの区分において、その映像の印象はいっさい異なるからです。

それでは、映像を見る前の話をします。事前情報はほとんど自分の中にいれません。気になっている作品、たとえば、原作の漫画がアニメーション化されたときなどであれば、なおさら余計にそれをします。自分の中での基準が跳ね上がると、PV段階でこれは原作のニュアンスを解釈できていない、と勝手に(つまり正しくない思考で)断じてしまいます。

つまり、映像を見ません。見ないということは、映像に対しての感想を当然ですが持てません。印象(というかその欠片すら)を持ち帰れないですから。

これを避けるために、情報をほとんど入れない、というわけです。中身の出来の良さそれ以上に「視聴意欲を失わない」、モチベーションを保つために、情報を積極的に入れないのです。この背景にあるのは、長年のルーティンが原因であることは多くの記事で語っているはずです。それは割愛。



では、見ている最中のお話をしましょう。
なにか技術的な部分、たとえばこの画面は、とあるレイアウト/演出技法が演出手法の一環としてなされている、といった具体的なことは意図的には考えません。浮かんできた場合は仕方ありませんが、中心となるのは「没入の度合い」です。

自分は今どのていど映像に没入できているのかを気にします。自ら真剣にならずとも、映像に集中できている、ないしは映像に浸れている。そういった場合は、(評価を行う前に)ほとんどが良い作品と分かります。この世の中のすべての映像(すべての創作物/商品)は、没入/集中/能動、といった脳の機能群が働くように設計されていると考えるためです。

没入ができているかのチェックは簡単です。「ながら見」をしないことです。徹底的にこれをしています。姿勢よくなどと考えたことはありませんし、なにか他の作業と並行してコスパよくやろう。そういった視聴は、映像に対してではなく、それを見ている自分への侮辱行為です。

短くとも60分はあろうというものに対して、すべての集中は約束できません。しかし、初めからそれを諦めて、のうのうとスマホを触りながら見る、というのは自分の心への唾吐きです。なぜ、その映像を見ようという気になったのかを思い出す必要があります。

おそらくですが、その映像の情報に惹かれるものがあり、これはやはり一度見てみないといけない、そういった風に思考をしたが故、その映像の前にあなたは立っている。だからこそ、その映像を見るのです。意図的に1コマも逃さないぞ、といった意気込みで臨むのです。映像視聴はまず自分との戦いです。

さいきんはわざと、小さい画面ではありますが、スマホで見る、という行為も自分は試しています。
(※これをすると、けっきょく良い作品は大きなモニターで見たいため、パソコンに移行します)


だからこそ、最初に自分は区分をしたのです。
見る前、見ている最中、見た後と。

見る前に戻ると、やることがあります。

見る前には、その視聴を妨げるものをできる限り排除します。普段づかいのパソコンであれば、映像はモニターの全画面にします。プラットフォームの通知なども切りますし、スマホのアラームなど切ります。家に配達が来ても、よしんば大家が家賃をつつこうと関係はありません。自分にとっての優先順位は、その映像なのですから。

見ている最中の感情は、作品によりますがなるべく開放的にしています。思わず頭を抱えたくなるような失敗のシーン、自分の服のどこかを強く握らないといけないほどにハラハラと緊張するシーン、そういった部分は開放的にしています。つまり、自分の脳みそに対して、映像の感情を残さないように身体に出します。何でそんなことをしたんだと思えば、自分は首をかしげますし、これはまいった/降参だなという場面では、(かるくですが)万歳のポーズをします。

それらによって、余計な思考の感情は自分の脳みそに残らずに、鮮明なところ(その作品において、もっと核心的なところ)が残ると考えています。


見た後は、さほど気にしていません。その映像に対する評価は自動的にくだされているだろうし、再度検討の余地があれば、自分で見直すはずです。なにをしてもいい。リラックスしていると思います。

経験上の話でいえば、自分はふーんこんな感じかと不満げな態度(これは意識していませんが、おそらく不満、満足ができていないと思う)が残っているような割合が70%ほど、おおこれはすごかったなあと満足な態度が20%ほど、そして、なんてものを見てしまったのだ、と満足を超えて、驚嘆と感動に満ちた場合が5%ほどあります。

これを傑作/名作/佳作と呼ぶのでしょう。

残り5%はというと、ネガティヴな悲鳴です。がっかりということです。この90分は他に使えば良かったなと後悔をしているとともに、このような映像を良くも検討/恥/もなしに、世の中に放り出すことができたな、と関係者各位に脳みその無さ、知性の無さの責任を思考上で叩きつける類のものです。

これを駄作/悪作/ゴミ/カスと呼ぶのでしょう。

呼び方のくせはさておき、僕らはどちらを求めて映像を見ているのでしょうか。

一見すると名作を求めているように見えますが、いやそうです、名作を求めて僕らは映像を見ているはずです。そうして、映像の視聴に真剣になればなるほど、皮肉なことに、駄作と出会う機会は増えます、駄作であればよいですが、不快な気持ちになればそれは作品とはもう呼べません。ただのイヤだった商品です。

もう一つ皮肉なことに、名作はあるていどすぐに分かってしまいます。それは前述した、「没入の度合い」の「速さ」です。スタート時で、少しもぞもぞと他の作業をしていたとしても、かれらはすぐに僕らを映像に連れていきます。無理やりではなく、僕らが見入ってしまうように。
(※魅入られるとはまさにそういった物事のことでしょう)



もっと整理をして書くこともできるはずですが、これでいったんおしまいにしましょう。簡単に振り返っていくと、映像視聴というのは、真剣になるべき、というのが僕の主張です。ですが、皮肉にも、映像視聴に真剣になればなるほど負荷は上がりますし、大多数が大した映像でもないにも関わらず、自分の脳みそのメモリーに刻まれてしまう。

だからといって、「大した映像ではない/自分と解釈が異なる(であろうと推測される)」ものを「視聴不要なもの/視聴に値しないもの」とみなしてはいけない。その行為には、自分の「正しい」という推測する思考を過剰に信用しすぎている、という本質があぶり出されます。

つまり、繰り返しになりますが、正しくないと思われる映像と推測し、それを見ないという行為を再現なく繰り返していくと、視聴可能な映像がきわめて少なくなるか、なくなります。何も見れなくなります。だって、これそれの作品は視聴に値するものではないのですから。自分にとって許せないような映像であればあるほど、それがなぜそうなってしまうのか、自分の価値観を洗い出す機会と捉えてはいかがですか。映像視聴とは、物体の垣根を超えて、自分の根底にあるものに対しての挑戦なのです。そう考えないと、そうではないと、労力をつかって映像を見る意味などなくなってしまうのです。