映画の話でもしようぞ
■ゲーム (デヴィッド・フィンチャー)
誕生日プレゼントに弟から、CSVというサービスを勧められる。それから、ジェットコースターのように、二転三転していく物語は、同時に視聴者も疑心暗鬼にさせる。オチがいまいち。どうにも、腑に落ちない感じがした。
■キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(スティーブン・スピルバーグ)
実話を元にした映画である。詐欺師役を演じたのはレオナルド・ディカプリオ。詐欺師の巧妙な手法や、刑事とのやり取りが面白い。特に素晴らしかったカットは、カールとフランクが二人で空港の通路を通りながら、会話をする長い1カットだ。お互いのことを思いつつ、それでも、やはりそのことについては触れることができない切なさがにじみ出ていた。本作品で特に重要なテーマは、「家族のあり方」だろう。それがしみじみと伝わるのが、毎年のクリスマスにおけるフランクの行動であった。
■オデッセイ(リドリー・スコット)
火星に取り残された植物学者が、生き残るために最善を尽くす話。見るのは二度目だったので、やや見方も変わった。ワトニーが畑を耕し、地球と交信を取ろうと試みる辺りまでは、素晴らしく面白い。だけれど、サプライの打ち上げが失敗して、仲間が助けに行くという展開になった辺りからは、ワトニーがやるべきことは殆ど残っておらず、彼以外の人物を多く映す。結果的に、モンタージュと音楽を多用する羽目になっている。この点で、後半は単調気味になっていた。
ただ、初見でも二回目でも同じ感想だったのは、その音楽の選定の巧さだった。音楽という要素は、船長のダサいディスコミュージックから始まって、最後まで付いて回るもので、特に「Starman」はカッコイイので音楽に聞き入ってしまう。結果、映像にも釘付けだった。謎中華資本の登場は、まあ、これだけ多くの人が国を超えて協力し合う必要がある、ということを示すものだろう。
■ゲーム (デヴィッド・フィンチャー)
誕生日プレゼントに弟から、CSVというサービスを勧められる。それから、ジェットコースターのように、二転三転していく物語は、同時に視聴者も疑心暗鬼にさせる。オチがいまいち。どうにも、腑に落ちない感じがした。
■キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン(スティーブン・スピルバーグ)
実話を元にした映画である。詐欺師役を演じたのはレオナルド・ディカプリオ。詐欺師の巧妙な手法や、刑事とのやり取りが面白い。特に素晴らしかったカットは、カールとフランクが二人で空港の通路を通りながら、会話をする長い1カットだ。お互いのことを思いつつ、それでも、やはりそのことについては触れることができない切なさがにじみ出ていた。本作品で特に重要なテーマは、「家族のあり方」だろう。それがしみじみと伝わるのが、毎年のクリスマスにおけるフランクの行動であった。
■オデッセイ(リドリー・スコット)
火星に取り残された植物学者が、生き残るために最善を尽くす話。見るのは二度目だったので、やや見方も変わった。ワトニーが畑を耕し、地球と交信を取ろうと試みる辺りまでは、素晴らしく面白い。だけれど、サプライの打ち上げが失敗して、仲間が助けに行くという展開になった辺りからは、ワトニーがやるべきことは殆ど残っておらず、彼以外の人物を多く映す。結果的に、モンタージュと音楽を多用する羽目になっている。この点で、後半は単調気味になっていた。
ただ、初見でも二回目でも同じ感想だったのは、その音楽の選定の巧さだった。音楽という要素は、船長のダサいディスコミュージックから始まって、最後まで付いて回るもので、特に「Starman」はカッコイイので音楽に聞き入ってしまう。結果、映像にも釘付けだった。謎中華資本の登場は、まあ、これだけ多くの人が国を超えて協力し合う必要がある、ということを示すものだろう。
2017夏アニメその他 雑草
時間は進んでいく。今年も、また夏が来た アッソーレ(^ω^)
※追記祭り
◆アホガール
ハイテンション・コメディ。畳み掛けるようなコメディ、意味不明な理不尽ギャグを緩急なく、どんどん展開していく。ずっとS字の高速を走ってる感じ。まともなサービスエリアが欲しい。赤ちゃんプレイ(3話)の件はぶっちゃけ、けっこうツボに来た。「こんな頭おかしい一家だから、お父さんはまともな役だな!」と思っていたら、あれだからね。俺も風紀委員長に風紀を乱されたい。ストッキングって卑怯じゃない?
◆ゲーマーズ
どこにでもいる高校生、というのは、こういう主人公にこそ言って良いものだと思う。で、散々に、平凡であると謳っておきながら、「実は強かった」「理由なく好かれる」主人公は多く、そういった主人公に辟易していた今までの背景がある。ああ、どうせ、こいつもゲーム強かったりするんだろうな、と思って見ていたら、そうではなかった。そして、理由なく好かれるわけでもなく、なにか特別な何かがあるわけでもなく。完全に、ミスリードに引っかかったという感じだった。
アマノくんは本当に、ゲームについて自分なりの信念があるという点を除けば、平凡である(現状は。しかし、たぶん、この「平凡さ」は彼の最大の武器なので捨てないだろう)。むしろ、自分なりの信念というものがある時点で、表面的に強いだけのキャラクターや、理由なくハーレム状態になるキャラクターよりも魅力的に映った。
[2話視聴後]
えっなにこれは…
[3話視聴後]
これって、「楽しさの違い」みたいな難しいテーマに挑むんかなと思ってたんだけど。2話もさ、上原くんとのやり取りで、一度は自分で黙殺したけど、やっぱ心から感じた楽しさは消せないんだな、みたいな主旨だったじゃん。「言葉にはしづらい難しい感情」を表現するんだな、なるほど、こりゃ期待と思っていたわけよ。なに、恋愛もそれと同じじゃないかって?…たしかに(´゚д゚`)
上の文章クッソ恥ずかしい、消したい。理由なく学校のヒロインから求愛されてんじゃねえか、ファッキューアマノ。まあ、恋はほら、よく分かんないことから発展することもあるからね。あとは、長髪わかめ頭のチアキちゃんかえして欲しいです。以上。どこに惚れたんだろう、それが、1話のAパート序盤の夏場で明かされるのかな?
[4話視聴後]
なんだ、このアマノくんの手のひらでコロコロされている感じは!踊らされている。テンドウと同じく、「ゲームの楽しさ」と「ゲームの勝ち負け」は別物だと(少なくとも、アマノくんにとっては)思っていた。アマノくんは、自分に合わないというだけであり、別にゲーム部の理念じたいを軽蔑していたりはしない。むしろ、尊敬している。ゲームには勝った方が楽しいに決まっているけれど、なかなか勝てないだけ(勝利を目指していない風に周りから見えた)。勝った方が楽しいけれど、ゲーム部ほどのストイックさは合わない。だから、ゲーム部を尊敬こそすれど、ゲームは自分にとって娯楽であり、入部するには至らなかったと。納得。
よく出来てんなあ。これで、アマノくんに「勝ちたいなら、練習しろよ」とか言えないわな。彼にとっては、あくまで娯楽だから。だけど、別に勝ち負けを放棄しているわけでもなくて、勝てたら嬉しいのは当然としてある。「ゲームの楽しさ」という言葉にしづらいテーマをよく伝えていると思う。「勝てないとゲームはつまらない」という感情がずっと自分にあったから、すごく納得しているんだと思う。
全く関係ないけど、各話感想ってこのクオリティのもので良かったんじゃないのかな…
1話Aパート序盤は相当に作り込んでいると思う。レイアウトもカメラワークも、ずば抜けて凝っていた。アマノくんがゲーム屋さんで消滅するところのエフェクトはそこそこ良かった。1話は、間のとり方が絶妙だったので、テンポを紐解く鍵になるかもしれない。
そうそう、あの、髪の毛の輪郭にハイライトが入っていたと思うんだけど、あれ何か面白いね。何でかは、分からないけれど、なんかキャラが引き締まって見えるような気がする。
[追記]

賭ケグルイは3話で各話終了だ。追うのがつらい。見ててイライラしかしない。そろそろ、何回目だこのハゲと言われそう。
( ^ω^)スイマセン テヘペロミ☆
( ^ω^)・・・
(^ω^)出来ないことはやるもんじゃないな!
(^ω^)でも、挑戦しないのと失敗したのでは明確な差があるから!(言い訳
また爆発を追う生活に戻ります。
※追記祭り
◆アホガール
ハイテンション・コメディ。畳み掛けるようなコメディ、意味不明な理不尽ギャグを緩急なく、どんどん展開していく。ずっとS字の高速を走ってる感じ。まともなサービスエリアが欲しい。赤ちゃんプレイ(3話)の件はぶっちゃけ、けっこうツボに来た。「こんな頭おかしい一家だから、お父さんはまともな役だな!」と思っていたら、あれだからね。俺も風紀委員長に風紀を乱されたい。ストッキングって卑怯じゃない?
◆ゲーマーズ
どこにでもいる高校生、というのは、こういう主人公にこそ言って良いものだと思う。で、散々に、平凡であると謳っておきながら、「実は強かった」「理由なく好かれる」主人公は多く、そういった主人公に辟易していた今までの背景がある。ああ、どうせ、こいつもゲーム強かったりするんだろうな、と思って見ていたら、そうではなかった。そして、理由なく好かれるわけでもなく、なにか特別な何かがあるわけでもなく。完全に、ミスリードに引っかかったという感じだった。
アマノくんは本当に、ゲームについて自分なりの信念があるという点を除けば、平凡である(現状は。しかし、たぶん、この「平凡さ」は彼の最大の武器なので捨てないだろう)。むしろ、自分なりの信念というものがある時点で、表面的に強いだけのキャラクターや、理由なくハーレム状態になるキャラクターよりも魅力的に映った。
[2話視聴後]
えっなにこれは…
[3話視聴後]
これって、「楽しさの違い」みたいな難しいテーマに挑むんかなと思ってたんだけど。2話もさ、上原くんとのやり取りで、一度は自分で黙殺したけど、やっぱ心から感じた楽しさは消せないんだな、みたいな主旨だったじゃん。「言葉にはしづらい難しい感情」を表現するんだな、なるほど、こりゃ期待と思っていたわけよ。なに、恋愛もそれと同じじゃないかって?…たしかに(´゚д゚`)
上の文章クッソ恥ずかしい、消したい。理由なく学校のヒロインから求愛されてんじゃねえか、ファッキューアマノ。まあ、恋はほら、よく分かんないことから発展することもあるからね。あとは、長髪わかめ頭のチアキちゃんかえして欲しいです。以上。どこに惚れたんだろう、それが、1話のAパート序盤の夏場で明かされるのかな?
[4話視聴後]
なんだ、このアマノくんの手のひらでコロコロされている感じは!踊らされている。テンドウと同じく、「ゲームの楽しさ」と「ゲームの勝ち負け」は別物だと(少なくとも、アマノくんにとっては)思っていた。アマノくんは、自分に合わないというだけであり、別にゲーム部の理念じたいを軽蔑していたりはしない。むしろ、尊敬している。ゲームには勝った方が楽しいに決まっているけれど、なかなか勝てないだけ(勝利を目指していない風に周りから見えた)。勝った方が楽しいけれど、ゲーム部ほどのストイックさは合わない。だから、ゲーム部を尊敬こそすれど、ゲームは自分にとって娯楽であり、入部するには至らなかったと。納得。
よく出来てんなあ。これで、アマノくんに「勝ちたいなら、練習しろよ」とか言えないわな。彼にとっては、あくまで娯楽だから。だけど、別に勝ち負けを放棄しているわけでもなくて、勝てたら嬉しいのは当然としてある。「ゲームの楽しさ」という言葉にしづらいテーマをよく伝えていると思う。「勝てないとゲームはつまらない」という感情がずっと自分にあったから、すごく納得しているんだと思う。
全く関係ないけど、各話感想ってこのクオリティのもので良かったんじゃないのかな…
1話Aパート序盤は相当に作り込んでいると思う。レイアウトもカメラワークも、ずば抜けて凝っていた。アマノくんがゲーム屋さんで消滅するところのエフェクトはそこそこ良かった。1話は、間のとり方が絶妙だったので、テンポを紐解く鍵になるかもしれない。
そうそう、あの、髪の毛の輪郭にハイライトが入っていたと思うんだけど、あれ何か面白いね。何でかは、分からないけれど、なんかキャラが引き締まって見えるような気がする。
[追記]

賭ケグルイは3話で各話終了だ。追うのがつらい。見ててイライラしかしない。そろそろ、何回目だこのハゲと言われそう。
( ^ω^)スイマセン テヘペロミ☆
( ^ω^)・・・
(^ω^)出来ないことはやるもんじゃないな!
(^ω^)でも、挑戦しないのと失敗したのでは明確な差があるから!(言い訳
また爆発を追う生活に戻ります。
賭ケグルイ03話 感想と作画Pickup
脚本・演出・作画
![28]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/4/d/4dcb07d7-s.jpg)
これまでの中で最も面白かった。まあギャンブルにはもう何も言わないと先週決めたので、内容を追っていくことはしないけれど、夢子の煽りブラフ、煽り耐性ゼロの糸目おばさんの描き方が良かった。煽りブラフってそうだよ、これがギャンブルアニメだよなあと思い出した。煽って煽って、相手を挑発して、実はただのブラフでした、挑発に乗った相手が後から気付いて、ハッとするタイミングが良い。ただ、「様子見とけ」と生徒会から言われたにも関わらず、安易に挑発ブラフに乗っちゃって案の定負けちゃうのは、生徒会役員の強さ、ひいては会長のラスボス感を増幅させるのには繋がらないのでは?
だいたいなんだよ、「生と死と」って名前はよおダセえんだよ、ギャンブルアニメっていうのは、こうもっと、ギャンブルの名前からカッコイイもんなんだよ剣の刺さる位置が任意で決められるのは百歩譲るけどそれがなんで二十四だったかってまさかの西洞院だったからなの?そんなダサい理由で何のひねりもなく本当に決めたとしたら頭おかしいと思うし勝算なくてもいいとか言い張ってんのになんでラストバトルは二十四に刺さってるのが確定的に扱われてんだよとかおかしいだろお前さWeb漫画続けてたほうがみんな幸せになってONE先生みたいにちゃんと自分の漫画がアニメ化されたんじゃねえのかキャラクターじゃなくて作者のほうがよっぽど短絡的すぎねえかお前牛乳先生時代のほうが

やっぱり…映像は最高やな!ここのシークエンスは相当かっこいい痺れた
三点透視+3D背景(広角気味?)+剣にフォローPAN
あと、糸目おばさんの吐息
まさか賭ケグルイでエフェクトが見られるとは予想外。ちょっとぼかしかかってるかな。このじんわり感、ああ腹の底から、夢子への憎悪が詰まっている感じがして良い。フォルム見ると政勝さんぽいね。
そうそう!Aパート序盤の早乙女の動きめっちゃ良かった。

ちょっと右に身体預けて、反動で踵を返して部屋から出ていく。呆然自失の早乙女の足元がおぼつかない感じをうまく表現してる。俺もパチンコで5万ぐらい負けたらこんな感じになるからよくわかる。だれが書いたかは分からんな~
レイアウト
![23]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/f/5/f550ceee-s.jpg)
パースが効いて奥行きが出ている画面。安定感がある。なんか良いですよね、なんでだろう。なんか良いけど、パースが効いてる、で終わらすとちょっとアレじゃん。もうちょっと踏み込みたい。画面左、屏風あたりの空間が気になる。
写真の構図-三角構図
http://space.geocities.jp/kawananoriyuki001/kouzu.html#sankaku


なんかこじつけっぽくて、これで良いのか悩んだけど、3人が安定しているからかなと。じゃあ、左側の空間はなんのためにあるんだよとか思ったんだけど、これは消失点の問題かなと思う。消失点は、糸目おばさん付近にあって、糸目おばさんを中心にすると、空間が大体同じになる。だから安定してるのかなーと思いました。いろいろ読みましたが、ぶっちゃけ、よく分かんないです。
![28]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/4/d/4dcb07d7-s.jpg)
これまでの中で最も面白かった。まあギャンブルにはもう何も言わないと先週決めたので、内容を追っていくことはしないけれど、夢子の煽りブラフ、煽り耐性ゼロの糸目おばさんの描き方が良かった。煽りブラフってそうだよ、これがギャンブルアニメだよなあと思い出した。煽って煽って、相手を挑発して、実はただのブラフでした、挑発に乗った相手が後から気付いて、ハッとするタイミングが良い。ただ、「様子見とけ」と生徒会から言われたにも関わらず、安易に挑発ブラフに乗っちゃって案の定負けちゃうのは、生徒会役員の強さ、ひいては会長のラスボス感を増幅させるのには繋がらないのでは?
だいたいなんだよ、「生と死と」って名前はよおダセえんだよ、ギャンブルアニメっていうのは、こうもっと、ギャンブルの名前からカッコイイもんなんだよ剣の刺さる位置が任意で決められるのは百歩譲るけどそれがなんで二十四だったかってまさかの西洞院だったからなの?そんなダサい理由で何のひねりもなく本当に決めたとしたら頭おかしいと思うし勝算なくてもいいとか言い張ってんのになんでラストバトルは二十四に刺さってるのが確定的に扱われてんだよとかおかしいだろお前さWeb漫画続けてたほうがみんな幸せになってONE先生みたいにちゃんと自分の漫画がアニメ化されたんじゃねえのかキャラクターじゃなくて作者のほうがよっぽど短絡的すぎねえかお前牛乳先生時代のほうが

やっぱり…映像は最高やな!ここのシークエンスは相当かっこいい痺れた
三点透視+3D背景(広角気味?)+剣にフォローPAN
あと、糸目おばさんの吐息
まさか賭ケグルイでエフェクトが見られるとは予想外。ちょっとぼかしかかってるかな。このじんわり感、ああ腹の底から、夢子への憎悪が詰まっている感じがして良い。フォルム見ると政勝さんぽいね。
そうそう!Aパート序盤の早乙女の動きめっちゃ良かった。

ちょっと右に身体預けて、反動で踵を返して部屋から出ていく。呆然自失の早乙女の足元がおぼつかない感じをうまく表現してる。俺もパチンコで5万ぐらい負けたらこんな感じになるからよくわかる。だれが書いたかは分からんな~
レイアウト
![23]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/f/5/f550ceee-s.jpg)
パースが効いて奥行きが出ている画面。安定感がある。なんか良いですよね、なんでだろう。なんか良いけど、パースが効いてる、で終わらすとちょっとアレじゃん。もうちょっと踏み込みたい。画面左、屏風あたりの空間が気になる。
写真の構図-三角構図
http://space.geocities.jp/kawananoriyuki001/kouzu.html#sankaku


なんかこじつけっぽくて、これで良いのか悩んだけど、3人が安定しているからかなと。じゃあ、左側の空間はなんのためにあるんだよとか思ったんだけど、これは消失点の問題かなと思う。消失点は、糸目おばさん付近にあって、糸目おばさんを中心にすると、空間が大体同じになる。だから安定してるのかなーと思いました。いろいろ読みましたが、ぶっちゃけ、よく分かんないです。
賭ケグルイは、30%の絶妙さを描写不足で壊している
「投票ジャンケン」は、その投票状況にもよりますが、最終戦で夢子がチョキを引ける確率は、約27%ぐらい。つまり、普通のじゃんけんとほぼ変わらないところまで、持ち込めた、というわけです。この確率の絶妙さには感銘しましたが、これを描写していないことで全てが台無しになっている。描写すれば、ああ、これぐらいは引いて当然とも思えるものなのに、なぜ描写していないのか。
アニメ制作スタッフに起因するのか、それとも原作から、このような仕組みなのかを知りたくて、1、2巻だけ購入しました。結論から言うと、原作がギャンブル漫画に必要な描写をしてない。
で、そもそも、ギャンブル漫画には何が必要なのか?
大雑把に以下のような描写が必要と思う。
1、ギャンブルの説明
2、最善手に迫るための伏線描写
→(a)キャラの思考
→(b)観察
→(c)行為
3、最善手のバラシ(ネタバラシ)
1は当然として、本題は2から。最善手とは「どのような手を使えば、勝てる勝算が大きくなるか」みたいなものだと思ってください。今回のケースだと、「手の偏りを知ること」ですよね。最善手に至るまでは、夢子は周りを観察していないように描写される。たとえば、投票状況を伺ったり、投票場を見つめたりする描写がない。そして、思考の描写も少ない。とうぜん、キャラの思考をすべて描くことは、ネタバラシですので、ありえません。ですが、「(敵味方どちらも)何を考えて、この手に至ったのか?」という思考を描いておかないと、3のネタバラシが効果的に働かない。夢子は「投票ジャンケン」の間、ずっと笑顔のままです。これは早乙女からすれば、やや不気味に写るはず。まあ、これぐらいは、早乙女が調子こいてたから、見過ごしたということで理解できる。ただ、夢子本人の思考が、独白や行動どちらでも、まったく描写されないのは、もはや伏線を張れていない状態と同義です。
最善手へと至る思考の過程(ミスリードにしろ)を描かない、伏線を貼らない。これは、ギャンブル漫画を放棄していると言ってもいい。同作者のドミニウム第一編のほうが、伏線をきちんと貼っている。
ドミニウム
2巻のインディアンポーカーにも言いたいことあるんですよ。2枚インディアンポーカーであった必要性はあるのかなあ。イカサマ合戦になってしまって、そもそもこの設定必要だったのか、と感じざるを得ない。イカサマ合戦じたいになるのはいいんですけど、元のゲーム性をガン無視で進行していくというのは、もうなんか、それを選んだ意味がない。
最初に言いましたけど、最後に夢子がチョキを持ってこれる確率が30%あるというのは、本当に絶妙なんですよ。そんなにないと読者も早乙女も思い込んでいますから。これが活かせないのは、もったいないとしか言いようがない。
アニメ制作スタッフに起因するのか、それとも原作から、このような仕組みなのかを知りたくて、1、2巻だけ購入しました。結論から言うと、原作がギャンブル漫画に必要な描写をしてない。
で、そもそも、ギャンブル漫画には何が必要なのか?
大雑把に以下のような描写が必要と思う。
1、ギャンブルの説明
2、最善手に迫るための伏線描写
→(a)キャラの思考
→(b)観察
→(c)行為
3、最善手のバラシ(ネタバラシ)
1は当然として、本題は2から。最善手とは「どのような手を使えば、勝てる勝算が大きくなるか」みたいなものだと思ってください。今回のケースだと、「手の偏りを知ること」ですよね。最善手に至るまでは、夢子は周りを観察していないように描写される。たとえば、投票状況を伺ったり、投票場を見つめたりする描写がない。そして、思考の描写も少ない。とうぜん、キャラの思考をすべて描くことは、ネタバラシですので、ありえません。ですが、「(敵味方どちらも)何を考えて、この手に至ったのか?」という思考を描いておかないと、3のネタバラシが効果的に働かない。夢子は「投票ジャンケン」の間、ずっと笑顔のままです。これは早乙女からすれば、やや不気味に写るはず。まあ、これぐらいは、早乙女が調子こいてたから、見過ごしたということで理解できる。ただ、夢子本人の思考が、独白や行動どちらでも、まったく描写されないのは、もはや伏線を張れていない状態と同義です。
最善手へと至る思考の過程(ミスリードにしろ)を描かない、伏線を貼らない。これは、ギャンブル漫画を放棄していると言ってもいい。同作者のドミニウム第一編のほうが、伏線をきちんと貼っている。
ドミニウム
2巻のインディアンポーカーにも言いたいことあるんですよ。2枚インディアンポーカーであった必要性はあるのかなあ。イカサマ合戦になってしまって、そもそもこの設定必要だったのか、と感じざるを得ない。イカサマ合戦じたいになるのはいいんですけど、元のゲーム性をガン無視で進行していくというのは、もうなんか、それを選んだ意味がない。
最初に言いましたけど、最後に夢子がチョキを持ってこれる確率が30%あるというのは、本当に絶妙なんですよ。そんなにないと読者も早乙女も思い込んでいますから。これが活かせないのは、もったいないとしか言いようがない。
勝利に貪欲でないギャンブルは面白くない
ギャンブルは何かを賭け、何かを得るものです。高レートになればなるほど、敵が強くなればなるほど、得るものは大きくなっていき、リスクも高まる。で、表題の「勝利に貪欲でないギャンブル」というのは、簡単にいうと、ギャンブル中毒のことです。賭け事をする際に、そのリスク故に興奮し勝ち負けはどちらでも良い。これはギャンブルの側面の一つではありますが、正面ではありません。
面白いギャンブル漫画に共通していることって、「勝利に貪欲だ」と思うんですよ。とにかく、勝てれば、何をしても良い。過程がどうあれ、勝利すれば良い。相手の裏を読み、イカサマをし、またはイカサマを逆手に取って、果ては勝負じたいには負けて命をもぎ取る。


(嘘喰い37巻より引用)
たとえば、迫稔雄による「嘘喰い」では、「何かを得ようとすると、それ相応の対価がいる」というセリフが多用されるのですが、これがギャンブルの本質と思います。プロトポリス編で、ある勝利のために、その勝負とは関係ない簡単なギャンブルで、なんと主人公・獏は指を落とします。この勝負に拘っている、必死である、そういった事を敵陣営に思い込ませる。結果、獏の作戦は成功。「対価」という概念は、ギャンブル漫画では以前から存在していましたが、たぶん「嘘喰い」で初めて明確に描写されたんじゃないかな。

(同37巻より引用)
ギャンブル中毒みたいな漫画は、何か違うな、面白くねえなと感じる。こいつ勝つ気ねえのか、アホかと思う。と同時に、そういう態度って凡人側(もしくは敵勢力側)なんですよ。「勝たなくても、この演出が見れた(興奮できた)」と言って、50k投資して、40k回収して「マイナス減って良かった」みたいに喜ぶ凡人が漫画に出てきても面白くない。相手に対してのアジテートはブラフであって欲しいし、くだらねえひと言も何かの伏線であって欲しい。ギャンブルに狂ってるフリをして、実はまったく狂っていない。すべての言動を勝ちに繋げて欲しい。そういう思いがある。
7月から始まるギャンブル・アニメに、「賭ケグルイ」というのがあります。タイトルから見ちゃうと、「賭ケグルイ」はギャンブル中毒者っぽいんですが、こればっかりは、まあ見てみな分からん。ただ、けして「勝てなくても、リスクに身をおいて楽しんでいる」凡人側に来て欲しくない。そんな変な思いがあります。
面白いギャンブル漫画に共通していることって、「勝利に貪欲だ」と思うんですよ。とにかく、勝てれば、何をしても良い。過程がどうあれ、勝利すれば良い。相手の裏を読み、イカサマをし、またはイカサマを逆手に取って、果ては勝負じたいには負けて命をもぎ取る。


(嘘喰い37巻より引用)
たとえば、迫稔雄による「嘘喰い」では、「何かを得ようとすると、それ相応の対価がいる」というセリフが多用されるのですが、これがギャンブルの本質と思います。プロトポリス編で、ある勝利のために、その勝負とは関係ない簡単なギャンブルで、なんと主人公・獏は指を落とします。この勝負に拘っている、必死である、そういった事を敵陣営に思い込ませる。結果、獏の作戦は成功。「対価」という概念は、ギャンブル漫画では以前から存在していましたが、たぶん「嘘喰い」で初めて明確に描写されたんじゃないかな。

(同37巻より引用)
ギャンブル中毒みたいな漫画は、何か違うな、面白くねえなと感じる。こいつ勝つ気ねえのか、アホかと思う。と同時に、そういう態度って凡人側(もしくは敵勢力側)なんですよ。「勝たなくても、この演出が見れた(興奮できた)」と言って、50k投資して、40k回収して「マイナス減って良かった」みたいに喜ぶ凡人が漫画に出てきても面白くない。相手に対してのアジテートはブラフであって欲しいし、くだらねえひと言も何かの伏線であって欲しい。ギャンブルに狂ってるフリをして、実はまったく狂っていない。すべての言動を勝ちに繋げて欲しい。そういう思いがある。
7月から始まるギャンブル・アニメに、「賭ケグルイ」というのがあります。タイトルから見ちゃうと、「賭ケグルイ」はギャンブル中毒者っぽいんですが、こればっかりは、まあ見てみな分からん。ただ、けして「勝てなくても、リスクに身をおいて楽しんでいる」凡人側に来て欲しくない。そんな変な思いがあります。
けものフレンズの開放感
どうも、便乗シリーズ第二弾です。「けものフレンズ」は3話が一番好きです。
あらかたの感想・批評は出たと思います。ロボやセルリアンのSF感や、ジャパリパークの不穏な感じとかはもう語り尽くされていると思うんで、僕は別の視点から言及したいと思う。
実際見たところ、よく言われる不穏さとかそういう事を僕は感じなかった。ロボについても、人がいない錆ついたジャパリパークについても、不穏な感じはさほど受けず、むしろ、誰もいない廃墟を、自分だけの世界として巡ることに、自由さ・開放感を感じていました。
そのけもフレで感じた手触りと似ていたのは、
「ドラえもん のび太の鉄人兵団」と「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」などです。


鏡の世界では、あべこべな事と無人以外は、元の世界と何も変わらない。何をしても全て自由な世界でした。買い物に行くシーンが良いんですよ。レジ通すんだけど、けっきょくみんなタダっていう。空き地で、焚き火しても怒られない。こんな風に自由だけれど、それにつきまとうものもある。

それは、自衛という義務です。他の惑星から来たロボットたちはこの鏡世界を地球と勘違いし、攻め込んできますよね。ここで、ドラえもんたちは、自分の身を守らないといけない。だから、ロボット感知器みたいな線を引いたり、やまびこやまを置いたりして自衛する。
![45]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/c/d/cd55ba76-s.jpg)
![17]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/1/a/1a0987e5-s.jpg)
「ビューティフル・ドリーマー」の『夢世界』も同じく、あたるたちは好き勝手に廃墟化した町で遊びまくります。ただ、食料の管理はあたる母の許可制と、規則を設けて義務としている。
要するに、これら2つは、自分の好きなように生きていい、そういう世界ですよね。そこには、自由さから生じる義務(自衛)や責任もあるけども、それを差し置いても、得がたい「自由さ」がある。
けもフレも、構造としては、これらとほとんど同じなんですよ。かばんちゃんとサーバルがいる。で、彼らは、何をしてもいい。かばんちゃんは自分が何のフレンズか分からないから、自分探しの旅へと出かけるわけですが、その道中もサバイバルですよね。やっぱり、自分の身は自分とサーバルで守りつつ、そして助けられつつという感じで、やはり構造は似ている。
けもフレの大ヒット、大人気の根底には、こういった自由さ・開放感があると思うんだけど、触れている文章がなかったので書きました。まあ、ぶっちゃけると、森恒二「自殺島」がもっとも「けものフレンズ」と近いんですよ。あのサバイバル感と、作者の自己体験を挿入するところとか、めっちゃ近い。気が向いたら続きを書くかも。
あらかたの感想・批評は出たと思います。ロボやセルリアンのSF感や、ジャパリパークの不穏な感じとかはもう語り尽くされていると思うんで、僕は別の視点から言及したいと思う。
実際見たところ、よく言われる不穏さとかそういう事を僕は感じなかった。ロボについても、人がいない錆ついたジャパリパークについても、不穏な感じはさほど受けず、むしろ、誰もいない廃墟を、自分だけの世界として巡ることに、自由さ・開放感を感じていました。
そのけもフレで感じた手触りと似ていたのは、
「ドラえもん のび太の鉄人兵団」と「うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー」などです。


鏡の世界では、あべこべな事と無人以外は、元の世界と何も変わらない。何をしても全て自由な世界でした。買い物に行くシーンが良いんですよ。レジ通すんだけど、けっきょくみんなタダっていう。空き地で、焚き火しても怒られない。こんな風に自由だけれど、それにつきまとうものもある。

それは、自衛という義務です。他の惑星から来たロボットたちはこの鏡世界を地球と勘違いし、攻め込んできますよね。ここで、ドラえもんたちは、自分の身を守らないといけない。だから、ロボット感知器みたいな線を引いたり、やまびこやまを置いたりして自衛する。
![45]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/c/d/cd55ba76-s.jpg)
![17]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/1/a/1a0987e5-s.jpg)
「ビューティフル・ドリーマー」の『夢世界』も同じく、あたるたちは好き勝手に廃墟化した町で遊びまくります。ただ、食料の管理はあたる母の許可制と、規則を設けて義務としている。
要するに、これら2つは、自分の好きなように生きていい、そういう世界ですよね。そこには、自由さから生じる義務(自衛)や責任もあるけども、それを差し置いても、得がたい「自由さ」がある。
けもフレも、構造としては、これらとほとんど同じなんですよ。かばんちゃんとサーバルがいる。で、彼らは、何をしてもいい。かばんちゃんは自分が何のフレンズか分からないから、自分探しの旅へと出かけるわけですが、その道中もサバイバルですよね。やっぱり、自分の身は自分とサーバルで守りつつ、そして助けられつつという感じで、やはり構造は似ている。
けもフレの大ヒット、大人気の根底には、こういった自由さ・開放感があると思うんだけど、触れている文章がなかったので書きました。まあ、ぶっちゃけると、森恒二「自殺島」がもっとも「けものフレンズ」と近いんですよ。あのサバイバル感と、作者の自己体験を挿入するところとか、めっちゃ近い。気が向いたら続きを書くかも。
冴えない彼女の育てかた♭1話
冴えカノ2期です
まあぶっちゃけ、ぼくは1期で満足しきっていて(彼らの旅路はこれから続いていくんだ的なエンドで良いと思った)、2期はいらない、必要ではない、蛇足じゃねえかなあと。そういう考えの元、2期を見たわけですが、必要かもしれねえ、いや微妙だなあっていうのが、今の率直な感想です。
先に言い訳しておきますが、考えながらに書くので、文章が長くなる。3行以上読めない人ばかりでしょう。だから、メイドラの記事と同じく、読み飛ばして良いです。たぶん面白くないんで。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
冴えカノの面白い部分は、ゲーム制作の中での衝突やその解決、まあそういった所だと思うんですが、2期1話でも結構、普段見過ごされがちな所に突っ込んで作ってますよね。


1年前に、エリリは倫理くんに勧められて、霞詩子の「恋するメトロノーム」を読み感動した、そして作者にも敬意を抱いた。サインを欲しがり、本棚に丁寧に飾った。そのラノベも含めて倫理くんと語り合いと思う中で、屋上でイチャラブする女、詩羽先輩が登場し、彼女の存在にひどくイラつき、ドギツく当たるわけですが、なんと詩羽先輩は、作者、霞詩子その人であった。で、葛藤するわけです。


エリリにとっては、作家としての霞詩子はサインを欲しがるほどに大好きだけれど、現実でトモヤとイチャラブされる詩羽先輩は嫌い。嫌いというか、私のトモヤを取るんじゃねえみたいな、嫉妬心がある。こりゃあ、「作者と作品の関係」について、よく踏み込んでるなと思う。
インターネットが発達し、SNSで作者が発信できるようになると、僕らはたびたび、幻滅しました。ドギツいネトウヨ発言を日々垂れ流すアニメの作画監督とか、五体不満足で、立派な本を出しといたくせに、不貞行為をしてネットでは言い訳を繰り返す人とか、まあ数知れません。こういったのは、ハロー効果っていいますね。

で、エリリは、自分のプライドとして、詩羽先輩には頭を下げてまでサインをもらいたくない。「作品は好きだけれど、あいつは認めたくない」と。そんな中、詩羽先輩も、エリリの存在(私の倫理くんを困らせて!)に苛立ち、彼女の美術部の個人部屋へと赴きます。で、詩羽先輩もエリリが同人作家であることに気づく、いや、そんなことよりも衝撃だった、彼女のイラストの妙を認めざるを得なかったのは、イーゼルに立て掛けられていた、キャンパスの絵でしょう。


詩羽先輩はそのとき、素直に感動してしまった。作者がいかに偏屈であっても、クズであっても、どうであれ、圧倒的なものを見せられて感動してしまえば、素直に認めざるをえない。「作者と作品は分ける」というよりも、「作品がすさまじければ、作家がどうとか関係ない」という風に判断をした。そして、1年後に、お互いにサインを求めた。これは、「作者と作品の関係」に対する一つの答えですよね、素直になれよと、それがよく描けていたと思う。
「冴えヒロ」と呟いた人を片っ端からブロックしていく、どっかの難ありキャラクターデザイナーも、僕は絵に惚れているので、まあ関係ありません。そういうことですよね。
まあぶっちゃけ、ぼくは1期で満足しきっていて(彼らの旅路はこれから続いていくんだ的なエンドで良いと思った)、2期はいらない、必要ではない、蛇足じゃねえかなあと。そういう考えの元、2期を見たわけですが、必要かもしれねえ、いや微妙だなあっていうのが、今の率直な感想です。
先に言い訳しておきますが、考えながらに書くので、文章が長くなる。3行以上読めない人ばかりでしょう。だから、メイドラの記事と同じく、読み飛ばして良いです。たぶん面白くないんで。
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冴えカノの面白い部分は、ゲーム制作の中での衝突やその解決、まあそういった所だと思うんですが、2期1話でも結構、普段見過ごされがちな所に突っ込んで作ってますよね。


1年前に、エリリは倫理くんに勧められて、霞詩子の「恋するメトロノーム」を読み感動した、そして作者にも敬意を抱いた。サインを欲しがり、本棚に丁寧に飾った。そのラノベも含めて倫理くんと語り合いと思う中で、屋上でイチャラブする女、詩羽先輩が登場し、彼女の存在にひどくイラつき、ドギツく当たるわけですが、なんと詩羽先輩は、作者、霞詩子その人であった。で、葛藤するわけです。


エリリにとっては、作家としての霞詩子はサインを欲しがるほどに大好きだけれど、現実でトモヤとイチャラブされる詩羽先輩は嫌い。嫌いというか、私のトモヤを取るんじゃねえみたいな、嫉妬心がある。こりゃあ、「作者と作品の関係」について、よく踏み込んでるなと思う。
インターネットが発達し、SNSで作者が発信できるようになると、僕らはたびたび、幻滅しました。ドギツいネトウヨ発言を日々垂れ流すアニメの作画監督とか、五体不満足で、立派な本を出しといたくせに、不貞行為をしてネットでは言い訳を繰り返す人とか、まあ数知れません。こういったのは、ハロー効果っていいますね。

で、エリリは、自分のプライドとして、詩羽先輩には頭を下げてまでサインをもらいたくない。「作品は好きだけれど、あいつは認めたくない」と。そんな中、詩羽先輩も、エリリの存在(私の倫理くんを困らせて!)に苛立ち、彼女の美術部の個人部屋へと赴きます。で、詩羽先輩もエリリが同人作家であることに気づく、いや、そんなことよりも衝撃だった、彼女のイラストの妙を認めざるを得なかったのは、イーゼルに立て掛けられていた、キャンパスの絵でしょう。


詩羽先輩はそのとき、素直に感動してしまった。作者がいかに偏屈であっても、クズであっても、どうであれ、圧倒的なものを見せられて感動してしまえば、素直に認めざるをえない。「作者と作品は分ける」というよりも、「作品がすさまじければ、作家がどうとか関係ない」という風に判断をした。そして、1年後に、お互いにサインを求めた。これは、「作者と作品の関係」に対する一つの答えですよね、素直になれよと、それがよく描けていたと思う。
「冴えヒロ」と呟いた人を片っ端からブロックしていく、どっかの難ありキャラクターデザイナーも、僕は絵に惚れているので、まあ関係ありません。そういうことですよね。
「このすば」から見る、アニメのテンポ
映像における”テンポ”という言葉は、たびたび物議を醸す。極端な人は使うなとまでも言う。しかし、実際にテンポはあると思う。
・アクアじゃんけん

(「この素晴らしい世界に祝福を!2」 07話)
2期07話のこのシーンは、非常にテンポが良いと感じた。どうだろうか。
アクアがブレッシングで運を上げた後、カズマは卑怯だと言い、じゃんけんへと移る。じゃんけんへと移った後、アクアは負けている。そして、なんでよ~と理不尽さを嘆きカズマにすがる。
この内容だが、本編では、すさまじく省略されている。

じゃんけんをする時には2人の姿はなく、声のみ(OFF状態)の画面となっている。代わりに馬車のおっさんのあくびが映る。すなわち、彼らがどのようにじゃんけんをしたかは一切描写されていない。

そして結果すら示されない。示されるのは「アクアの泣き顔」であり、アクアの理不尽な訴えである。これだけだが、「アクアが負けた」と素直に分かる。
1~4カット目の流れと省略(カッコ赤文字部分)をまとめると以下のようになる。
じゃんけんするぞ!準備中:1カット目
↓
じゃんけんの合図:2カット目
↓
(じゃんけんの様子)
↓
(じゃんけんの結果、負けた手など)
↓
アクアの泣き顔:3カット目
↓
アクアの嘆き、カズマのドヤ顔:4カット目
こういう感じである。つまり、なんと、じゃんけんがメインのシーンなのに、それについては一切描写されていない。どんな手を出したかの結果すら(カズマはチョキっぽいが)描写せずに、「アクアの泣き顔」でじゃんけんの全てを語る。まあ言ってしまえば、単純な省略コンテかもしれない。しかし、この「省略」にこそ、テンポは隠れていると思う。
「このすば」の中で、テンポと関連して際立っていたのが次のシーン

(「この素晴らしい世界に祝福を!」1期04話)
マッチカット+Lカット
これは少し特殊なつなぎ方
マッチカット(似たものでカットをつなぐ、ここではアクアの髪の輪っか)で場面をつないだ上に、音声がそのまま次のカットに続く。後者の繋ぎ方を「Lカット」と呼んだりする。詳しくは下記参照。
(スプリット編集とは何か-大匙屋)


このように、馬小屋からギルドへと、ある場所からまったく別の場所へと、スムーズに場面転換を行う。ああ、ここの流れは何度見ても美しいです。「アクアじゃんけん」では時間が省略されたが、ここでは、時間(夜から昼へ)と場所(馬小屋からギルドへ)の移動が省略されている。
つまり、
穀潰しが!
↓
アクア泣く:1カット目
↓
カズマ「回復魔法はよ」、アクア「それだけはイヤ!」:2カット目
↓
(馬小屋でのすったもんだ)
↓
(とりあえず寝て起きて、ギルドへ到着)
↓
存在意義を奪わないでくれとアクア懇願:3カット目
↓
ダクネスめぐみんに、回復魔法の件を再び説明:4カット目
という感じ。4カット目も、やや省略気味。「ダクネスめぐみんの2人に、アクアが再び説明している状況」を省略している。仮定だけど、わざわざ、めぐみんダクネスを呼んだり、状況を示唆するカットを挟むと、やや冗長になってしまうかもしれない。
ここのカット割りは天才的、というか天才
1つ目の例では、「時間」を省略し、2つ目の例では、「時間」と「場所の移動」と「状況」の3つを省略している。映像における”省略”といえば、何かと「時間」ですが、それ以外にも色々とあることが分かると思う。
さて、

(SDダクネスもカワイイ)
「省略するとテンポがよくなる」では、あまりに飛躍した結論です
そこで、「そもそも、何かしらを省略すると、映像はどうなるのか?」という事を考えたい
省略をすることによって、何が生まれるかですが、まず、予測できる状況の説明を省いて、映像の流れがスムーズになる。アクアじゃんけんでは、「まあ、アクアは負けるだろう」、と視聴者は既に予測をしていて、この分かりきった状況を、わざわざ長ったらしく演出すると冗長になる。これがまずあるだろうと。そんで、もう一つあるのは、見てる側が情報の速度に付いていこう、とする点だ。2つ目の例で、僕らに映像の意味が分かるのは、最終カットに来てから。つまり、展開を予測できずに、僕らは遅れを取り、映像に追いつこうと努力する。それゆえ、没入感が生まれる。
この2つから探るに、大事なキーワードは、「予測」と「省略」で、
これらの関係が、テンポの良さ・悪さを生み出している主な原因だろうと、僕は推測する。
<参考文献>
・『四月は君の嘘』20話の演出を語る - OTACTURE
・スプリット編集とは何か-大匙屋
・アクアじゃんけん

(「この素晴らしい世界に祝福を!2」 07話)
2期07話のこのシーンは、非常にテンポが良いと感じた。どうだろうか。
アクアがブレッシングで運を上げた後、カズマは卑怯だと言い、じゃんけんへと移る。じゃんけんへと移った後、アクアは負けている。そして、なんでよ~と理不尽さを嘆きカズマにすがる。
この内容だが、本編では、すさまじく省略されている。

じゃんけんをする時には2人の姿はなく、声のみ(OFF状態)の画面となっている。代わりに馬車のおっさんのあくびが映る。すなわち、彼らがどのようにじゃんけんをしたかは一切描写されていない。

そして結果すら示されない。示されるのは「アクアの泣き顔」であり、アクアの理不尽な訴えである。これだけだが、「アクアが負けた」と素直に分かる。
1~4カット目の流れと省略(カッコ赤文字部分)をまとめると以下のようになる。
じゃんけんするぞ!準備中:1カット目
↓
じゃんけんの合図:2カット目
↓
(じゃんけんの様子)
↓
(じゃんけんの結果、負けた手など)
↓
アクアの泣き顔:3カット目
↓
アクアの嘆き、カズマのドヤ顔:4カット目
こういう感じである。つまり、なんと、じゃんけんがメインのシーンなのに、それについては一切描写されていない。どんな手を出したかの結果すら(カズマはチョキっぽいが)描写せずに、「アクアの泣き顔」でじゃんけんの全てを語る。まあ言ってしまえば、単純な省略コンテかもしれない。しかし、この「省略」にこそ、テンポは隠れていると思う。
「このすば」の中で、テンポと関連して際立っていたのが次のシーン

(「この素晴らしい世界に祝福を!」1期04話)
マッチカット+Lカット
これは少し特殊なつなぎ方
マッチカット(似たものでカットをつなぐ、ここではアクアの髪の輪っか)で場面をつないだ上に、音声がそのまま次のカットに続く。後者の繋ぎ方を「Lカット」と呼んだりする。詳しくは下記参照。
(スプリット編集とは何か-大匙屋)


このように、馬小屋からギルドへと、ある場所からまったく別の場所へと、スムーズに場面転換を行う。ああ、ここの流れは何度見ても美しいです。「アクアじゃんけん」では時間が省略されたが、ここでは、時間(夜から昼へ)と場所(馬小屋からギルドへ)の移動が省略されている。
つまり、
穀潰しが!
↓
アクア泣く:1カット目
↓
カズマ「回復魔法はよ」、アクア「それだけはイヤ!」:2カット目
↓
(馬小屋でのすったもんだ)
↓
(とりあえず寝て起きて、ギルドへ到着)
↓
存在意義を奪わないでくれとアクア懇願:3カット目
↓
ダクネスめぐみんに、回復魔法の件を再び説明:4カット目
という感じ。4カット目も、やや省略気味。「ダクネスめぐみんの2人に、アクアが再び説明している状況」を省略している。仮定だけど、わざわざ、めぐみんダクネスを呼んだり、状況を示唆するカットを挟むと、やや冗長になってしまうかもしれない。
ここのカット割りは天才的、というか天才
1つ目の例では、「時間」を省略し、2つ目の例では、「時間」と「場所の移動」と「状況」の3つを省略している。映像における”省略”といえば、何かと「時間」ですが、それ以外にも色々とあることが分かると思う。
さて、

(SDダクネスもカワイイ)
「省略するとテンポがよくなる」では、あまりに飛躍した結論です
そこで、「そもそも、何かしらを省略すると、映像はどうなるのか?」という事を考えたい
省略をすることによって、何が生まれるかですが、まず、予測できる状況の説明を省いて、映像の流れがスムーズになる。アクアじゃんけんでは、「まあ、アクアは負けるだろう」、と視聴者は既に予測をしていて、この分かりきった状況を、わざわざ長ったらしく演出すると冗長になる。これがまずあるだろうと。そんで、もう一つあるのは、見てる側が情報の速度に付いていこう、とする点だ。2つ目の例で、僕らに映像の意味が分かるのは、最終カットに来てから。つまり、展開を予測できずに、僕らは遅れを取り、映像に追いつこうと努力する。それゆえ、没入感が生まれる。
この2つから探るに、大事なキーワードは、「予測」と「省略」で、
これらの関係が、テンポの良さ・悪さを生み出している主な原因だろうと、僕は推測する。
<参考文献>
・『四月は君の嘘』20話の演出を語る - OTACTURE
・スプリット編集とは何か-大匙屋
「私がモテてどうすんだ」のイメージBG
久しぶりにグイグイ引き込まれるアニメでした。こういうギャグアニメ好き。
01話 脚本:横手美智子 絵コンテ/演出:石踊宏
内容は単純ですが、カット割りやタイミングに相当気を使っている。そういう印象を受けました。そんで、これほどシンプルな内容でもダレないのは、イメージBGのおかげだと僕は思った。
![18]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/c/5/c587d0a5-s.jpg)
![22]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/1/e/1e671316-s.jpg)
![32]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/4/6/46183cad-s.jpg)
![57]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/8/1/81169298-s.jpg)
![46]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/d/b/db27630a-s.jpg)
![08]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/e/4/e4b39857-s.jpg)
こういったイメージBGが入ることで、それまであった普通の画面は一度リセットされる。イケメンやカエちゃんのノーマル顔を、ずっとディテールが多いまま描くと、どうしても映像は平坦になります。「カバネリ」 なんかが典型例だと思うんですけど、あれはどこが強調したい部分なのか分かりにくいんですよ。クオリティは高いんですが、画面に抑揚はなく平坦になってしまった。
![44]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/3/3/332b227b-s.jpg)
![56]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/7/c/7caf0971-s.jpg)
![00]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/c/f/cfdfded8-s.jpg)
![20]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/6/5/65a21744-s.jpg)
![28]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/b/0/b033b28b-s.jpg)
「私モテ」は、イメージBGやSDキャラのシーンを入れることで、映像に緩急をつけ、伝えたい部分を強調するのが上手い。野球で言えば、杉内俊哉みたいな緩急の付け方ですね。
あと、個人的に、小林ゆうはけっこう好きなんですよ、横島先生とか咲の加治木先輩とか。シリアスからギャグまで、芝居が上手いですよね。あと、ルカ子もいいよなあ。

映画『シン・ゴジラ』公式サイト http://www.shin-godzilla.jp/index.html
以下、ネタバレを含みますので未見の方は注意(※スマホではトップに記事の文章が出てしまうので、この辺で少しネタバレ防止用の文章を作っときます。読まないで大丈夫です、スルーしてください。後、レイアウトやカット割り、映像方面については、別記事で言及します)
-ゴジラの恐怖は「進化」にあり-
ゴジラは最初小さい姿で上陸します。小さいヤツだったから、なんだこいつ弱そうってなったんですが、これがそもそもの罠。小さいヤツって「ジュラシックパーク」とかもそうですけど、どうしても観客は舐めてしまう。何だ弱そうだなと思っていたら、一瞬の内に何匹も現れるとか、でっかいティラノサウルスが現れるとか、そういう心の隙を付く。ハッと理解をした時には、目の前にデカイやつがいて恐怖でいっぱいになっている。
「シン・ゴジラ」では、まさしく「進化」がそれだった。油断をつくる最初のチビ。そもそも、予告編に出てたゴジラなんて全部デカイから、もう予告の時点から脳みそは操られていて、僕らの脳みそは勝手に、「最初から全長118.5Mのデカイやつが現れる」と決め込んでしまっていた。それが、実際はチビなんだから、油断してしまったわけです。
-愚かだったのは政治家だけか?-
前半部分は、主に縦割り行政に混乱する官僚や政治家を風刺します。それは、主人公が情報収集を依頼した後に、口を揃えて「どこの役所に言ったんだ?」と言ったセリフにも現れている通りです。「巨大不明生物などあり得ない」「生き物なら倒せるだろう」などと政治家は表面で判断してしまいます。ここで、観客は彼らの愚かさを滑稽に感じ嘲笑するわけですが、人間というのは馬鹿な生き物で、まるで自分のこととは思いません。
僕ら観客もこの滑稽な日本人の一員です。なぜ観客も滑稽なのか。それは、観客も「表面で」判断してしまった部分があるからです。そう、平泉成演じる里見臨時首相が就任した時に、観客の多くはこの男を「無能」と判断したはずです。前例がない危機的状況にもかかわらず、のんきにラーメンを食べる。官僚や政治家の早口とは対照的に、ゆったりとのんびり喋る。このような部分を見て、この男には誰一人期待をしていなかったはず。
しかし、核兵器が使用されるのを引き伸ばすよう外交努力をしてくれたのは、里見首相でした。結果的に、核兵器は使用されず、「ヤシオリ作戦」成功の一因となりました。さらに、ゴジラ対処後の国家構造の改革も視野に入れており、首相を引責辞任をします。彼は優秀な人間だったのです。
その姿見と表面的な行動から、観客は、里見首相に「無能」という判を押しました。それは、ゴジラのおどろおどろしい姿を見ても、「しょせん生き物だから武器で倒せる」と息巻いた政治家と何ら変わりません。「表面で」判断する愚かな人間という意味で、同じなのです。ですから、縦割りに戸惑う政治家だけが滑稽なのではなく、里見首相への浅はかな判断を下した観客も含めて、表面で判断してしまう日本への姿勢、その愚かさが滑稽であり、現代日本への風刺になっている。
-科学的な厳密さは必要ではない-
さて、ラストのゴジラを倒すシーンを中心に、科学的な厳密さに対する批判を散見しました。しかし、それは明らかな間違いです。まず、ヤシオリ作戦のシーンでは「血液凝固剤」の中身がどうのこうの、ゴジラとの反応がどうのこうのは、まったく重要ではありません。重要なのは、「血液凝固剤を使って」戦うことです。
ゴジラを倒すための血液凝固剤を作るには、牧元教授が残した複雑なデータを解析する必要がありました。巨災対のメンバーは寝る間を惜しんで、矢口プランを完成させようとします。綿密な情報収集を行い、ついに牧元教授の残したデータを解読し、血液凝固剤を完成させます。
彼らは、しぶとく熟慮し答えを導き出しました。正解を出せるかどうか分からない中、諦めずに考えました。これが重要。すなわち、矢口プランは「不退転」を示しています。対して、国連決議が下った核爆弾投下は、思考のかけらも、諦めない心もありません。自分たちが持つ最大火力、「核爆弾を使えば解決するだろう」というのは、第二次世界大戦の歴史を見ても分かるとおり人間の愚かな選択です。欧州米は早々に対処を諦め、人間の最終兵器に頼ってしまった。すなわち、シンゴジラにおける核爆弾は「諦念」を表しています。
名前を変えたヤシオリ作戦においても、矢口プランの持つ意味は変わりません。綿密に立てた作戦を信じ全員で取り組むことで、「(どんな災害や化物がきても)決して諦めないぞ」という意思表示をしています。これは、今作において、最も大きく、最も大切なテーマです。科学的な厳密さに対する批判は、手塚治虫に「ブラックジャックの内容は医学的に間違っている」という手紙を送った医大生と同じと思います。
-リアルな死の描き方-
ヤシオリ作戦では、リアルな死が描かれました。自分はここで一番ショックを受けました。第一小隊は、ゴジラに血液凝固剤を投与している中、目覚めたゴジラの熱線によって一瞬で消滅します。
消滅するときの描写は、遠方から映すのみです。叫び声を入れることもなければ、カメラが現場に寄りもしない。にも関わらず、これがめっぽうリアルです。リアルになっているのは、音も描写もなく、想像力にお任せしているからです。具体的な一つ画面を描いてしまえば、それ以上の感情は湧きませんが、想像力は無限です。この手法を庵野監督はよく使うのですが、そのおかげで今回はより静かで生々しい死が描写されていました。
-完全生物と不完全生物の構図-
ゴジラは完全生物、究極の生命体として描かれます。人間の8倍の遺伝子情報をもち、アメーバみたいに自己分裂も可能な、死をも乗り越えた究極の存在です。対して、人間は前述のとおり愚かな判断や選択、行動を繰り返す、不完全な生命体です。このような「完全-不完全」の対比構造は度々見られました。
この対比構造は、「核兵器」と「ヤシオリ作戦」の構図と同じです。核兵器は反応さえ起これば、後は自動的に爆発します。つまり、人為的なミスが起こる可能性が極めて低い。一方、ヤシオリ作戦は一人一人の行動によって、成功するかどうかが大きく変わってくる作戦内容です。実際、第一小隊は目覚めたゴジラによって消滅してしまいました。控えていた第二・第三小隊がやられていたらと考えるとキリがなく、リスクは高すぎると言わざるを得ない。
そんなリスクも高く不完全なヤシオリ作戦を実行した矢口は、日本人の可能性、ひいては不完全な生命体が持つ可能性を信じたかったからです。そういう観点から、人間の可能性は完全生物をも倒しうるということを庵野は表現したかった。繰り返しになりますが、「巨大不明生物なんてありえない」と決め付けたが故に初動が遅れ、ギリギリまで外交努力に尽力した臨時首相を国民はその姿見で嘲笑い、無能な人物とレッテルを貼った。
そんな長年続いていたであろう、行き詰った国に牧元教授は絶望して、ゴジラへと姿を変えました。愚かな選択を繰り返すぐらいなら、誤りのない完璧な生物へと進化をした方がいい。牧の「私は好きにした。君らも好きにしろ」というのは、人間の可能性に対する選択と自分は解釈しました。牧元教授が不完全な生命体への希望を捨てたのと対象的に、矢口以下巨災対は最後まで人間の可能性を信じて作戦を指揮します。完全なものへ抵抗することにより「不完全なものに対する希望」、そういったものを庵野監督は描こうとしているのではないか、そう思いました。以上です。
01話 脚本:横手美智子 絵コンテ/演出:石踊宏
内容は単純ですが、カット割りやタイミングに相当気を使っている。そういう印象を受けました。そんで、これほどシンプルな内容でもダレないのは、イメージBGのおかげだと僕は思った。
![18]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/c/5/c587d0a5-s.jpg)
![22]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/1/e/1e671316-s.jpg)
![32]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/4/6/46183cad-s.jpg)
![57]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/8/1/81169298-s.jpg)
![46]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/d/b/db27630a-s.jpg)
![08]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/e/4/e4b39857-s.jpg)
こういったイメージBGが入ることで、それまであった普通の画面は一度リセットされる。イケメンやカエちゃんのノーマル顔を、ずっとディテールが多いまま描くと、どうしても映像は平坦になります。「カバネリ」 なんかが典型例だと思うんですけど、あれはどこが強調したい部分なのか分かりにくいんですよ。クオリティは高いんですが、画面に抑揚はなく平坦になってしまった。
![44]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/3/3/332b227b-s.jpg)
![56]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/7/c/7caf0971-s.jpg)
![00]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/c/f/cfdfded8-s.jpg)
![20]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/6/5/65a21744-s.jpg)
![28]](https://livedoor.blogimg.jp/ouritu_dora/imgs/b/0/b033b28b-s.jpg)
「私モテ」は、イメージBGやSDキャラのシーンを入れることで、映像に緩急をつけ、伝えたい部分を強調するのが上手い。野球で言えば、杉内俊哉みたいな緩急の付け方ですね。
あと、個人的に、小林ゆうはけっこう好きなんですよ、横島先生とか咲の加治木先輩とか。シリアスからギャグまで、芝居が上手いですよね。あと、ルカ子もいいよなあ。
不撓不屈の覚悟(シンゴジラ 感想)

映画『シン・ゴジラ』公式サイト http://www.shin-godzilla.jp/index.html
以下、ネタバレを含みますので未見の方は注意(※スマホではトップに記事の文章が出てしまうので、この辺で少しネタバレ防止用の文章を作っときます。読まないで大丈夫です、スルーしてください。後、レイアウトやカット割り、映像方面については、別記事で言及します)
-ゴジラの恐怖は「進化」にあり-
ゴジラは最初小さい姿で上陸します。小さいヤツだったから、なんだこいつ弱そうってなったんですが、これがそもそもの罠。小さいヤツって「ジュラシックパーク」とかもそうですけど、どうしても観客は舐めてしまう。何だ弱そうだなと思っていたら、一瞬の内に何匹も現れるとか、でっかいティラノサウルスが現れるとか、そういう心の隙を付く。ハッと理解をした時には、目の前にデカイやつがいて恐怖でいっぱいになっている。
「シン・ゴジラ」では、まさしく「進化」がそれだった。油断をつくる最初のチビ。そもそも、予告編に出てたゴジラなんて全部デカイから、もう予告の時点から脳みそは操られていて、僕らの脳みそは勝手に、「最初から全長118.5Mのデカイやつが現れる」と決め込んでしまっていた。それが、実際はチビなんだから、油断してしまったわけです。
-愚かだったのは政治家だけか?-
前半部分は、主に縦割り行政に混乱する官僚や政治家を風刺します。それは、主人公が情報収集を依頼した後に、口を揃えて「どこの役所に言ったんだ?」と言ったセリフにも現れている通りです。「巨大不明生物などあり得ない」「生き物なら倒せるだろう」などと政治家は表面で判断してしまいます。ここで、観客は彼らの愚かさを滑稽に感じ嘲笑するわけですが、人間というのは馬鹿な生き物で、まるで自分のこととは思いません。
僕ら観客もこの滑稽な日本人の一員です。なぜ観客も滑稽なのか。それは、観客も「表面で」判断してしまった部分があるからです。そう、平泉成演じる里見臨時首相が就任した時に、観客の多くはこの男を「無能」と判断したはずです。前例がない危機的状況にもかかわらず、のんきにラーメンを食べる。官僚や政治家の早口とは対照的に、ゆったりとのんびり喋る。このような部分を見て、この男には誰一人期待をしていなかったはず。
しかし、核兵器が使用されるのを引き伸ばすよう外交努力をしてくれたのは、里見首相でした。結果的に、核兵器は使用されず、「ヤシオリ作戦」成功の一因となりました。さらに、ゴジラ対処後の国家構造の改革も視野に入れており、首相を引責辞任をします。彼は優秀な人間だったのです。
その姿見と表面的な行動から、観客は、里見首相に「無能」という判を押しました。それは、ゴジラのおどろおどろしい姿を見ても、「しょせん生き物だから武器で倒せる」と息巻いた政治家と何ら変わりません。「表面で」判断する愚かな人間という意味で、同じなのです。ですから、縦割りに戸惑う政治家だけが滑稽なのではなく、里見首相への浅はかな判断を下した観客も含めて、表面で判断してしまう日本への姿勢、その愚かさが滑稽であり、現代日本への風刺になっている。
-科学的な厳密さは必要ではない-
さて、ラストのゴジラを倒すシーンを中心に、科学的な厳密さに対する批判を散見しました。しかし、それは明らかな間違いです。まず、ヤシオリ作戦のシーンでは「血液凝固剤」の中身がどうのこうの、ゴジラとの反応がどうのこうのは、まったく重要ではありません。重要なのは、「血液凝固剤を使って」戦うことです。
ゴジラを倒すための血液凝固剤を作るには、牧元教授が残した複雑なデータを解析する必要がありました。巨災対のメンバーは寝る間を惜しんで、矢口プランを完成させようとします。綿密な情報収集を行い、ついに牧元教授の残したデータを解読し、血液凝固剤を完成させます。
彼らは、しぶとく熟慮し答えを導き出しました。正解を出せるかどうか分からない中、諦めずに考えました。これが重要。すなわち、矢口プランは「不退転」を示しています。対して、国連決議が下った核爆弾投下は、思考のかけらも、諦めない心もありません。自分たちが持つ最大火力、「核爆弾を使えば解決するだろう」というのは、第二次世界大戦の歴史を見ても分かるとおり人間の愚かな選択です。欧州米は早々に対処を諦め、人間の最終兵器に頼ってしまった。すなわち、シンゴジラにおける核爆弾は「諦念」を表しています。
名前を変えたヤシオリ作戦においても、矢口プランの持つ意味は変わりません。綿密に立てた作戦を信じ全員で取り組むことで、「(どんな災害や化物がきても)決して諦めないぞ」という意思表示をしています。これは、今作において、最も大きく、最も大切なテーマです。科学的な厳密さに対する批判は、手塚治虫に「ブラックジャックの内容は医学的に間違っている」という手紙を送った医大生と同じと思います。
-リアルな死の描き方-
ヤシオリ作戦では、リアルな死が描かれました。自分はここで一番ショックを受けました。第一小隊は、ゴジラに血液凝固剤を投与している中、目覚めたゴジラの熱線によって一瞬で消滅します。
消滅するときの描写は、遠方から映すのみです。叫び声を入れることもなければ、カメラが現場に寄りもしない。にも関わらず、これがめっぽうリアルです。リアルになっているのは、音も描写もなく、想像力にお任せしているからです。具体的な一つ画面を描いてしまえば、それ以上の感情は湧きませんが、想像力は無限です。この手法を庵野監督はよく使うのですが、そのおかげで今回はより静かで生々しい死が描写されていました。
-完全生物と不完全生物の構図-
ゴジラは完全生物、究極の生命体として描かれます。人間の8倍の遺伝子情報をもち、アメーバみたいに自己分裂も可能な、死をも乗り越えた究極の存在です。対して、人間は前述のとおり愚かな判断や選択、行動を繰り返す、不完全な生命体です。このような「完全-不完全」の対比構造は度々見られました。
この対比構造は、「核兵器」と「ヤシオリ作戦」の構図と同じです。核兵器は反応さえ起これば、後は自動的に爆発します。つまり、人為的なミスが起こる可能性が極めて低い。一方、ヤシオリ作戦は一人一人の行動によって、成功するかどうかが大きく変わってくる作戦内容です。実際、第一小隊は目覚めたゴジラによって消滅してしまいました。控えていた第二・第三小隊がやられていたらと考えるとキリがなく、リスクは高すぎると言わざるを得ない。
そんなリスクも高く不完全なヤシオリ作戦を実行した矢口は、日本人の可能性、ひいては不完全な生命体が持つ可能性を信じたかったからです。そういう観点から、人間の可能性は完全生物をも倒しうるということを庵野は表現したかった。繰り返しになりますが、「巨大不明生物なんてありえない」と決め付けたが故に初動が遅れ、ギリギリまで外交努力に尽力した臨時首相を国民はその姿見で嘲笑い、無能な人物とレッテルを貼った。
そんな長年続いていたであろう、行き詰った国に牧元教授は絶望して、ゴジラへと姿を変えました。愚かな選択を繰り返すぐらいなら、誤りのない完璧な生物へと進化をした方がいい。牧の「私は好きにした。君らも好きにしろ」というのは、人間の可能性に対する選択と自分は解釈しました。牧元教授が不完全な生命体への希望を捨てたのと対象的に、矢口以下巨災対は最後まで人間の可能性を信じて作戦を指揮します。完全なものへ抵抗することにより「不完全なものに対する希望」、そういったものを庵野監督は描こうとしているのではないか、そう思いました。以上です。
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